劇場からの失踪

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『君たちはどう生きるか』劇場映画批評135回 教えて下さい「どう生きるんですか?」

(C)2023 Studio Ghibli

題名:『君たちはどう生きるか』
製作国:日本

監督:宮崎駿監督

脚本:宮崎駿

音楽:久石譲

撮影:藪田順二

美術:武重洋二
公開年:2023年

製作年:2023年

 

 

目次

 

あらすじ

母親を火事で失った少年・眞人(まひと)は父の勝一とともに東京を離れ、「青鷺屋敷」と呼ばれる広大なお屋敷に引っ越してくる。亡き母の妹であり、新たな母親になった夏子に対して複雑な感情を抱き、転校先の学校でも孤立した日々を送る眞人。そんな彼の前にある日、鳥と人間の姿を行き来する不思議な青サギが現れる。その青サギに導かれ、眞人は生と死が渾然一体となった世界に迷い込んでいく。

引用元:

eiga.com

※以降ネタバレあり

 

どんな説教されるのかと思っていたら、言葉にならないまとまりのない言葉(表現)が羅列され、挙句の果てに「はい、さようなら」と挨拶されてどっかに行ってしまった。
どんな感情よりもまず、"いたたまれなさ"が飛び出してくる映画体験は初めてかもしれない。
如何に"ジブリ的"な表現を挙げ連ねようとあの塔の中の世界観に漂う欠乏感は否めなくて、それが"わざと"とはまた違うものな気がして、世界(ジブリ)は滅ぶべくして滅ぶのだなと…

如何なる才人でも年齢を重ねると枯れるものなんだな…
やっぱイーストウッドとかホドロフスキーってマジで化け物なんだよ。


①「見たことある世界」

この映画は都内病院の火事から始まる。そこには母が居て、火事に巻き込まれて死んでしまう。この家から病院を眺める→家から飛び出して病院に向かうのシークエンスが凄まじくて、熱気の表現、大衆に埋もれる少年の無力差が伝える引きのショットなどが素晴らしかった。後半にも"火"は出てくるのだが、それはカルシファーの火と同じマジカルなもので、そこの描き分けはしっかり作品の現実と虚構(ジブリ)の線引きにも効いていたと思う。

その後、母を失った親子は疎開し、田舎の屋敷に移り住む。妹と再婚するという展開がマジ受け付けないのだが、それ置いておいて、雰囲気はちょっと『となりのトトロ』的で、その田舎で未知の存在である青鷺と出会い、そこから物語が始まる。この青鷺との下りにおける訳の分からなさについては②で後述するが、今回話したいのは、「全部見たことある」という感覚についてだ。

冒頭の火事のシークエンスが良い意味で"ジブリ"っぽくなかったことで非常に期待した反面、塔の中の世界に入ってからというものの全部知ってるやつやんが続く。新しく出てくる生物も全て既視感から逃れることは出来ていないし、星の表現や鳥の表現、海の描き方「全て見たことある」のだ。


それの是非については賛否あるだろう。宮崎駿作品を見に行ってるんだからそりゃそうだろと言われればそうなのだ。だが今回問題だと思ったのは「全部見たことある」の"全部"の部分で、あらゆる作品からセルフサンプリングが節操無さすぎて要素が羅列にしかなっていないことだ。ジブリの集大成だからってことではあるのだろうが、あの表面をなぞるだけではただの劣化版だ。
ジブリは毎回作品ごとにファンタジー表現に一貫性をもたらしていたはずだ。『もののけ姫』は自然崇拝と文明の対立を背景に、日本の土着信仰の神様を出す。『ポニョ』は生命の神秘を表現するような生物達や魔法を展開する。『ハウルの動く城』もジブリらしいヨーロッパ=魔法の構図の元に色々な要素を出していた。
そんな風にどの作品にもファンタジーにある種の一貫性あるテーマがあった。

そう考えると、本作は冒頭に示した太平洋戦争下という時代設定はあまり効いてないし、あの異世界の鳥云々がモチーフとして「何故鳥なのか」の部分が世界観と噛み合ってないのだ。(鳥かごの中の世界とかって言いたいのかな… 最後みんな飛び出してくるし…)鳥といっても二三種類しか出てこなくて本当に狭い世界なんだなと思わされるし。

本作は要素要素がビジュアル的に統一されるわけでもなく、散乱している。毎回毎回ジブリはむちゃくちゃでカオスの権化だけど、その根っこはどの作品にもあった気はするのだ。

 


それらの欠乏感、羅列感、つまり全く魅力的ではない世界にはちゃんとした"意図"があるわけなのだが、そこを踏まえて忖度してもやっぱ面白くなかった。確固たる世界観、ビジョンを見せて欲しかった。

余談。ばあちゃんが7人の小人っぽかったり、透明な棺凄く白雪姫だったんだけどなんでですか。
あとあのジャムを塗ったパンを観て無性に悲しくなった。『ラピュタ』であれだけ美味しそうだったパンが、今回では体積が増幅する全く美味しそうじゃないジャムパンになっていて、そこが一番観ていて痛々しかった。

 


 

②「支離滅裂な心理」

先程書いた意図については③で書くが、その前にもうひとつ書き殴っておきたい。
観ていてどんどん心が離れていくなと感じたのは、実はその異世界に入る前からである。
眞人は寡黙でありながら、はっきりとものをいう気質で、それ自体は面白いのだが、どうしてもその心中が分からない。彼を媒介してファンタジー世界を覗き込む序盤はそのせいで観客との認知にズレが生じてくるのだ。青鷺が明らかに普通じゃない行動(喋るや中からなにかが見えるとか)に対して、眞人は全く反応を示さない。ビビるとかじゃなくて、即座に敵対体勢を取る。それを"リアル"と言い張るならそれまでだが、その癖して、状況整理を説明台詞でやったりするのでワケわからない
他にも青鷺が一緒に来るか否か云々の所も形としてやってるだけで、別に本気で眞人を置いていくつもりが伝わってこない。
そんな感じで話に筋道や妥当性がなく、眞人という主人公が最後の最後まで聡いことはわかるが、どうでもいい人で終わってしまった。
スピルバーグ作品とか見てると思うけどリアクションって本当に大事なんだよ

③「ジブリの終焉」

今回なんの話をしていたのかと言うと、それはジブリの終焉についての話をしていたのだと思う。
ジブリは如何に宮崎駿に支えられてきたのか、またあの圧倒的な作家性の権化だった宮崎駿もまた老いには勝てず、ヴィジョンも説教もフェティッシュも朽ち果てしまったこと。

またそのジブリの後継者を見つけることが出来なかったこと。それらのジブリの現在進行形の終焉が反映されていて、あの欠乏した世界観も、世界をまた作り直してくれと委ねられ、断る結末も、全て今のジブリ(宮崎駿)がそうだからなのだ。

わざと欠乏感を出したというよりももう本当にインスピレーションがないからそういう話になってしまったというのが正しい気はする。
そう考えると説明はつくし、ある程度の"集大成"への納得感はある。しかし一作品としてジブリワースト級なのは否めない。
作品には監督のアルターエゴがしばしば出てくるものだが、眞人=宮崎駿でやってたはずなのに、最後の宮崎駿本人みたいなおじいちゃんが出てきて、継承者としてそれまで宮崎駿本人だった眞人に引き継ぐのだからよく分からない。

俺は最後に老人の妄言だとしても説教を聞きたかったのかもしれない。(ジム・ジャームッシュの『デット・ドント・ダイ』の呆れ果てた説教のほうがましかも)
耄碌してもう何もありませんと平伏する姿なんて見たくなかったのだ。

タイトルの「君たちはどう生きるか」は
こう生きるべきという確固たる啓蒙の意思から来る「どう生きるか?」だと思ってたけど、もうビジョンもありません。押し付けるだけの体力もありません。なので教えて下さい「どう生きるんですか?」だったのが驚いた。

まるで走馬灯のような映画だった。がっがりだった。

 


余談だけど
ポスターの鳥と劇中の青鷺おじさんが同一人物なの受け入れられなくて、映画クライマックスで眞人が青鷺スーツを着てかっこよく夏子を救出すると思ってた。そんなシーンはなかった

 

 


④二回目鑑賞での感想

一回目よりは楽しめた。話の筋が支離滅裂であることと終わり所を承知した上だと楽しめるということだと思う。

今回改めて見て感じたことは三つ。 1つ目は意外とと細部のディティールはしっかり描かれていた(特に前半)こと。ストーリーを追いかけようと必死だった1回目に比べて2回目の方が、より波の表現や風の表現、目をやることが出来た。加えて久石譲の曲力にやられたところもある。あの一番最後の部屋(温室や星空があるところハウルみたいなところ)に入った時の曲が本当に素晴らしい。重ねてみると多分よりそういった細部の素晴らしいところは発見できるだろうし、その点で言うと一定水準は超えた"ジブリ映画"にはなっていると思う。ただ後半作画が落ちていった感はやはり感じてしまう。

 

2つ目はインコが大嫌いということ。 これは1回目から漠然と感じていたことではあったが、改めてあのインコが嫌いすぎる。生理的にデザインが受け付けないのはもちろんのこと、あの画一化された色違いインコ共こそがあの世界のイマジネーションの欠乏感を表していると思うからだ。あのパレードの場面にもし多種類の鳥が登場していれば、あの世界は果てしなく広がる世界だと思わせることが出来たろうに、やらなかった、やれなかったところにこの映画のダメさはあると思う。(酷な言い方だが) インコ以外の場面は結構好きになれたなだが、インコの登場し始める青鷺OUTの場面から眞人気絶までが拷問級に嫌い。

 

3つ目はこれが一番重要なのだが、大叔父はあの世界をどうしたかったのかが分からないところ。 この映画はとにかく分からないことが多すぎて、ジブリ有識者たちはその抽象性をダシにして持ち前の知識で考察をあてこみ、眞人という人物の"ドラマ"がその抽象性によって蔑ろされていることに無関心なわけだが、それよりも気になったのは、あの世界についてだ。

この映画の最も肝心な場面はラストの大叔父からの提案「悪意のない石の積み木で新しく世界を作ってくれというところ。それを否定するところも含めて何となく泣けるシーンになっている。 だが、改めて考えるとよく分からない。まず大叔父は元々のあの世界を「悪意のない世界」として作りたかったのかということ。眞人に引き継ごうとするなら、悪意のない世界を作ろうとしたと考えるのは当然だろう。

 

しかしあの世界はそもそもとして生態系が破綻している。ペリカンはあの海に来てから、永遠にあのワラワラしか食べ物のない環境に拘束されていて"地獄"とまで表現している。あのシーンは創造主の悪意を感じさせるシーンだし、穏やかな世界を作ろうとしている人間の世界とは思えない。またインコも持ち込まれた外来種的な扱いで生態系をぶち壊していることが読み取れる。

そもそもとして、あの世界が悪意のある世界なのか、悪意のない世界なのかもよく分からない。 悪意は非常に人間的な概念なので、結構本能のままに行動してる鳥達からは分からない部分だ。 それらは大叔父が元から設定した世界なのか、老齢故に維持できなくなった世界なのか。

それとも勝手に生態系が壊れたのか。その辺が明確には分からないのだ。 その辺が分からないと「悪意のない世界」というのが大叔父にとってなんなのかが分からない

もとよりの悲願なのか、今の世界を生まれた時の悪意ない世界に戻す的なニュアンスがあるのか。 そこが抽象的なので、観客は現代の狂った現実とは違う世界という、ある種メタ的な見立てしか出来ない。それが意図なのだったら本当に元から"物語"を描く気なんてないんだなと落胆してしまう。 この三つ目がこの映画に対する嫌いな部分の大部分を占めている。