劇場からの失踪

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繰り返す憎悪と暴力の歴史~『猿の惑星』シリーズ~ 【ネタバレ注意】

 

今回は紹介するのは『猿の惑星』旧シリーズ5作品である。

1968年に公開された『猿の惑星』。ピエール・ブールの原作を元にフランクリン・J・シャフナー監督が手掛けたこのSF映画の金字塔は後の映画史にも多大なる影響を与えた。

そんな一大フランチャイズとなった『猿の惑星』シリーズはその全ての作品が常に大きな社会的テーマを持っていた。そんなテーマに触れながらもシリーズ5作で伝えたかったメッセージについて考察していきたい。(新3部作、リメイクについては触れないこととする)(ネタバレ注意)

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『猿の惑星』シリーズは1968年の『猿の惑星』から始まり『続 猿の惑星』『新 猿の惑星』『猿の惑星 征服』と続き、1973年の『最後の猿の惑星』まで、僅か五年間で五作品とスピーディーに作られてきた一大フランチャイズであるといえる。当時は続編を想定した映画作りは主流ではなかったため、常に物語が継ぎ足しされてきたシリーズでもある。

 

今シリーズを二つに分けるのであれば、そのストーリーの性質上『猿の惑星』『続 猿の惑星』/『新 猿の惑星』『猿の惑星 征服』『最後の猿の惑星』と分けられるだろう。

前半二作は人類(テイラー、,ブラント)が主人公である話であり、後半三作は猿(コーネリアス、シーザー)が主人公である物語である。

全部で五作品もあるため、それぞれを浅く広く語り、シリーズに通してあるテーマについて触れたいと思う。

 

 

 

『猿の惑星/The Planet of The Apes』(米1968年) 

監督:フランクリン・J・シャフナー 脚本:ロッド・サーリング、マイケル・ウィルソン

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あらすじ

未知なる惑星に向けて地球を飛び出て2000年。トラブルにより不時着したのは地球に似た"猿の惑星"だった。そこは人が奴隷として扱われている星、宇宙飛行士テイラーは猿たちから逃げ、安住の地を探そうとする。

 

叙事詩的映画の形相

公開当時、SFは子供向けのB級ジャンルという認識がされていた。そんな風潮を変えたのが『猿の惑星』だ。SF世界観に当時のアメリカの現状などに反映した社会的テーマを宿しており、そういった作品は少なかったのかもしれない。

 

特に本作は『十戒』や『ベン・ハー』などの旧約聖書を題材にした作品で、主演を演じてきたチャールストン・ヘストンが主人公であり、彼は常に裸に近い状態で奔走するため、そういった叙事詩的映画の形相も兼ね備えているのも特徴であるといえよう。

映画史に残るラストシーン

今作はやはり最後の驚愕の真実にこそ、映画史に残る名作たる所以があると思う。

主人公は安住の地を求めて禁断の土地に踏み込んでいく。海岸を進むと、そこに自由の女神の残骸が現れる。これまで遠い宇宙の惑星の物語だと思っていたのが、核戦争で人類が滅んだ地球であったことが分かるのだ。

 

このラストの画としての衝撃や、人類の愚かさに絶望するテイラーの咆哮の身に詰まるシーンが素晴らしいのは勿論だが、このシーンのが面白いのは映画のそのメタ的伏線が張られていたからだ。

宇宙飛行士たちが不時着した惑星は色々と物語的に都合がいい点が多い。例えば、空気と水の問題や人類や猿が存在すること、言葉が通じること等、多くの点が宇宙における遭難にしてはリアリティーがない。この好都合な設定は物語を進める上で、観客が黙認するような設定であるわけだが、ここが地球であると分かれば、その設定の辻褄が合い、全てのご都合展開が伏線として機能し始めるのだ。

 

人類を映す鏡としての猿類

猿の惑星の原作は映画版と着眼点が少し違うらしい。原作が描いたのは「猿が人類より優れた種に進化できるのか」ということだ。あくまで別種として、比較するというが原作の特徴であるのだ。しかし、本作における猿類は常に「人類史を映した合わせ鏡」のような存在として描かれている。それは本シリーズ全てに共通していると言ってもいい。

宗教に乗っ取った政治や裁判、信仰のために知識に蓋をする盲目な考え方は中世の人類史を思い起こさせる。そんな猿類を人間という別種から客観視することで、その愚かさを描いているのだ。

 

人間とサルの主従関係が逆転した世界、二種族の果てしない憎悪と暴力の因果が本作から始まっていく。

『続 猿の惑星/Beneath The Planet of The Apes』(米1970年) 

監督:テッド・ポスト 脚本:ポール・デーン

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あらすじ

不時着したと思っていた惑星が、実は核戦争後の地球であることが分かった。その事実に打ちのめされながら、この星の女性ノバと共に禁断の土地を進む。

時を同じくしてもう一隻の宇宙船が不時着する。宇宙船に乗っていたブラントは一人、そこが地球である事も知らず、途方に暮れる。そこに、馬に乗ったノバが現れる。しかし、そこにテイラーの姿は無かった。

 

無茶苦茶な展開

本作は前作の直後から始まる。前作監督であったフランクリン・J・シャフナーは『パットン大戦車軍団』の撮影で参加できず、代わりにテッド・ポスト監督が参加した。脚本もこの後、四作品目まで脚本を担当するポール・デーンに変更した。ポール・デーンは本シリーズの脚本を書くうえで、広島の原爆や戦争への恐怖を根底に据えていた。そのことを念頭に置いておくと、猿の惑星の持つ暗いテーマを感じ取りやすいだろう。

 

といっても今作の脚本はそんな出来がいいものではない。前作の主人公テイラー演じるチュールストン・ヘストンは続投の意思はなく、最初と最後に出るだけでなった。代わりに主人公となったのはジェームズ・フランシスカス演じるブラントだ。W主人公という形になり、それはそれで熱いものはあるが、しかし90分弱の尺のうち、43分も掛けて前作同様の地球だと気づくまでのプロセスをやったのは頂けない。

であれば、テイラー主人公のままで、地下に潜んでいたミュータントとの邂逅などにもっと時間を割けばよかったと思うのだ。

 

ともあれ、前半の焼き回しを終えて後半の超展開へと進んでいく。地下にミュータントが隠れ住んでいた。彼らは人類の置き土産"コバルト爆弾"を神として崇め、普段はテレパスで会話をしている。

何故こんな展開になっていったのか。彼らの存在意義とは。急ごしらえの製作スタッフや裏事情に大きく作用されたであろう本作に,そこまでの追求に意味があるか分からない。それほどに雑な部分が目立つ作品であるのだ。

 

本作のテーマとは

だが、もし考えるのであれば、それは「知識や教養、言葉で争いを止められるのか」だろう。今作には言葉を失った人類、言葉を手に入れた猿類、そして本作から言葉を必要としないミュータントが登場する。

争いは話し合いの欠如で、生まれるものである。話し合いは互いの理解に必要であり、そういった理解や思いやりが平和をもたらすのだと、信じられているはずだ。それは実体験としても、歴史としても痛感することであろう。

しかし、本作は例え文明が発達しようと、言葉が上達しようと争いは避けられないのだと語っているのだ。ブラントの「言葉が使えるようになっても平和は訪れない」というセリフがその事実を物語っているはずだ。

 

今作も同様に猿類は人類を映す鏡である。だからこそ、今作には人類への冷めた目線から生まれる「争いの回避できない愚かさ」というテーマがあるのだ。

因みに本作に登場したコバルト爆弾は人類が想像はしたもののあまりに強力なため、製造されなかったものである。そんな最終兵器を出した点についてもやはり人類への暗い絶望感が潜んでいるように思う。

 

原作者が最初に考えた続編はテイラーが人類の代表として猿に反旗を翻すというものだった。ありきたりではあるが、おそらく誰もが当然あるだろうと思う続編だと思う。しかし、本作は飛び切りのチャレンジをした。その三つ巴の末にコバルト爆弾は爆発し、地球は滅ぶ、そんなラストを選んだ本作のチャレンジ精神に敬意を表したい。

 

『新 猿の惑星/Escape From The Planet of The Apes』(米1971年)

監督:ドン・テイラー 脚本:ポール・デーン

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あらすじ

地球、太平洋に宇宙船が不時着する。それはかつてテイラーが"猿の惑星"に着いたときの船だった。乗組員との邂逅に固唾を飲む皆の前に現れたのは猿類たちであった。

 

 

猿が人類の世界に来てしまった物語

前作の最後から誰がこの続編を予想出来ただろうか。一作目のラストも難しい部類であったはずが、二作目のラストは舞台である未来の地球が吹っ飛んでしまっている。しかし、そこを今作は思い切った設定で切り抜けている。

 

地球にたどり着いたのは前作でテイラーを良くしてくれたコーネリアスとジーラ、知人のマイロ。彼らは"猿の惑星"が爆発する前に宇宙船で脱出し、爆発の影響で過去の地球いてしまったというとんでも設定でつまり、猿が人類の世界に来てしまった物語となっているのだ。ここまでくれば、もう突っ込みようがない。おかげでコーネリアスの人物設定や、猿が人類に反逆した流れの設定を前作との食い違いについて気にせず、差し込めるようになったのだ。

 

今回も脚本はポール・デーン。しかし、これまでの作品と違って、原作にあるコメディー要素人類と猿類という別種の進化に焦点を当ててきている。"猿が人類の世界に来てしまった物語"なわけだが、前二作の逆パターンが叙事詩的映画であるに対し、今作は『未知との遭遇』的な純性SFの形相となっている。

 

来るかもしれない未来にどう向き合えばいいのか

本作で分かるのは何故、人類と猿が主従関係が逆転したのかということだ。犬猫が伝染病が居なくなり、猿がペットの主流になる。次第に知性が発達していく猿は奴隷として扱われていく。2世紀の時を経て言葉を扱えるようになった猿は遂に人類に反旗を翻す。

その関係性は当時のアメリカに強く蔓延っていた人種差別のメタファーである。そこについては後の4作目が大きく取り扱っているので一度置いておこう。

 

その代わり今作が描いているのは、来るかもしれない未来にどう向き合えばいいのか、ということだろう。猿類の夫婦の言葉はつまりは彼らの存在が人類に終焉をもたらすということだ。しかし、今現在の彼らには危険性がない。コメディータッチで描かれる夫婦のピュアさが特に引き立てる。そんな時、我々はどうすればいいのか。終末予言論が本作の根底にあり、それは『ターミネーター』を連想させる。

 

結局子供マイロをサーカスに預け、夫婦は凶銃に散る。だが、人類の選択を非難することは出来るだろうか。もしここで子供も殺せておけば、今後のような残酷な展開はなかっただろう。結果論でしかないが、そんな岐路の難しさを今作は描いている。

 

また新たに人類と猿類の争いの歴史の火蓋が切られる。それはかつての地球の歴史の再現となってしまうのか。

 

『猿の惑星 征服/Conquest of The Planet of The Apes(米1972年)

監督:J・リー・トンプソン  脚本:ポール・デーン

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あらすじ

猿類の夫婦が子供を守るため、サーカスに預けてから数十年。コーネリアスが語ったように人類は猿類を奴隷にする時代が訪れていた。マイロだけが喋れる猿類であり、サーカスの親代わりのアーマンドの元で身を隠していた。しかし、その存在がついに政府にバレて逃げるが、捕まり奴隷にされてしまう。

 

 

憎悪と暴力

本作はこの旧五部作の中で最もダークで社会的メッセージが露骨になっていた作品であるといえる。コーネリアスが語った"猿の惑星"の成り立ちに酷似している世界。奴隷となっていた猿たちの反抗心は少しずつ、抑えきれないものになりつつあり、革命の指導者を求め始める。

 

本作で描かれている人類と猿類の関係は、正に黒人が奴隷として扱われていた時代を思い出させる。しかし、その猿たちの反逆はキング牧師やマルコムX等のようなやり方ではなく、ブラックパンサー党がやっていたような暴力で自由を勝ち取ろうするものだ。その暴力描写は当時のテレビに放映されていた暴動鎮圧の映像と酷似したものである。そのため前作のコメディータッチの猿の惑星は完全に消え失せ、憎悪と暴力に彩られた作品となっており、黙示録的映画になっている。

 

最後の演説

特に最後の"シーザー"という革命の指導者になった彼の演説は、本シリーズの中で屈指の名シーンであるだろう。彼は人類への憎悪を語り、自由を勝ち取るには暴力が必要だと燃え盛る炎のように怒りを迸らせる。結局、猿が人類に反旗を翻す世界は訪れてしまうのだ。

面白いのが、そんなシーザーに本当にこれでいいのかと語り掛けるのが黒人のマクドナルドであるということだ。彼はいわゆる「奴隷の末裔」で、憎悪と暴力では自由は勝ち取れないことを一番知っている存在なのだ。しかし、マクドナルドの言葉はシーザーに届かない。それは歴史が繰り返される現状にも言えることで、如何に歴史がその無意味さを証明しようと歴史は繰り返してしまうのだと、その愚かさを痛烈に伝えているのだ。 

暴力では決して、平和を掴むことは出来ない」これは歴史が証明している。暴力では支配者と奴隷の関係性を入れ替えることは出来るが、平和を手に入れることは出来ない。しかし、その事実を忘れ、歴史は繰り返される。そんな繰り返してしまう歴史への諦めに近い感情が本作を支配している。だからシーザーの革命にはカタルシスはなく、恐怖と悲壮感だけが漂うのだ。

それは最後の作品である『最後の猿の惑星』に対する問いかけになってくる。

 

『最後の猿の惑星/Battle for The of The Apes』(米1973年)

監督:J・リー・トンプソン  脚本:ジョイス・フーパー・コリントン

                  ジョン・ウィリアム・コリントン

 

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あらすじ

人類が猿との戦争に負け、核兵器のせいで荒廃した地球。シーザーは残された人類と一緒に"エデンの園"を作り上げていた。

 

猿は猿を殺さないという掟

遂にシリーズ最終作だ。これまで脚本を手掛けてきたポール・デーンは降板して新たにコリントン夫妻が手掛けている。その大きな理由としてはポール・デーンのダークな脚本がシリーズ最終作にはふさわしくないとされたからだ。本作では暗い未来を予感させながらも僅かではあるが、希望が提示されているのだ。

本作はシリーズ最終作でありながら、低予算で作られていることもあってかコンパクトに描かれている。だが、それは本作にふさわしいともいえるのだ。本作が描いているのは猿の「猿は猿を殺さない」という絶対の掟についてそれだけだからだ。

 

前作で終末世界となってしまい、ついに暴力の歴史は繰り返されてしまう。猿類という種族は結局、人類と同じような運命を辿ってしまったことのだ。それはつまり一作目で猿が人類を映す合わせ鏡であったように、猿と人類に明確な差はないとされてしまったということなのだ。唯一残された違い、それが同種への不殺の誓いである。それを今作は脅かし、最後に彼ら猿類を試そうとするのだ。

エデンの園に住む将軍アルドーはシーザー打倒の計画を息子コーネリアスに聞かれてしまう。そして口封じしようと息子コーネリアスを殺してしまう。それは絶対の掟の冒涜であり、最後にそのことがシーザーにばれてしまう。シーザーは結局直接ではないが、アルドーを死に至らしめてしまうのだ。

 

「復讐のためなら殺しも許されてしまうのか。」

そんな言葉が台詞にあるように結局人間と猿類に明確に差はないとシーザーがアルドーを殺すことで決定づけられてしまうのだ。

これは猿類が人類の唯一の違い、そしてそれは歴史を繰り返してきたことへの唯一の解決策だった。しかし、それすらも失われてしまったのだ。

 

僅かな希望

これまでならそこで終わってしまうのが猿の惑星シリーズだったが、僅かに希望を残すのだ。

その村では人間と猿は信頼関係を作って共存出来ている。確かに不殺の誓いが破られたことは不穏な未来を暗示するが、その共存関係は明るい未来の暗示でもあるのだ。

 

どんな愚行の歴史も未来がその価値を決めるはずだ。だから最後のシーンの600年後の地球で、人類と猿類の子供たちが一緒にいる光景は希望の未来を示唆している。

決してこの世界の結末は『猿の惑星』『続猿の惑星』で見たような破滅ではないのだ。

 

本作は人類と猿類の果てしない憎悪と暴力の因果に希望を見せて、『猿の惑星』シリーズにピリオドを打ったのだ。

 

 

全体を通して

シリーズ五作品で描かれているのは、違う種でありながらも、同じ歴史を繰り返してしまう合わせ鏡のような二つの種、人類と猿類の憎悪と暴力の因果である。

争いの歴史は知恵があろうと、先駆者の忠告があろうと予言があろうと止められない。そんな人類への冷めた視点は当時のアメリカに向けられていたものと同じだ。

戦争や人種差別、それらが未だに続く世界に今シリーズは"合わせ鏡"のようにして時代を追いかけていたのだ。シリーズ最終作『最後の猿の惑星』は唯一希望を描いた作品であると言ってもいい。それは当時のアメリカが暴力や対立に消耗しきっていて、誰もが希望を求めていたからこそ作品なのだ。

 

シーザーの境遇を垣間見れば、自由を手に入れるために憎悪と暴力を行使するのは理解出来なくもない。しかしそれは間違っている。

かつてチャールズ・チャップリンが『独裁者』で貪欲さと憎悪の先に平和はないと説き、「絶望してはいけない」とチャップリンは語った。

チャップリンが言うように憎悪と暴力を根絶した世界にこそ、平和はあるのだ。

 

本シリーズは暴力や憎悪の先に手に入る世界が、悲しい結末を辿る事を実世界の実情を交えて描いた。そして最後には希望の未来を提示してくれた。

 

「終わりよければ良し」と言うが、つまりはこれまでの歴史の価値は未来によって決まるのだ。そんな大きなメッセージが『猿の惑星』にある本質的なテーマだと私は悟った。