劇場からの失踪

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『彼女のいない部屋』彼女の逃避行には目的地はない。ただ春に終わる。 劇場映画批評78回

題名:『彼女のいない部屋』
製作国:フランス

監督:マチュー・アマルリック監督

脚本:マチュー・アマルリック

音楽:オリヴィエ・モーヴザン

撮影:クリストフ・ボーカルヌ

美術:ロラン・ボード
公開年:2022年

製作年:2021年

 


目次

 


あらすじ

家出をした女性の物語、のようだ


引用元:

eiga.com

※以降ネタバレあり

今回紹介するのは、俳優としてもフランスを中心に活躍しているマチュー・アマルリック監督の最新作、『彼女のいない部屋』である。主演は『ファントム・スレッド』などで有名なビッキー・クリープス、非常に難しい役どころを繊細に演じていた。

ネタバレ無しで観ることを声を大におすすめしたい。では早速語っていこう。

 

 

属性からの解放の話…なのか?

 夜更けに子供2人と夫を置き去りにして家を出ていく妻クラリス。ヴィッキー・クリープス演じるクラリスのそんな行動から始まる本作は、彼女が「母親」や「妻」といった属性から抜け出し、旅に出る物語を予感させる。

 確かに昨今のジェンダー役割や属性を押し付ける考えへの問題意識から属性からの開放がテーマの作品は増えている。中でも最近だと『三姉妹』などの家父長制への反抗を描いた映画は、それはもう素晴らしい問題意識とクオリティーで属性からの開放を描いていた。他にもカルト的な人気を誇り、何者でもなく誰かに縋ることで生きた女性の孤独な末路を描いた『ワンダ』の復刻上映もあり、そういった一連の作品を観ている方ならば、なおさら「女性の属性からの解放」の物語ではないかと推測するはず。本作の冒頭のシーンや彼女の晴れ晴れしたドライブシーンは、確かにそのような推測を可能にする。だが次第に違和感が生まれ始める。

 

音の違和感

 違和感は「音」という形で始まる。全編に渡って使われる本作を象徴するのはピアノの音だ。クラリスの娘であるリュシーがピアノを習っている設定であることで、度々劇中でで流れる音なわけだが、最初にかかるのは車のカセットテープに録音された音源である。カセットテープか流れてくるリュシーの弾く「エリーゼのために」は全くなってなく、音階練習の段階である。だが、クラリスの独り言であるはずの"呼びかけ"によって「エリーゼのために」は段々とリズムに乗り始め、立派な演奏になっていく。
 はて、ここでは何が起こったのだろう。

 過去の記憶(家)とドライブ中の彼女(車)が音を通して、相互に干渉した場面であり、クラリスの想いがリュシーの存在に干渉したように見える。この後も常に「彼女」と「彼女のいない家族」は別々の場所と時間にあり、時空のズレがある。だがカットの連続性と劇伴を兼ねるリュシーの音楽によって、それらは不思議な繋がりを示す。劇中の"イン"の音楽から劇伴としての"アウト"へ、また劇中の"イン"の音楽へと変化していく流れも非常に不思議な感覚に陥らせてくる。

「彼女の逃避を追体験すること」

そんな不思議な感覚を保持したまま、映画開始30分である"ネタばらし"する。
「家を出たのは私じゃない」という言葉の真意が分かり、彼女は決して「女性からの属性の解放」を目的に旅に出たわけではないことを悟るとき、この物語のいわゆるギミックが分かってしまう。「彼女」と「彼女のいない部屋」は「彼女」と「彼女の(自己防衛の為の逃避的)妄想」だったのだ。

 だが本作はそのギミックを僅か30分で提示することから分かるように、そのギミックが目的のプロット重視の作品ではない。そのギミックは言わば舞台装置でしかなく、本作の主目的たる「彼女の逃避を追体験すること」の為に必要な構成でしかない。この映画が何故、このような映像、ギミックを必要としたのかは、正しくクラリスの心境とクラリスの外的な現実を同列に描くためであり、その構成に自覚的になり「何故こういった映像になったのか」に思いを馳せることは、「彼女の逃避を追体験すること」に他ならなくいのだ。

同列に描くと書いたが、それは、彼女の中に生きる家族の姿が全く虚構として振る舞わないディテールで描かれていることを指す。
観客は気づいてしまったギミックが勘違いであってくれと願ってしまう。なぜならクラリスが生きているように、夫や子供たちは"生きている"のだから。また愚かな自分はそのギミックを通して、都合の良い映画的な飛躍によって彼女が救われるのではないかと期待してしまった。(例えば『ミッション8ミニッツ』のような無茶苦茶さで)

その淡い希望すら「彼女の逃避を追体験すること」を強化するのだ。

 

映画ならではの全く違う概念や時空を曖昧に交錯させ、矛盾を矛盾のままに提示出来る力によって、彼女の心境は映画に表象される。死体と対面するために長い冬を超え春を迎える為に、彼女が行った綺麗事ばかりではない出来事の数々。それがいわゆる再生の物語をリアルなものにして、より現実に根付いた受容を可能にする。決してこの映画は、彼女の逃避を否定しない。綺麗には描かない。だからこそ傑作。

最後に

 

「女性の属性からの解放」ではなく、「属性を突如失ってしまった彼女はどう受容するのか」という物語、そしてギミックは映画的な趣向ではなく、彼女のためのものであること。それらの彼女を芯に置いた本作は見である。冒頭の一見逃避行に思える様子は、実は彼女の妄想のようなものであり、実際には起こっていないこと。ただ、彼女はある意味でその頭の中で春には終わる逃避行に出たことは間違いない。

そう、それは期限付きの逃避行だ。逃避行は終わる。果たして、部屋を出た彼女はどこへ向かうのか。