劇場からの失踪

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『ウーマン・トーキング 私たちの選択』劇場映画批評133回 会議は未来のために行われる

(C)2022 Orion Releasing LLC. All rights reserved.

 

題名:『ウーマン・トーキング 私たちの選択』
製作国:アメリカ

監督:サラ・ポーリー監督

脚本:サラ・ポーリー

音楽:ヒドゥル・グドナドッティル

撮影:リュック・モンテペリエ

美術:ピーター・コスコ
公開年:2023年

製作年:2022年

 

 

目次

 

あらすじ

2010年、自給自足で生活するキリスト教一派のとある村で、女たちがたびたびレイプされる。男たちには、それは「悪魔の仕業」「作り話」だと言われ、レイプを否定されてきた。やがて女たちは、それが悪魔の仕業や作り話などではなく、実際に犯罪だったということを知る。男たちが街へと出かけて不在にしている2日間、女たちは自らの未来を懸けた話し合いを行う。

引用元:

eiga.com

※以降ネタバレあり

 

凄まじい作品だった。
決して劇的とはいえないが、確かに切迫した危機的状況として提示される有限の状況設定で、それぞれのバックボーンや尺度、価値観を尊重しながら重ねられる対話は、何よりも事態を改善しようとする人々の選択を賛歌する。その選択に至るまでの道程の描き方、特に情報開示のタイミングが見事なのだ。

 

 

寓話性を帯びた物語

舞台はキリスト教系メノナイトの閑村。牧歌的な風景に、質素な服装や家が映され、いかにも19世紀の欧米様式を思わせる映像だ。(個人的にはテレンス・マリックの『天国の日々』を想起させた。)
そこにはナレーションという形で未来の"少女"による語りが入る。これは「物語」であるという語りは、この映画が非常に寓話的な作品であることを印象づけるが、この冒頭において、本作は寓話的というよりも歴史映画的な佇まいに見せる。

上記した映像感は中世ヨーロッパ、あるいは19世紀後半のアメリカ南部といった時代と場所を連想させる。また本作の中心にある性的虐待事件の背景にあるアンドロセントリズムな考え方や宗教的な(そして盲目的な)価値観が、現代とは違うもっと閉鎖的な時代を想起させ、これは「遠い昔の物語」だと提示しているように思えるのだ。(決して現代には起こらない事件だと思っているわけではないが、)

 

だが作品と現実との間に横たわる「遠い」距離は、作品の情報制御によって意図的に仕向けられている。それがはっきりとした形で分かるのは、ザ・モンキーズの「Daydream beliver」を流しながら登場するトラックのシーンだろう。

馬車が一般的な移動手段なのかと思っているといきなり近代的な「車」が登場するのだ、そこのショッキングさはかなりのもの。加えて、これみよがしに"2010年"であることが分かり、これは"現代劇"であるとはっきり提示されるのだ。
正直この時代設定がはっきりすることによって作品の寓話性が引き出されるというのが不思議だ。
彼女たちはキリスト教の中でも厳格な教義に従うメノナイトという人々だ。信仰に基づき、旧式の生活様式を実践する。そうすることで、信仰に生きる人々なのだ。
その前提により中世風でありながら現代劇というニュアンスが生まれ、過去現在に至っても通底する寓話性を帯させることに成功していた。

 

「情報開示のタイミング」

そういった寓話性を帯びた物語の中で、行われるのはただひたすらに会話である。今年は「会話」を題材にした作品は数多く生まれていて『対峙』であったりがそれにあたる。とにかく会話、話し合いが持たれる。互いの背景を共有し、分かり合えないところと分かり合得るところを模索する行い。その中で特に本作が素晴らしいと思ったのは、作劇としての「情報開示のタイミング」、そしてその「会議は何故行われているのか」の描写だ。上記した時代設定を遅れて提示するのも見事だが、自分が優れているなと思ったのは、会議の出席者達のバックボーンの提示タイミングだ。


それぞれに公表しがたい被害と守りたいものが存在していて、子供であったり、"家族"という形であったりする。そういった背景が会話の中で次第に映し出されていくのだ。この映画は対立構造や主張の仕方によってどうしてもルーニー・マーラ演じるオーナの主張に肩入れする形になってしまう。特にジェシー・バックリーのポジションは現状維持を掲げ、高圧的な振る舞いをするため、ヒールとして見られがちである。
しかし遂に脱出しようとする朝、彼女の事情である「夫が加害者であり、彼女もまた家族を守りたいという事情」があることを提示するのだ。それぞれの意見には背景があり、それなりの理由がある。このタイミングで提示することで意見や主張する個人をフラットに描くことが出来ているのだ。善し悪しだけでは語れない事情があり、合理的には処理できない感情的な部分について彼女達は話し合っている、それこそがサラー・ポーリーのポリシーなのだと感じさせてくれるのだ。

 

「会議は何故行われているのか」

会議は何故行われるのか。上述したような背景や主張に加えて"目的"は非常に大事なものとなる。
目的として彼女たちの安全と安心に加えて本作は「子供」という要素が大事であることをしっかり提示する。この物語は信仰の話であり、同時に「教育」の話なのだ。
その目的に「子供」を設定する方法として、子供たちがテレンス・マリックのような映像感で畑の中で遊んでいる様子を描いているのがいい。守らなければいけないものとして、無垢に遊ぶ"未来"を台詞ではなく、その映像で語るのだ。自分が一番涙腺が来たのはその映像だった。


オーガストについて

個人的に一番引っかかったのは、オーガストの扱いである。寓話性のある物語として、彼に重ねられる属性は複雑で多角的で、非常に難しいニュアンスになる。自分としては彼は男らしさの有害性を自覚し、どうにか抜け出したい男性であり、しかし「男である」が故に、簡単には女性と連帯できない(男である引け目を感じている)人の代表として置かれているイメージだ。


ただそう考えると、彼が一人取り残されるという終わり方は苦しい。


自分に置き換えて考えると、ホモソーシャルな世界に取り残されたくないのに、全ての責任を負わされて残されるのはあまりに辛い。「教育者」だからとって、子供の教育を任されるのだが、果たして「女性の教育者」だったらどうだろうか。そう考えると出ていくか否かのラインは男女の間に引かれるのだろう。彼には選択肢がなかったように思えてならないのだ。そもそも彼があの村で生きていられるとは思えない。殺されてもおかしくないとさえ思う。

男は男同士で解決しろということなのかもしれないが、そういった環境に居たくないと思っても、逃げ出したいと思ってはいけないのだろうか…

オーガストと思うと苦しくなるのだ。その苦しみがこの作品の強度を証明していると思いつつ。