題名:『茶飲友達』
製作国:日本
監督:外山文治監督
脚本:外山文治
音楽:朝岡さやか
撮影:野口健司
美術:中村哲太郎
公開年:2023年
製作年:2022年
目次
あらすじ
佐々木マナは、仲間とともに高齢者専門の売春クラブ「茶飲友達(ティー・フレンド)」を設立し、新聞に掲載した「茶飲友達、募集。」の三行広告で集まってきた男性たちのもとへ高齢女性を派遣するビジネスをスタートする。「ティー・ガール」と称される在籍女性の中には、介護生活に疲れた女性、ギャンブルに依存した女性などさまざまな事情を抱える者がいた。マナのもとで「茶飲友達」を運営する若者たちもまた、出口の見えない社会で閉塞感を抱えて生きている。 さまざまな世代を束ねるマナは、彼らを「ファミリー」と呼び、擬似家族のような絆を育んでいくが……。
引用元:
※以降ネタバレあり
今回紹介するのは実際に起きた高齢者売春クラブの事件にインスパイアされた『茶飲友達』について語っていく。
本作の作られた意義
映画終盤、本作の扱った事件の立ち位置を明確にする見事な場面がある。
画面には都内の高速道路や橋といった交通機関が映し出され、ラジオかTVの音声でニュースが流れている。ニュースは最近起きた事件を報道する。それは普段聞き馴染みのあるような内容で、言ってしまえば聞き流してしまうものとして流れる。しかしその中に、つい先程まで腐るほど聞いた「茶飲友達」という言葉が聞こえてくる。それは「茶飲友達」という売春クラブが摘発されたという報道。
ただその報道は数秒で次のニュースに飲まれていった。
この流れの圧倒的な速さ。先程まで見ていた多くの高齢者や若者たちの人生の重大な葛藤の全ては、大きな社会においては衝撃的であっても数秒間の出来事であり、ほとんどの人間が明日には忘れてしまう些細なニュースとして消えていくのだ。
ここがある意味で、実在の事件を取り扱った作品における最も現実に寄った瞬間であり、本作の扱った事件の社会における立ち位置、そして本作が「だからこそ」と、作られた意義の部分ではないだろうか。
近年、高齢者を扱った作品といえば自分は『PLAN75』を思い出す。この作品もそれはもう見事で、問題意識の高さと架空の設定を利用した本質の付き方は邦画の中でも高水準であった。
一方で『PLAN75』はどうしても観客(として来た若者)に高齢者達への同情や共感を呼び起こさせるのみで、若者達自身は社会構造の中で彼ら高齢者を追い詰める側(社会福祉の窓口に立っていなくても、直接高齢者と関係していなくても)に立っていることを気づかせるようには作られていなかった。
だからこの『PLAN75』は僕にとって彼岸の映画だ。
だが、本作『茶飲友達』は此岸の映画だ。
"明日は我が身"という表現があるが、まさに本作で描かれている「孤独」や複雑化していく「家族」の定義についての物語は、自分事だった。
孤独と家族
そんな「孤独」と「家族」という普遍的なテーマについてまず書いていく。高齢者の孤独死はよく問題にされるが、「孤独」は高齢者になってから始まるものではない。若者にとっても「孤独」は常に付き纏っている。20代半ばに起こる結婚ラッシュや、大学でサークルに所属するのも、Twitterでフォロワーと仲良くするのも、今の「孤独」を癒し、将来の「孤独」に備えているからではないだろうか?
そう考えると若者の中でも、高齢者の実感としてある「孤独」という病理は蔓延している。
では「孤独」という病理はどうすれば解決するのだろうか?
単純に言えば「繋がり」を作ることだ。そしてその「繋がり」の最も具体的かつ普遍的なものが「家族」を持つことなのだろう。
本作においても、千佳という生まれながらに家族を持たない彼女にとって「家族がいない=孤独」という感覚は常に付きまとっているものだったのが描写される。ただ、一方で「家族」がいるからといって「孤独」は癒せるものではないことを体現しているのが本作の主人公であるマナなのだ。
とすると、「孤独」を解決するのは「繋がり」だとは単純にはいえない。本作はまさにその「繋がり」が「孤独」を癒せるのかについて描いていると思うのだ。言い換えれば、それは「家族」という集団を形成することで、「孤独」は癒せるのかという問い。
本作において「家族」は多様な形で描かれる。例えばマナにとっての崩壊した「家族」、廃業したパン屋の父子2人の「家族」、今マシに形成されようとしているシングルマザー千佳の「家族」、そして「茶飲友達」という一種のサークルとして機能している"ファミリー"という擬似「家族」。他にも多くの家族が一個人の背景として垣間見えるのだが、それらの「家族」は果たして「孤独」を癒せていただろうか。むしろ、「孤独」は増すばかりではないだろうか。
特筆すべきは「茶飲友達」の崩壊だろう。この団体は売春クラブであり、利益によって繋がっている集団だ。"ファミリー"とは聞こえはいいが、結局は雇用関係に過ぎない。その事前の「幸せそうなファミリー感」の演出からマナが虫の知らせを感じているシーン、そして一人部屋で孤独を体現しているマナへの一連の流れが本当に見事で、そこにやはり「孤独」は「繋がり」では癒せないという結論を導いてしまうのだ。
「孤独」が多くの社会問題の原因となっているのは間違いない、孤独死もそうだが、宗教団体へののめり込むのも、そこにしか友達がいなくなっていくからだったりする訳で、マルチなんかも同じだ。本作もそういった「孤独」に付け入る犯罪を描いているし、その「孤独」をどうにか癒すことの必要性も描いている。
「孤独」は癒せないということを複雑化されていく「家族」という集団の形成と崩壊の中で描き出す。社会に蔓延する「孤独」を他作品とは比べ物にならない圧倒的な絶望感で徹底して描き出したという点で、本作は評価に値するのだ。
俯瞰
もうひとつ書きたいのは、本作の俯瞰的な物語の描きかたについてである。言い換えれば包括的で隙の無い両者両方を描くスタンスについてである。本作は一つの出来事に対して常に両側面を提示する。メリットとデメリット、幸と不幸、功と罪。本作は全てパーソナルな出来事で構築されているわけだが、それらを全て俯瞰の中の群像劇として描いているのだ。
例えば、現実に起こった事件を題材に現代社会における問題にフォーカスしている。簡単に言えば、社会規範ならはみ出てしまった人達を無視する社会構造についてであり、それに対して犯罪である違法売春行為で、社会的弱者達を救済しようとする様を描いている。(その志がマナ当人だけのものだというのが悲しいのだが)
確かに社会的に無視されている社会的弱者は救済されるべきであり、現行法ではどうしようもない部分はあると思う。実際にマナ達の方法で救われた高齢者達(渡辺哲演じる男性等)は大勢描写される。一方でその犯罪行為によって被害を被った、つまり状況が悪化した人達(介護施設の人達)もいる。規範から外れた行為故の代償をマナだけでなく、高齢者にも波及する様はマナの理念が崩れる致命的な出来事であったはずだ。
そんな風に本作は両側面を描く。特にラストの警察のシーンは印象的で、『万引き家族』では圧倒的に家族側に立てたのに本作では、どちらの言い分も分かってしまう自分が居たのだ。
この恐ろしい程にフラットな視点こそが、一つの社会問題を扱うに辺り必要なことであるはずだ。
最後に
映画には直接的な問題解決の能力はない。映画ができることは普段視野に入らない世界や人を直視させることなのだ。どちらかに肩入れすることは物語的には指向性が伴うため、便利だ。だが、本作は最後までどちらにも100%肩入れ出来ないようにしている。それが現実だからだ。
そのスタンスが最後まで徹底されている。社会が良くなればという意思を潜在させながら、ただひたすらフラットに描写する。それでこそ人々は一つの映画ではなく、現実問題に向き合わざるを得ない状況に直面するはずだ。