劇場からの失踪-映画批評ブログ

映画をこよなく愛するArchによる映画批評

タトゥーは肌に罪と罰を刻み付ける『SKIN/スキン』劇場映画時評第19回

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 愛する者に出会い、レイシストは更生を誓う。

だが 刻まれたタトゥーが簡単には消えないように、

暴力と憎悪の連鎖は彼に更生を許さない。

人は変われるのか。人は変化の痛みに耐えられるのか。

白人至上主義者に最も至近距離に近づく緊張感がここにある。

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題名:『SKIN/スキン』
製作国:アメリカ
監督:ガイ・ナティーヴ監督
製作年:2019年

 

 本作は白人至上主義者として育てられたブライオン・ワイドナーが愛する女性との出会いを期に、悪行を悔いて団体を抜けて社会復帰するという実際にあった苦悩と贖罪の人生に基づいた作品だ。ブライオンを包むタトゥーの"消せない"という性質が象徴するように、白人至上主義団体を抜けることは容易ではない。その壮絶な更生までを道のりに我々は差別が何故生まれるのかを垣間見る。

 ガイ・ナティーヴ監督の短編「SKIN」の長編化でもある本作を紹介していこう。

 

 

差別が生まれる瞬間

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物語は松明を掲げながらスキンヘッドの団体が行進するシーンから始まる。時代が時代ならその様子は「魔女狩り」に間違われそうな異様な光景。その先頭を歩くのが本作の主人公ブライオン・ワイドナー(ジェイミー・ベル)だ。

白人至上主義団体「ヴィンランダーズ」に所属する彼は早くに親に捨てられ、組織のリーダーに拾われて立派な白人至上主義者として育て上げられた。本作はそんな彼が更生する苦悩に焦点が当てられているが、そこに触れる前に「何故白人至上主義者が生まれるのか」という点についてどう描かれているを語っていきたい。

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 これまで白人至上主義者、つまりネオナチ一派描いた作品として「アメリカンヒストリーX」や「グリーンルーム」があり、またKKKに潜入した黒人捜査官が主人公の「ブラック・ンズマン」といった作品も同じ括りに入れてもいいかもしれない。それら作品群と違っているのは白人至上主義団体の実態をリアルに描いているということだ。そう、本作はどう差別が行われているかという描写より、"どう差別が生まれるのか"ということをじっくり描いているのだ。

 印象的なのはギャビンが「ヴィンランダーズ」に加入してくるシーンだ。「ヴィンランダーズ」のリーダーはブライオン・ワイドナーを連れてある場所に向かう。そこには少年たちが屯していて、リーダーはギャビンに衣食住を与えてやるから我々の仲間になれと誘う。家出少年で今日の飯の充てもないギャビンに選択肢はない。そして仲間になったギャビンは"家族"という枠組みに収まり、白人至上主義者へと教育されていく。

差別とはつまり"教育"によって生まれるものだ。このシーンからは生まれながらにして白人至上主義者な子供など存在しないということが凄く伝わってくる。「ヴィンランダーズ」は一種のカルト教団のように"家族"という枠組みを用いて、家出した子供に衣食住を与えて白人至上主義者に洗脳していく。家族という枠組みが奉仕の強制、孤立への恐怖を助長させていき、そしてその"仲間意識"というものが差別の源になっていくのだ。

ここでのギャビンの姿はブライオンのかつての姿として描かれていて、ギャビンがスレイヤーを撃ち殺すところなど、短編のラストと全く同じ構図になっていて、悪い意味で"教育の賜物"になっている。

短編に強く描かれている"差別の継承"。それは環境や悪意ある者による"教育"が作り出した憎悪の円環である。

そして差別そのものも人間の性などではない。それは後天的なもので悪意ある者が作り出した教育や環境が作りだす価値観なのだ。

 

 

 

象徴としてのタトゥー

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本作においてタトゥーはブライオンを包んでいたペルソナであり、更生後の彼を苦しめる呪い。そして白人至上主義者の更生の難しさの象徴である。またタイトルの"肌"こそが現実における差別問題の中心であり、タトゥーもその一例でもあることも忘れてはいけない。後天的なものであるからこそ、その差別や偏見は一層強くなる。

 

 本作はまさに"更生"がタトゥーの除去手術が痛みを伴い、長い時間を掛けて行うものであるようにして描かれている。それはつまり、 タトゥーという外見的要素だけではなく、同時に中身の変革をしっかり描いているということだ。例えば本作の構成の中で唯一時系列をいじっているシーンとして、物語の合間にタトゥー除去手術のシーンが挟まれている。時系列でいえば、最後のワンシーン一歩手前の出来事。

 なぜこういった演出にしたかというと先程述べたように,更生の苦痛を物語とシンクロさせて表現しているのもあるが、それ以上に最後の一瞬に収束していく感覚を強めるためだろう。最後の一瞬、顔びっしりに刻まれていた忌まわしき過去の刻印が全て消し去り、愛する者の元を訪ねた男の表情に宿る一瞬のカタルシス。ここにこそ、暗い闇を藻搔くように進んできた物語に相応しいラストがある。そのあとのクレジットで実際に本人のタトゥーがなくなっていく過程が見られるが、ここが一番涙腺にきた。

 人が変わるということには痛みが伴い、その難しさを描写した後に人は本当に変われるのだと証明するような笑顔の写真。ここまでの道程を知っているからこそ、この笑顔が見れて、救われたことを知れて、救われた気分になったのだ。

 

 

最後に(ちょっと思ったこと)

 今回見る上で頭の片隅に『アメリカンヒストリーX』があった。タトゥーの扱い方"家族"の問題と絡んでいく物語は確かに共通点が比較対象として申し分なかった。中でも演出面でかなり違いがあると思った。『アメリカンヒストリーX』では白黒を強調する手法としてモノクロ映像を採用している。"色"という問題を強く意識させる手法でいいのだが、どうしても"過去"の出来事に思えてしまっていた。対して本作はコントラストの強い明暗で白と黒の違いを際立たせている。それは"現在"の出来事であることを自分に強く印象づけてきた。比較した故、というのが正直大きいが、実在の出来事を元にしている点も含めて考えるとよりネオナチの物語が『アメリカンヒストリーX』以上に近づいてきたという感覚があるのだ。

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 最後にといいながら話がまとめに入ろうとしないのはどうかご容赦いただきたい。ついでに一つ主観的な話をすると、本作は非常に恵まれた男の話でもあると思うのだ。

"不幸中の幸い"と言った方が正しいだろうか。彼は最愛の人に出会えて、更生のきっかけを得ることが出来た。そしてそれは更生後の目標にもなっている。普通なら構成の先に暖かく迎えてくれる"第二の家族"というものは都合よく存在しないだろう。他にもタトゥーの手術代を払ってくれた匿名の女性。そしてダリルという教養と理解、そして同じ境遇だった存在も彼には幸いだったはずだ。今では二人は親友で本作の製作においても二人仲良く協力をしてくれたそうだ。

これだけの人に助けられた彼はやはり幸せものだろうと私は思う。逆にいえばこれだけ恵まれなければ、更生出来なかったように思う。更生しようと思えば、絶対に更生出来るなんて、そんな現実が甘くないのだ。

いま現実にも差別は蔓延している。ダリルがいったように過激な差別主義者(レイシスト)は「殺すか、終身刑か、それとも転向させるか」しかないのだ。この映画を通してどうか、"転向"の道を選ぶ人が増えてくれる事を切に願う。