劇場からの失踪

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『ノック 終末の訪問者』 劇場映画批評121回 ロールを与えられた者たちの終末

題名:『ノック 終末の訪問者』
製作国:アメリカ

監督M・ナイト・シャマラン:監督

脚本:M・ナイト・シャマラン スティーブ・デスモンド マイケル・シャーマン

音楽:ヘルディス・ステファンスドッティル

撮影:ローウェル・A・マイヤー ジェアリン・ブラシュケ

美術:ネイマン・マーシャル
公開年:2023年

製作年:2023年

 

 

目次

 

あらすじ

ゲイのカップルであるエリックとアンドリュー、そして養女のウェンの家族が山小屋で穏やかな休日を過ごしていると、突如として武装した見知らぬ謎の男女4人が訪れ、家族は訳も分からぬまま囚われの身となってしまう。そして謎の男女たちは家族に、「いつの世も選ばれた家族が決断を迫られた」「家族のうちの誰か1人が犠牲になることで世界の終末を止めることができる」「拒絶することは何十万もの命を奪うことになる」と告げ、エリックとアンドリューらに想像を絶する選択を迫ってくる。テレビでは世界各国で起こり始めた甚大な災害が報じられるが、訪問者の言うことをにわかに信じることができない家族は、なんとか山小屋からの脱出を試みるが……。

 

引用元:

eiga.com

※以降ネタバレあり

大傑作大傑作大傑作!!!!
シャマランの作家性である「見えざる事物との対峙」と「ロールを割り当てられた者達の物語」がフルスロットルで駆動していることに大興奮するだけでなく、会話ばかりのワンシチュエーションスリラーを極端なズームアップやインアウトで、緊張の糸を途切れさせないようにする演出し、ラストまで走り抜けてしまう技巧にも脱帽してしまった。過去作との相違点を挙げながら、本作の魅力を語っていきたい。

尚過去にM・ナイト・シャマラン監督の特集記事を書いているので参考に是非。

www.arch-movie.com

 

 

映画は冒頭一人の少女チェンと巨人とも言うべき、巨躯を誇る男レイモンドの邂逅から始まる。明らかに犯罪が起こりそうな緊張感溢れるこの場面は極端なズームアップによってレイモンドとチェンを奇妙な縁で結ぶのみならず、レイモンドが明らかに子供の扱いに慣れた教師或いは親であることを観客に察知させる演技や、凶兆としてのバッタ、そしてバッタを閉じ込めるビンという閉世界の隠喩等、本作を始める上で必要なファクターが画面にひしめき合っている。

特にズームアップによってレイモンドが何度も横目で気にしているものを画面外に置き、ロングのショットに切り替わった瞬間に明かし、そのタイミングから時間が動きだしたかのように画面全体に動きが生まれ、ノンストップで最後まで行く本作の"サイン"として機能しているのが、とにかくシャマランの可視不可視によって巧みにエモーションを生み出す手腕を感じさせる所といえるだろう。


パンフレットによると、ショットやカット割りがまず最初に描かれ、セットをそのショットに忠実に製作されたようだ。そしてカメラはステディカム撮影を極力控え、三脚やドリー、ジンバル、クレーンを使った正確な撮影を多用することで、とにかく忠実に撮影を行ったようだ。それは本作が、ワンシチュエーション故に完璧に積み重ねていかないとダレてしまうと理解していたからだろう。見事に演出され、最後まで緊張を維持したまま結末に駆け抜けたという点でまず評価できるといえる。

 

①「本作の見えざるものとは」

シャマランはこれまで映画的な可視/不可視を操り映画を構築してきた。それは演出レベルの話に留まらず、脚本やテーマ性においても同様に言えることだ。詳しくは上述のブログに書いてあるので、ここでは省略させていただくが、つまり私のシャマラン映画に対する関心は、今回の「見えざる事物」はどう機能するのかということだ。


では、本作においてその「見えざる事物」とは何なのか考えてみよう。それは、人類を滅亡させようとする「神」といえるかもしれない。はたまた実際に人類を破滅しようとする病や震災そのものを、そう捉えることも出来るかもしれない。だが、自分は何より「見えざる事物」として機能し、作品の重要なファクターとなっていたのは「人類/社会の総体」ではないかと考える。
そう考えるのは、最近のシャマランが必ず描く「家族」が本作では、ゲイ二人と養子縁組された娘によって形成されており、この家族は社会の差別や偏見から距離を置くために森に住んでいるという前提があるからだ。(もちろん原作から同設定であることは知っている)

これは言い換えれば、社会からexitし、社会と繋がりを断ち、社会を「見えない事物」として遠ざけて生活している家族だと言えるだろう。何故彼らがそう社会から距離を置こうとしているかは劇中でもバーでの暴力沙汰のフラッシュバックや親の不理解を通して描かれるが、そんなことをしなくても何故世の中に嫌気がさしたのかも容易に想像が着く。

 

そんな前提がある彼らに「見えない事物」はなんの前触れもなく"ノック"するのだ。
その恐ろしさは、単に破滅をもたらす者が、戸を叩き、侵入してくる恐ろしさだけに由来するのではなく、繋がりを絶ったはずの「人類/社会の総体」が、君たちは我々人類/社会の一部であり、その事実からは逃げられないと宣告するかのようだからこそ恐ろしいのだ。社会は彼らを偏見と差別によって虐げるにも関わらず、君たちは社会の一部だと語り、だからこそ全体の為の犠牲になれと当然の如く語るのだ。
「人類/社会の総体」という実感の伴わない概念に対して、虐げられた経験を持つ二人が「愛するものか、世界の終わりか」の選択を迫る。そこには差別や偏見といった無意識レベルのマジョリティの総意と同じく、「多数の為の犠牲は致し方ない」という考え方があり、そういった意識を矛にして「人類/社会の総体」は森に住む家族に襲いかかってくるのだ。
本作において実際にノックする彼らは「人類/社会の総体」側であり、「多数の為に犠牲になる必要がある」と当然考える側の立場にいながら、彼ら家族に対して「我々は同じ立場」だと連帯してくる。つまり彼らは「同じ側に立つ敵対者」なのだ。
その根底には、総体の中にいる個が当然の如く要請される「多数の為の犠牲」を受け入れる考えがあり、その異質な存在感こそが現代的な無意識に鞭打つ「人類/社会の総体」の代表に相応しいだろう。

 

②ロールを与えられて展開する話の是非

本作に対する私の評価は冒頭の「大傑作!大傑作!大傑作!!」に相違ないのだが、それでも引っ掛かる!というかどうしても消化しきれないところがある。それはシャマラン作品特有の作劇として登場人物にロール(役)を明確に与え、それに登場人物は無垢にも全うするのだ。『レディー・イン・ザ・ウォーター』が特に顕著だろうが、登場人物たちは自らのロール(役割)を理解し、抗うことなくそれを"使命"として受け入れて遂行するのだ。
「記号的なキャラクター」とはまた違う、脚本上の「役割」がそのまま登場人物の「自覚的な使命」になっている異常性。それがシャマラン作品には付きまとう。
『レディー・イン・ザ・ウォーター』ではその独特なやり口は世にも珍しいテイストのファンタジーを生み出していたが、個人的には上手くいっていなかったと思っている。またその前身にあたるだろう『サイン』も劇中の予兆(伏線)を回収するのみに奉仕することでつまらない作品になっていた。
一方で『ミスターガラス』では、そのロールを与えることで、ヒーロー(能力者の意)のメタ的な視点で描き、それでしか至れないような希望のテーマへと結びつけていた。

 

ではでは、本作はどうだろうか。タイトな人数で構成されている本作は極めて明確に役割を与えている。特にそれはキャビンに訪問してくる4人に言えることだろう。劇中でも明確に提示されるシャマラン版「黙示録の四騎士」の言い当て。「導き、慈愛…」と台詞で説明されるのは正直笑ってしまうし、本作の前提にある「宗教への懐疑心の無さ」には危うさを感じる。(シャマランにとって宗教は宇宙人や超能力と全く同じ、面白い設定でしかないのだが)
ただその「黙示録の四騎士」というロールの割り当てよりも、彼らが夢の中で観たイメージによって使命感を駆り立てられ、行動を起こしたという部分にこそ、シャマラン的なロール(役割)への無垢なる信頼を感じるのだ。
また主人公達においても、ジョナサン・グロフ演じるアンドリューを人の性善説的な側面を信じる者として、ベン・オルドリッジ演じるエリックを過去の経験から性悪説を信じる者として役割付けをしている。物語の結末である最大の選択も『サイン』のラストでメル・ギブソンが宗教に再び目覚めたかのように、アンドリューがその運命をその役割を自覚することによって、決断される。これはシャマラン節と片付けては行けないレベルの感情プロセスの踏み倒し方だ。どう評価すればいいのか今でも判断がつかない。

もちろんシャマラン映画に求めていたもの故に肯定的に受け取れる。だが、その個人が全体の為に役割に殉ずるという話を肯定することも出来ない。特にその背景にキリスト教的背景があるならば個人的な嫌悪感は、より一層強まる。
更に加えて皆が期待するところ(私は期待してない)の"どんでん返し"が本作においてはない。つまり実は嘘でした〜というオチがなく、先程まで語られていた信じられない話が裏返ることなく事実として提示されるのだ。よく考えれば過去に「見えざる事物」が実は存在してなかったとひっくり返ることは、実は一度とないのだが、その"どんでん返さない"結末もまた、それまでの信じ難い価値観や展開を、さも平然と語っているように感じさせるのだ。


ここが賛否の別れどころなのだろう。
自分としては未だ結論が出せていないのだが、その逡巡の中であのラストシーンを見たが故に大傑作と思ったのだ。
愛する者の喪失に直面してまもない二人の互いを慰め奮起しようと「Boogie shoes」を掛けるも、気遣うが故に止めるというラストの描きかたは今年屈指のシーン、そのどちらにも振り切れない、正しく混乱の真っ只中を表した場面は自分の心模様そのもので、彼らの混乱を他所に、世界は淡々と回っているのだと思えた時、世界と家族(個人)を描いた本作の覆ることのなかった距離感や関係性を見出し、やられてしまったのだった。