劇場からの失踪

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不可視の事物と対峙してきた監督 M・ナイト・シャマラン監督特集



 今回は監督特集第三弾として「M・ナイト・シャマラン監督(以下シャマラン)特集」を行っていきたい。スリラーの鬼才と呼ばれた監督の過去12作品に加えて、最新作『オールド』に至るまでの全13作品のフィルモグラフィーを考察し、シャマラン監督の作家性というものについて考えるのが、今回の主な目的である。さらに詳しく述べると、「どんでん返し」の監督と安直に形容される(主に宣伝広告などで散見される)ことが多いシャマランに対する認識に対して、もう少し踏み込んでその作家性を考えたいという意図がある。

 本記事では、ネタバレについては一切に配慮せずに話を進めていくため、シャマラン映画を全て観ている方向けの記事になる。そのため、あらすじなどの映画の基本情報については少ししか触れるつもりもない。非常にニッチな記事になる予感しかないが、最後まで読んでくれるとありがたい。

 

目次

 

簡単なフィルモグラフィーのおさらい

まずはシャマランが監督脚本を務めた作品のフィルモグラフィーをおさらいしておこう。彼の初監督作品は大学生時代に自主制作した『Praying with Anger』という半自伝的ドラマ映画である。実質的な彼のフィルモグラフィーの始まりといえるのは第二作目『翼のない天使』(1998)であるが、どちらも彼の代名詞である「スリラー」とは掛け離れた作品であった。そこからブルースウィリス主演の『シックス・センス』(1999)でアカデミー賞において5部門でノミネートされ。一気にシャマランの名前を世間に轟かせる。

 それ以降『アンブレイカブル』(2000)『サイン』(2002)『ヴィレッジ』(2004)と"シャマランらしさ"を体現するような独特なスリラー作品が生み出され、商業的にも批評的にも上り調子でフィルモグラフィーを築いていく。(ここでの"シャマランらしさ"については後程詳しく追及する)

 しかし、そのフィルモグラフィーも低迷期を迎える。『レディ・イン・ザ・ウォーター』(2006)『ハプニング』(2008)『エアベンダー』(2010)『アフターアース』(2013)は商業的に成功した作品はあるものの、批評的には芳しくないものであった。

 ここから、シャマランは自宅や私有地を抵当にいれ、製作費を全額自腹で払うことで、クリエイティブ面のコントロールを完全掌握した映画作りを始める。低迷期をもたらした要因の1つに配給製作との意見の相違があったことは、特に言及されていないがこのことから明白である。

 『ヴィジット』はスリラー映画への見事な原点回帰として成功を収め、シャマランは勢いを取り戻す。『アンブレイカブル』の続編にあたる『スプリット』を生み出し、賛否両論を巻き起こしながらも低迷期を越えて吹っ切れたように、独自の世界観を展開し、集大成ともいえる『ミスターガラス』を世に送り出す。どの作品も比較的低予算で撮られ、興行収入も並以上であり、興行面においても成功を収めているといえる。

そして2021年夏、グラフィックノベルSandcastle』にインスパイアされた作品『OLD/オールド』が公開され、2022年夏現在、『Knock At the Cabin』の2023年公開を控えているという状況だ。ウィキペディア(Wikipedia)参考

今回はそんなM・ナイト・シャマランのフィルモグラフィーにおいて、監督として一面に加えて、彼の手掛けた脚本(厳密に言えば完成した映画におけるストーリテリング)について考えていくつもりである。そのため、シャマラン監督作全13作品の内、脚本も同時に手掛けている11作品(『エアベンダー』『アフターアース』を除く)について言及していきたい。

では、本題に入っていこう。

 

不可視の事物との対峙を描いてきた監督

M・ナイト・シャマラン監督を簡潔に一言でまとめると「不可視の事物との対峙を描いてきた監督」である。そして詳しく言うなら「不可視の事物が可視化されることで生まれるエモーションを駆使し、その瞬間を映画に撮ってきた監督」だ。

 彼のストーリーテリングには、常に"不可視の事物"が物語の中核にあり、主人公たち(多くの場合は少年を含む家族)が"それ"と対峙する。そして劇中にて、不可視の事物が可視化されることで、映画のエモーションは最高潮に達して物語は完結へと向かっていく。(いわゆる”どんでん返し”)

 厳密に言えば多くの映画が「見える/見えない」の法則に則り、映画的映像技法としてを撮影している。ただシャマランにおいて特筆すべきなのは、それを「ストーリーテリングの領域で高いレベルで行っていること」なのだ。これが彼の映画のストーリーテリング、つまり彼の脚本の一貫した作り方なのだ。

 

分かりやすく箇条書きすると、

①「不可視の事物との対峙」が物語の中核にあること

②不可視の事物が可視化されることで映画にエモーションをもたらす

この二つがシャマランのストーリーテリングにおいて重要になっており、彼の作品の完成度や善し悪しは「可視化、不可視」の要素に大きく依存しているのだ。ここではそれら一連の映画技法と作家性を「映画的可視不可視の操作」と表現して、本記事では扱っていく。

 

では各作品をフィルモグラフィー順に例を挙げて説明していこう。

 

 

『翼のない天使/WIDE AWAKE』(1998年 主演ジョセフ・クロス)

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スピルバーグを意識した作品、"シャマラン的"ではない。

『翼のない天使』はスピルバーグ風味の少年成長譚で、祖父の死をきっかけに無垢な少年が神様(天使)を探そうと奔走する物語である。――――――シャマランはスピルバーグ好きを公言しているため、その影響は言うまでもない―――――祖父の死に対して、漠然と神の存在を探し始めるという行為は、未熟な少年なりの喪失の受け入れ方だ。亡き祖父を想うことは、常に主人公の意識は"不可視の事物"である祖父へと向けられていることであり、そして祖父同様"不可視の事物"である神(天使)の存在を探すという行為そのものが映画において推進力として働いている。ただこの映画は②に関しては、そのスリラーとは掛け離れたあらすじからも分かるように、"シャマラン作品"的とは言い難い。そう決定づける理由として、少年が喪失を克服する要因となった出来事と、"不可視の事物"が"見える"という展開とが、直接的な因果関係になく、少年にとってのご褒美、あくまでおまけとして用意されているためだ。

 

『シックス・センス/The Sixth Sense』(1999年 主演ブルース・ウィリス)

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「不可視→可視」こそがエモーションの源泉

彼のストーリーテリングが成熟し、「映画的可視不可視の操作」が映画の中核として機能し始めるのは『シックス・センス』だ。主人公である小児精神科医のマルコムが、"死者が見える"第六感を持つ少年と交流していき、互いのトラウマを癒していく(そして衝撃の事実にぶち当たる)というのが大まかなあらすじである。

いうまでもなくこの映画における"不可視の事物"は「少年の第六感」であり「幽霊」である。少年は誰にも"見えない"第六感によって自分だけが"見える"幽霊によって日常が脅かされ、苦悩していく。この少年の「見えないはずのものが見えてしまう」という葛藤が『シックスセンス』のストーリーの屋台骨になっており、まさしく先程述べた①の要素を用いたシャマラン風のストーリーテリングだといえる。

また、もうひとつ"不可視の事物"がある。それはマルコム視点の世界だ。『シックスセンス』の世界の幽霊は自分が死んでいることに気づいていないという設定がある。それは幽霊たちが少年曰く「見たいものだけを見ている」からなのだ。逆にいえば、幽霊が都合よく"不可視の事物"を生み出しているということ。マルコムにとっての"見えない事物"は、地下室へ向かう扉の前にある本棚(机だったかも)であり、彼の体に刻まれている銃創であり、結婚指輪である。そしてこれらの"不可視の事物"が"見える"ことで「実はマルコムは幽霊だった」という衝撃のどんでん返しは演出されている。 

このように②にあたる要素がどんでん返しの基本にあり、「不可視→可視」が後の『サイン』や『ヴィレッジ』などのシャマラン映画におけるエモーションの源泉となっている。

 

『アンブレイカブル/Unbreakable』(2000年 主演ブルース・ウィリス)

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「何が見えるべきか、何が本来見えないのか」

では『アンブレイカブル』においてはどうだろうか。シャマランによるヒーローバースとしての一作目。列車事故で唯一生還したダンが、謎の人物イライジャとの出会いを期に、超能力[怪我をしない、怪力、悪意感知]に気づき、ヒーローへと目覚めていくという物語。

今作における"不可視の事物"とは「超能力そのもの」や「イライジャの正体」であり、前作のような見えない事物(超越した存在)と子供の対峙の構図は、主人公デヴィット・ダンとその息子オードリー・ダンとして登場する。ここで面白いのは、超能力を持つ父親にコミックヒーローの姿を重ねる息子の羨望が、本作の悪役であるイライジャこと"ミスターガラス"のヒーローに対する羨望と重なっていること。イライジャもまた、息子と同様に"不可視の事物"に魅入られた"少年"であり、そしてコミックやフィクションに羨望を向ける読者とも重なる。つまりイライジャの存在によって、本作における「不可視の事物との対峙者」は「ヒーローを渇望する者達」となるのだ。

 

また何よりも本作の特徴として挙げられるのは、現実に即した超能力やヒーロー描写が挙げられる。主人公の超能力は簡単にいうと「超人的な肉体」である。しかし派手なエフェクトで銃弾を跳ね返すようなシーンや傷が急速再生するようなシーンで、そういった超能力を表現することはない。他にも怪力を表現するのにおいても、本作ではウェイトリフティングという地味な方法を用いる。

なぜこのような現実的な超能力表現を駆使したヒーロー映画になったのかについて、私は「何が見えるべきか、何が本来見えないのか」という「映画的可視不可視の操作」の意識(または無意識)があったのではないかと推察する。

 

"現実的である"ということは、我々の世界の見え方を忠実に再現することに他ならない。普通に見えるものは見えるままに、そして見えないものは見えないままにすることが、何よりも"現実的"たらしめるはず。ダンは一見すると普通の人間である。外見からは超人的な肉体は連想できず、それが中盤辺りまでの「本当に超能力を持っているのか」という葛藤の原因にすらなっていく。

しかし、その姿から超人性を悟ることが出来ないことは至って普通なはずだ。そこに立っているだけで人智を越えた怪力だと分かったり、無敵な肉体だと気づくには、例えば異常に隆起した筋肉であったり、それこそVFX的なエフェクトが必要になり、決してそれは"現実的"ではないのだ。

またその法則はイライジャにおいてより顕著に表れる。ガラスのように脆い肉体も彼の個性であるが、彼の超能力は「天才的な頭脳」にある。しかしこの映画だけを観て、そのことに気づくことは実は容易じゃない。何故なら作中では常に脆い肉体ばかりが言及され、「不壊」である主人公と対比され続けるからだ。そしてなによりも「天才的な頭脳」については、イライジャの母親がラスト10分程で言及されて初めて明らかになることである。ここにも「天才的な頭脳="不可視の事物"」が可視化される構図があり、"見える"ことでこの映画は結末を迎えている。

このように「何が見えるべきなのか、何が本来見えないのか」をシャマラン流にコントロールすることが"現実的"な描写に繋がり、シャマラン独自のヒーロー映画が生み出されたのだ。ダンやイライジャにおける超能力が"不可視の事物"(=人は簡単に気づかれないもの)であるという価値観は『シックス・センス』における第六感に通ずるものであり、「見える、見えない」を現実に即して徹底的に区別することにより、シャマランのヒーロー映画はより現実に深く根差した作品となった。未だにこの現実路線で本作を越えた作品はないだろう。(マーベルのネトフリドラマ群はかなりいい線)

 

『アンブレイカブル』の続編である『スプリット』『ミスターガラス』では、超人性が不可視の事物であることをメタ的に扱っていく。見えないこと=偽物や妄想だから見えないのではないか、というパラノイアに対する問題提議へと発展し、そして「見えていること、それ以上の真実はない」という答えへと向かっていくのだ。(詳しくは後述する)

 

 

『サイン/Signs』(2002年 主演メル・ギブソン)

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"オチを作る"という行為

ここまで三作品を取り上げてきて、特に『シックス・センス』『アンブレイカブル』は個人的にも面白い作品だと私は思っている。だが三作品においてどこか懸念していたのは、全てを見せて明瞭に一つのオチを提示してしまうシャマランの迂闊ともいえる手癖が、いつか映画をダメにしてしまわないかということである。更に詳しく言うなら奇抜な設定と"見えない"ことによって生まれる奇妙な手触りが、オチとして可視化してしまうために、つまらない映画にしてしまいかねないということである。

 

例えば『シックス・センス』では「ブルースウィリスが幽霊だった」という結末は確かに衝撃的ではあったが本作の主題は、精神科医ダンと少年コールが心を通わせる姿、互いを通して苦悩を乗り越える行程にあり、『シックスセンス』が名作となったのはそのドラマツルギーにこそあったはずだ。

だからこそ、あのオチは映画の繊細な内向的なテーマを忘れさせ、映画を「びっくり箱」にしてしまい、短絡的などんでん返し映画にしかねないのだ。(「シックスセンス」に関しては絶妙な塩梅によってギリギリ回避していると考えている。)

 

そしてその危惧が的中してしまったのが『サイン』であった。

ミステリーサークルなどの"兆候"が世界各地に表れ始め、テレビでは昼夜、奇妙な現象についての報道が続く。片田舎で食い入るようにテレビをみつめるグラハムら家族一同は、未知の恐怖に怯える他ない。

「"兆候"は神の啓示なのか、偶然なのか。神は存在するのか」

そういった"終末の予感"を片田舎の核家族の視点で物語っていくというのがこの映画である。

本作の構造はまず、"兆候"つまりサインとして色々なモチーフや奇妙なエピソードを羅列されていく。テレビの情報であるミステリーサークルや円盤といった奇妙なモチーフや、娘の言動や行動(水の入ったコップをばらまく奇行)、メリルが野球をやっていた過去、グラハムが元牧師で妻の死によって信仰心を失ってしまったことなど、そういった伏線ともいえる"兆候"が明らかな意図を匂わせながら散りばめられていく。それらが奇妙な謎として主人公の周りに不自然かつ堂々と蓄積されながらも、意識はテレビに映る世界に注がれていくことで、周りの世界とのギャップに麻痺していく。そしてただ身にその事象が降りかかるその時を待つほかないという「終末の日を外様の視点で描く」という面白さに繋がっていく。

奇妙な空気感が最高潮に達し、遂に"そのとき"がやってくる。宇宙人らしきものの襲来。自宅を襲われ、必死に逃げ惑うグラハムら家族。地下室での攻防は実に良い。

だが、宇宙人の姿が白昼の基に晒されたクライマックスにこの映画は駄目になってしまう。

これまで蓄積されてきた"兆候"の全てにこの瞬間のための必然性が開示されていく。メリルが野球をやっていた過去はバットという"形成逆転の武器"に繋がり、ばらまかれていた水入りコップも宇宙人の弱点だという衝撃の事実に繋がる。「メリル、打って!」という遺言もこの展開を示唆するようであり、息子の喘息すら、必然性があったと示される。ここでいう必然性とはつまり、作中の言葉を使うならば”神の啓示”であり、そして映画的に描かれた意図を指し、全てはこのオチに収束するように配されたのだと明瞭に提示されるのだ。

本作最大の主題であった「"兆候"は神の啓示なのか、偶然なのか。」という神の存在証明においても、この出来事を機に、グラハムは信仰心を取り戻す描写によって「神はいる、偶然などない」と明快な回答を提示してしまう。

この結末に対して、「何を信じるべきか」よりも「神であれ、偶然であれ、信じることで救われるのだ」という結論だと観れるともいえるだろう。しかしメル・ギブソンという厳格なカトリック教徒にキリスト教徒への復帰する牧師を演じさせて、「信じる対象はなんだってよい」なんて結論であるはずがない。明らかに宗教的なニュアンスに収束されたラストだといえる。

 

ただこの明快な回答こそが、この映画を駄目にしている。これまでに積み上げたはずの奇妙さに意図が与えられることで、奇妙さはわざとらしいものに写り、この映画は最初から最後まで自由意志のない決定論的な世界観に変貌してしまう。

そして本作はなにより明確にされたその宇宙人の姿を白昼のもとに晒したことが失敗だったといえる。恐ろしい程にオリジナリティーがなく滑稽なビジュアルも一因であるが、それ以上に姿を現したことや対面したことによって「しょうもない宇宙戦争もの」になり果ててしまったのだ。

シャマラン映画は"不可視の事物"を中心に、物語を坦々として奇妙に進めていく前半と中盤にこそ、主題が織り込まれる。そして"見えること"によってその物語に変調が起こり、混乱はもたらされ、物語は終幕を迎える。

しかし"見えること"による変調は主題を塗り潰しかねないし、その"オチを作る"という行為の持つ物語を明瞭にして単純化する性質は、作品を唾棄すべき滑稽なものにしてしまいかねないのだ。

『サイン』はそのことを身を以って提示し、まるでこの作品を"兆候"とするかの如くシャマラン低迷期を予感させるのだ。

 

『ヴィレッジ/The Vilage』(2004年 主演ブライス・ダラス・ハワード)

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「観客と主人公の視界の不一致」そして「映画的可視不可視の操作」の完成

シャマランのストーリーテリングの悪い所が出てしまい駄作となってしまった『サイン』。そんな不安の中で次作として公開されたのは『ヴィレッジ』である。結論から言えば、その悪癖は見事に払拭され、それどころかシャマランのこれまでの「どんでん返し」話法を、「観客と主人公の視界の不一致」によって新しい境地に引き上げた作品であるといえる。

 

本作は三幕構成であるが、大きく分けて前半と後半に分けることが出来る。それもそのはず、本作は「実は中世の物語ではなく、現代の物語だった」という”どんでん返し”が中盤に用意されているからである。

前半は中世ヨーロッパ世界を舞台で話が進んでいく(ようにみえる)。盲目の女性アイヴィー(ブライス・ダラス・ハワード)と幼馴染で大人しい男性ルシアス(ホアキン・フェニックス)によるラブストーリーが展開されていき、これまでのシャマラン作品とはルックからストーリーから全てが違う印象を受けるものになっている。また本作は何度も呪いや怪物というキーワードが飛び交うため、一種のおとぎ話、寓話になっており、これまでの現代に時間軸を置き、現代劇としてきた作品群とも少し変わっているのだ。

 

では、本作における"不可視の事物"とはなんだろう。そこが本作の難しいところでもあるのだが、盲目の女性アイヴィーが持つ"見えない"という性質によって、主人公にとって取り巻く世界全てが"見えない事物"であるのだ。しかし観客にとっては"見える"ためにアイヴィーと観客に齟齬が生まれていく、これはシャマラン作品では極めて異例なのだ。例えば『シックスセンス』ならば、少年コールは"見える"という性質を抱えていたが、観客にも彼の見ている世界が見えるために齟齬は起こらなったし、『アンブレイカブル』『サイン』においても観客と主人公は、同時に"見える"ようになっていき、観客しか知らないことや主人公しか知らないことは基本存在しない作りになっている。

そのやり方はアルフレッド・ヒッチコック的で、彼は観客にはできるだけ状況を説明(誰が犯人なのか等)して登場人物と観客の情報格差からサスペンスを生み出していた。それに近い事を本作は行っているのだ。(これ自体は別に珍しい事ではない)

アイヴィーにとっては全てが常に"不可視の事物"であり続ける、そのせいともいえるのかこの映画は、本来その正体をカメラワークを駆使してギリギリまで隠すべき、怪物の姿(正体ではなく)を早々にカメラの前に晒す。怪物の姿を晒すことは、おとぎ話としての印象を植え付ける。このように前半は観客が恋愛劇が中心にある寓話的な物語だと認識するように意図的に設計される。

 

しかし後半になり、ようやくこの映画の主題にも関わってくる観客と登場人物(主に主人公)共々にとって"見えない事物"が明らかになる。その"見えない事物"とはその世界がある"時代"と"場所"だ。

前半のラブストーリーはルシアスがノア(エイドリアン・ブロディ)に刺されることによって急展開を迎える。瀕死のルシアスのためにアイヴィは村を出て森の奥の街に向かい、薬を手に入れようと考えるが、村の長が決めた掟がそれを許さない。村の長たちは、何か含みがありげな会話を経て、彼女を送り出すことを決める。

彼女は死に物狂いで、愛するルシアスのために森を抜けると、そこには中世ヨーロッパにはないはずのアスファルトと自動車、そして現代的な制服をきた男が居たのである。そう、ここで初めて「実は中世の物語ではなく、現代の物語だった」という”どんでん返し”が起こる。

だが彼女には、このどんでん返しが起こらない。何故なら"見えない"からである。そしてそれだけにとどまらず、村の年配方の会話がクロスカットされていくことで村誕生の秘話が観客にだけ提示されていく。村の創始者である彼らはだれもが、現代社会において犯罪によって大事な人を失った者であり、社会や人間に絶望した彼らは、人を寄せ付けない環境保護区域の森に文明水準を中世までに落とし、犯罪等の人の悪性とは無縁の独自の世界を作り上げたのだと。

ここにシャマラン映画の「映画的可視不可視の操作」の完成を感じたのだ。これまでのシャマランは観客と主人公は同じ立場から"どんでん返し"を目にする。そうすることで、登場人物への感情に同期してその体験を感じる。だがその構成は、そのリアクションで終わり、その先への思考放棄をもたらしてしまう。今回の"どんでん返し"は決して本作の主題を台無しにしない。というよりどんでん返しによって主題である「現代社会から抜け出し、牧歌的な世界に逃げることで人の悪性を切り離すことができるのか」という性善説的な考えに基づく主題がようやく表面化するのだ。そしてここで、思い出されるのはノアがルシアスを刺したことであり、それ故に既に性善説的なその理想が崩れ去ってしまったことだ。

 

これまでのシャマランは"不可視の事物"が"可視化される"ことでエモーションを生み出し、主人公に変化を与え、そして物語をそこで打ち止めにしてきた。

だが本作では"不可視の事物"が"可視化される"ことによって主題が初めて提示される。そして主人公には決して変化が訪れず、観客は既に目指すべき理想が崩れ、歪に繕われた村の未来を案じ、終わるのだ。だが、盲目のアイヴィーが見せた勇気と愛情迸る姿が、何よりも世界を見ることを拒絶し、盲目な"村"の未来を暗示しているようにも思うのだ。この観客と登場人物の齟齬によって生まれた歪な結末に対する"余韻"こそが、シャマランがこれまでできなかったどんでん返しの先を描くことであり、そして「見える、見えない」を巧みに操作することで成し遂げたシャマランの映画術の初期の集大成なのである。

 

低迷期の始まり

『ヴィレッジ』で初期作品における集大成をみせたシャマラン監督だが、ここから『レディインザウォーター』『ハプニング』『エアベンダー』『アフターアース』とつまらない映画を連発する。シャマラン暗黒時代である。『エアベンダー』『アフターアース』に関しては、シャマラン脚本でないことや冒頭でも述べたようにクリエイティブ面でのコントロール権がシャマランになかったことに原因があるだろう。では、『レディ・イン・ザ・ウォーター』『ハプニング』に関してはどうだろう。

 

 

 

『レディ・イン・ザ・ウォーター/Lady in the Water』(2006年 主演ブライス・ダラス・ハワード)

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あらかじめ断っておくが、この映画において「見る、見ない」の構図はほとんど成立していない。映画のクライマックスには、これまで童話や伝聞上でしか登場していなかった想像上の生物(不可視)が"見える"ことで終わるため、本作もその点について語ることはできる。しかしその内容は『サイン』とほとんど同じであり、お粗末な宇宙人を白昼のもとに晒したことが敗因であったのと同様に、あけすけにその姿をみせることで、リアリティーラインが錯綜して陳腐にしてしまったことが、本作の敗因である。

ただ本作の決定的な欠点はそこではなく、本記事の趣旨とは関係ないところにあるため、ここに尺を割くべきではないだろう。自分のFilmarksにて多少その点について書いているので、そちらでご容赦いただきたい。

filmarks.com

 

『ハプニング/The Happening』(2008年 主演マーク・ウォールバーグ)

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不可視の事物が"見えない"まま終わることの弊害

 ある日突然、街中で大人数の同時自殺事件が発生する。テロ行為なのか毒なのか定かではないが何かが起こっていると、アメリカ中で騒ぎが起こり、マークウォールバーグ演じるエリオットとゾーイデシャネル演じるその妻アルマは、友人の娘ジェスと共に、安全な場所に避難しようと右往左往する。これが大まかなこの映画のストーリーである。

 原因不明の自殺もたらす"何か"が本作における"不可視の事物"であり、『サイン』のように主人公たち含め、アメリカ中の人を恐怖で支配する。また『シックスセンス』『アンブレイカブル』『サイン』と同様に"不可視の事物"と対峙するのは、子供を中心とした家族であり、この映画においてもシャマランの「映画的可視不可視の操作話法」は健在である。

ただこういったシャマラン映画的な要素が見受けられながらも、本作は違った要素も大きく分けて二つ見受けられる。一つは「グロテスク描写を白昼のもと"見せる"」こと、もう一つは「不可視の事物が"見えない"まま終わる」である。

「グロテスク描写を白昼のもと"見せる"」に関しては、本作の一番の見どころであり、評価すべき点だといえる。街中に人々が突如として自我を失い、近くにある刃物や丁度良い物体で自殺をしていく様はかなりショッキングな映像であり、その多種多様な死に様と白昼の下で、一切のぼやかしもなく晒されるところに"画"としての面白さが生まれている。これまで大胆に"見せる"ことは『サイン』『レディ・イン・ザ・ウォーター』のように悪い方向に働くこともあったが、その明け透けさや滑稽さが、ブラックユーモアとして効いているのだ。

 

ただもう一つの要因である「不可視の事物が"見えない"まま終わる」ことは頂けない。本作において不可視の事物の正体は、中盤から終盤にかけて明かされる。それは植物による自衛行為として生まれた"毒"だ。その毒が風に乗り、人に吸収されることによって自殺衝動をもたらすのだ。

ただ、最後までその姿は"見えない"。"風"という視覚で捉えられないものが恐怖の対象としてあり、その原因がなんだか分かったとしても、観客にはそれが見えない。そして見えないがゆえに、主人公が何故生き残れているのかが伝わってこないし、緊迫感が生まれないのだ。

この映画は"風"という非常に描きにくいものを恐怖の対象として描こうとして失敗している。そして逃げるかのように、錯乱した狂人の描写を挟み、ごちゃごちゃとした印象の作品になってしまった。明らかに本作はヒッチコックの『鳥』の影響下にあるが、シャマランは『鳥』が何故恐ろしかったのかについてもう一度再考すべきだった。

他にもマーク・ウォールバーグ演じるエリオットとゾーイ・デシャネル演じるその妻アルマが一切夫婦に見えないことや、疑似親子もののような構図でありながら、血が繋がらずとも、絆が深まっていく様子などが全然描けていなく、その構図から来る旨味が一切ない。

これらが原因で本作はどうしてもグロテスク描写一辺倒の作品に仕上がってしまった。興行収入は悪くなかったものの、批評面での評価は低く、私も完全に失敗作だと思っている。

 

 

※エアベンダーとアフターアースは省略(脚本を書いていないため)

 

 

『ヴィジット/The Visit』(2015年 主演オリヴィア・デヨング)

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幼少期への原点回帰

低迷期の4作品を越え、シャマランは原点回帰に至る。本作からシャマランは映画製作費の全てを自費で行い、クリエイティブ面の完全掌握を始める。本作以降が低予算で作られている作品であることもそういった部分に要因があるのだろう。

本作を原点回帰としたことにはそのスリラージャンルへの回帰という意味だけではなく、しっかりとした理由がある。それはPOV形式のファウンドフッテージ作品になっていることである。POV形式に関しては『翼の無い天使』以降の作品で初の試みであることに相違ない。だが彼の"原点"はそれら商業作品を指さない。

彼は商業作品を作る以前、買い与えられたビデオカメラを使い、趣味で幼少期から自主制作映画を作製していた。製作した作品は全部で40本。『サイン』や『シックスセンス』のDVDの特典としてそれらを見ることが出来るが、その頃の初期衝動で映画を作っていた頃の手持ちカメラで制作していた頃こそ"原点"なのだ。

またこの映画は忘れられがちだが、「ドキュメンタリー映画を撮ろう」を始まりとする映画である。その子供が映画を撮ろうとする姿勢もやはり、幼少期から映画を撮っていたシャマランの原点の姿そのものであるのだ。

そんな原点回帰の作品だが、本作においても「映画的可視不可視の操作」がPOV形式を通して利用されている。

POVを用いるドキュメンタリーチックな映像は「何を見せるか、また何を見せないか」が、登場人物の主観的な意識が強く影響された映像だといえる。つまり登場人物が見ているもの(取得する情報)と観客が見ているものが同一となっている状態を作り出せるのだ。その中で、この映画は「見えているものへの先入観」を最大のトリックとして用いて、眼前にあるものを"不可視の事物"に仕立て上げる。

本作では、狂気的な行動の数々は恐ろしい事として度々描かれており、その異常性は"見えている"。にもかかわらず、「彼らは祖父祖母である」という先入観で、彼らが置かれている状況への違和感は最小限に抑えられている。そこからノートPCのWebカメラで母親から"見える"ことではじめて「彼らは精神異常者である」へと認識が変化し、先入観が晴れることで、姉弟は異常な状況に置かれていることに気づくのだ。

 

この登場人物たちの先入観という概念(思い込み、錯覚)を用いた"どんでん返し"は『シックスセンス』以来である。『シックスセンス』の少年コールは「幽霊は見たいものだけを見る」と幽霊について言及し、その幽霊たちが等しく持つ"先入観"こそがどんでん返しのトリックとなる。つまり、本作は『シックスセンス』に近い構造を備えているのだ。そういった意味でも初期に回帰した作品として見ることが出来る。

このように様々な観点で原点回帰的な作品であるからこそ面白いのだろう。ただこれまでにないようなユーモア要素がふんだんに描かれていたり、これまでのシャマラン映画の少し大人びた暗い子供と比べても、実に快活で少年らしい少年像になっていることなども、この映画を成功させた要因だと感じている。

シャマラン監督は常に、新しいことに挑戦してきた監督だ。だからこそ、多くの失敗をしてきたのだ。その挑戦が身を結び、彼本来の作家性と強くシンクロしたのが、この『ヴィジット』なのだ。

 

 

『スプリット/Split』(2016年 主演ジェームズ・マカヴォイ)

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「見えないものは存在しない」への布石

シャマランによる「アンブレイカブル」三部作第二弾。公開当時は一切『アンブレイカブル』との関連性を告知されていなかったため、エンドクレジットのおまけで観客の度肝を抜いた作品であり、私がシャマランの"どんでん返し"を始めてリアルタイムで体験した作品でもある。(ほとんどの人は『アンブレイカブル』を見ていないなんてことは言ってはいけない)

話はこれまでと同様に不可視の事物(又は超常的な存在)に脅かされ、対峙していくという基本骨子を持っており、本作における不可視の事物とは『アンブレイカブル』と同様にマカヴォイ演じるケヴィンの存在(又はその超能力)を指す。

彼は23の人格を有しており、その全ての人格に意思があり、ケヴィンの中でそれぞれが主義主張を持って争っているという設定で、その多重人格は決してハルクのように描かれるのではなく、マカヴォイの圧倒的な演技力と些細な衣装替えによって表現されており、この作品の見どころの一つだと言える。

 

ケヴィン達(群れ)は24番目の人格"ザ・ビースト"の召喚を目的とし、その儀式の為に「苦悩を知らず、そして不幸なき純粋な存在」を生贄に捧げることで召喚を為そうとする。しかし、捕えた女子高生三人の中で、彼女だけは、親族に虐待を受けている背景があり、その傷が物語る。この映画においてもアニャ・テイラー=ジョイ演じるケイシー・クックの体に刻まれる傷が映画終盤で可視化されることによって、物語は収束に向かうのだ。ケヴィン達が誘拐した理由も、彼がケイシーを見逃した理由も、彼女の外見に強く依存している。だからこそ彼女の背景が、"見える"ことによって明かされ、窮地を脱する。"彼女がどう見える"が彼女をスリラー展開に誘い、そして開放するというストーリーテリングに起因している、これこそシャマラン映画なのだ。これらの「どう見えるのか」を意識した物語は『アンブレイカブル』に通ずる世界観であり「何が見えるべきなのか、何が本来見えないのか」を強く意識された世界だからこそのものである。

 

この映画は『アンブレイカブル』の続編ということであるが、それ以上に『ミスターガラス』に向けて問題提議を残す作品としてニュアンスが強いと感じている。その問題とはズバリ「見えないこと=偽物や妄想ではないかというパラノイア」である。実は『アンブレイカブル』ではダンの個人的な葛藤として描かれていたものではあるが、問題提議としてはあまり触れられてない部分だった。

しかし本作では、明らかにその超能力が幻想であったり、病気なのではないかという視点が描かれ、一種のパラノイアを生み出そうとしている。

これまで不可視であるものを超常の存在や対峙すべき恐怖として描き出し、可視化することで"真実"だと描き、向き合ってきたシャマラン映画の登場人物たち。

ここでシャマランはその根底を覆すような「見えないものは存在しない」という問いへ回帰する。『シックスセンス』のコールのは母親がそうであったように、『ヴィレッジ』の村人たちがそうであったように、「不可視の事物との対峙」についてその根源的な問題へと行き着くのだ。

 

『ミスターガラス/Glass』(2019年 主演サミュエル・ジャクソン)

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「不可視の事物との対峙」の根源的な問へのアンサー

『ミスターガラス』はシャマランの一つの集大成であり、そして彼の映画に対する姿勢や作家性の総括といえる作品だ。この映画では「見えないものは存在しない」という「不可視の事物との対峙」における最大の命題を描き出す。そしてそれは、現実で存在しないものとされてきたマイノリティーの問題にも関わってくる。

 本作に出てくるダン、ケヴィン、イライジャは病院に監禁され、エリー・ステイプル医師によって妄想に囚われた心の病気を持つ精神疾患を持つ人として病院に隔離される。ステイプル医師は言葉巧みに彼らの超能力を心の病だと誘導していく。彼らと同様に観客も一種のパラノイアに陥りそうになっていく訳だが、そこに「見えていない事象」を他者に証明する困難さが表れている。

これまでの『アンブレイカブル』三部作では「何が見えるべきなのか、何が本来見えないのか」を徹底することが作品全体に通底する作風であった。怪力や不壊、天才的な頭脳、多重人格…それらの超能力は本来外見的な特徴から見えないもの。だからシャマランの映画では、超能力は他者によって容易には認識できないものとして描かれてきた。

しかし本作はその「見えないものは他者によって容易には認識できない」という超能力の非現実的な一面を突いてくる。

「超能力なんているわけない」

という主張は何よりも現実的に即した考え方であり、本作のようなヒーロー映画には相容れない懐疑である。しかし、あえてその懐疑を持ち込み、非常にメタ的な視点で"ヒーロー/t超能力を持つ彼らとは何か"を再定義する。

そのメタ的な視点をなにより可視化されているのは"病院"である。本作はケヴィン(群れ)を捜索するダンの視点から始まり、ダン持ち前の索敵能力でケヴィンを発見し、バトルに突入していく展開になっていき、正に"アメコミヒーロー的な展開"をみせる。しかしその激しいバトルはエリー・ステイプル医師率いる謎の組織の介入で、唐突に中断される。この唐突な介入から本作の違和感は始まる。

 そもそも組織は彼らの弱点を当然のように知っており、無力化することに成功する。この情報が筒抜けになっている状況は、介入してきた勢力が我々観客と同じくメタ的な存在であるかのように思わせてくる。

 そこから、先ほどまでとは一転した"病院"という閉鎖的かつ異質な雰囲気の空間に閉じ込められ、本作の第二幕は始まっていく。無機質さを感じさせる内装の病院、特にピンク一色で不気味に染められた部屋で、彼らは弱点を突かれて部屋を出ることも出来ず、ステイプル医師によって、有ると信じていた超能力、そしてその"信念"が揺るがされていく。その様はあまりに無力であり、序盤のバトルが嘘のようだ。

 

 序盤が「ヒーローの居る世界/超能力のある世界」つまり、コミックの世界であったのに対し、この病院は「ヒーロー(超能力)なんているわけない」というメタ的な懐疑が存在する空間として描かれている。そんな空間に閉じ込める彼らは「ヒーローのいない世界/超能力のない世界の住民」であり、つまり我々観客と同じ世界の「ヒーロー(超能力者)を信じない」人々なのだ。彼らこそが本作の「不可視の事物との対峙」をする者達であるわけだが、これまでと違い、不可視の事物を「存在しない」ものとしようとする明確な敵対者として彼らは対峙するのだ。

 この映画はメタ的な空間にヒーローを閉じ込め、「ヒーロー(超能力者)とは何か」を再定義しようとする。それは『サイン』で全ての人や物に役割(ロール)を逆算的に配されることで、露悪的な説話構造を晒して見せたように。そして『レディ・イン・ザ・ウォーター』にて全ての人間が御伽噺の登場人物をロールすることで、自覚的に一つの物語を完結させることで、フィクションに対する忖度を露呈してみせたように、超能力を持つ彼らをフィクション世界から抜き出し、コミックヒーローというロールを剥き出しにして、否定する。まるで「ラストアクションヒーロー」のようでもあるし、「魔法にかけられて」であり、「トイストーリー」のバズに通ずる再定義である。

 ではそもそもとして「ヒーロー(超能力者)」とは何なのか。シャマラン作品においてそれは、勧善懲悪的なアメコミヒーローであるが、そこには異能を持つマイノリティーとしてニュアンスが含まれる。つまり世界にその存在を消されてしまいそうな弱者というニュアンスが。

 それは『アンブレイカブル』と『スプリット』において「映画的可視不可視の操作」を駆使し、ダンやケヴィンの孤独や苦悩を描いてきたことで現実と地続きに描く意図があったことからも分かる。つまり本作における不可視の事物と対峙する彼らである「ヒーローのいない世界/超能力のない世界の住民」とは、弱者たるマイノリティーを抑圧し、普通という価値観に押し込めることで存在しないことにした世界であり、「ヒーローを信じようとしない人」はマイノリティーをいないものとする人々だ。

そう考えると「病院」という場所、そして「治療」という名目から連想される「普通」へと押し込めようとする悪意のおぞましさはよりはっきりとしたものになる。

「見えない」のではあれば「存在しない」。本作において、 "不可視の事物"とは超能力であり、存在を消されようとする超能力者たちであり、マイノリティーであるのだ。

 

その中で一人沈黙を守る存在がいた。超能力を信じ、信念を持って生きてきた"超能力者"達が、単なる精神疾患患者へ貶められる中で、彼らの信念やアイデンティティを砕かれようとする中で、一人揺るがぬ「信念」を持ち続けた男がいた。

そう、本作の題でもある"ミスターガラス"である。

彼こそが何よりもこの世界で「ヒーロー(超能力)」を信じて渇望した存在であることは、『アンブレイカブル』で描かれてきた。

彼は「ヒーロー(超能力)」に憧れた。だが彼にはそれを叶えるだけの身体はなく、そればかりか満足な生活を送るための"普通"の身体すらも持ち得なかった。それ故に自らを「ヴィラン」なることで、逆説的に「ヒーロー(超能力)」の登場を求めたのだ。本作においても彼はやはり、誰よりも「ヒーロー(超能力)」を信じて渇望した存在である。その信念は決して揺るがず、「ヒーロー(超能力)」の存在を証明することに全てを費やしてきた人間だからこそ、「ヒーロー/マイノリティーの存在を認めない世界」へのカウンターとなりうるのだ。

彼の思惑の全てが明かされるの映画のラストだ。

ミスターガラスの天才的な作戦によって、ダンとケヴィンは解放され、病院の前で一騎打ちをすることになる。その構図は「ヒーローvsヴィラン」の構図であり、ヒーローコミックを象徴するような構図に他ならない。

しかしそこにおいて、ヒーローコミック的な構図が意味するのは、勧善懲悪神話の再現でもなく、何かしらのプロパガンダでもない。

彼らの対決は、ミスターガラスが前もって脱走を発見させることで病院中に取り付けさせたカメラによって、撮影されていた。ミスターガラスはその撮影された映像を世界中に公開することで、「ヒーロー(超能力者)は存在する」ということを証明する。つまりヒーローvsヴィランの構図は、そのままマイノリティーの存在証明としての意味をもつのだ。

これまで本作が「見えないものは存在しない」としてダンやケヴィンのような超人の不可視性を突き、「ヒーロー/マジョリティーの存在を認めない世界」を作り出したのに対し、そのカウンターとして彼らを公然の場で背けようのない事実として「見せる」ことによって証明する。不可視とされてきたものを可視化することで、ヒーロー/マイノリティーの存在を証明した本作は、シャマランの「映画的可視不可視の操作」における「見えないことは存在しないのでは?」という命題に対して、「見せる」ことで「見えることの真実性」を解答として提示した。そして何よりしっかりと「見える」ことがマイノリティーをフックアップするという彼の映画史上最高のエモーションに繋がっているのが、何よりも素晴らしい。

彼がこれまでに描いてきた『アンブレイカブル』三部作としても、「不可視の事物との対峙」の根源的な問へのアンサーとして「見えていること、それ以上の真実はない」と提示した本作は、最高の集大成であることは疑いようのないことである。

 

 

『オールド/OLD』(2010年 主演ガエル・ガルシア・ベルナル)

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「見えない」を受け入れることと「見せる」ことのカタルシスの両立

 これまでシャマランのフィルモグラフィーを「不可視な事物との対峙を描いてきた監督」であるという観点から語ってきた。今回「不可視の事物」として設定されたものは過去のどの作品よりも普遍的で避けがたいものであり、個人的にはリベンジを果たしたような作品だといえるかもしれない。

 人里離れたリゾート地の秘密のビーチに訪れた複数の家族。彼らは楽しい一時をビーチで過ごしていたが、ビーチに流れ着いた死体と共に異変に気付き始める。6歳であるはずの少年が、10歳ぐらいの青年に。ナイフでついた傷が、一瞬で治る。普通では考えられないそれらの事態に、助けを求めようとビーチを出ようとするが、原因不明の気絶によって、ビーチに戻ってきてしまう。そんな絶望的な事態で、彼らが導き出した答え、それは「ここでは30分で1年の時間が過ぎている」というものだった、というのが本作のあらすじである。

 本作における"不可視の事物"とは端的に言えば「時間」である。時間とは形而上的なものであり、可視化するには何かしらを事物を媒介することが必要となる。一番簡単な例は、時計だろう。アナログ時計であれば針の回転移動によって、デジタル時計であれば数字の変化で時間は"可視化"される。ただ本作においては時計は登場しない。その代わりに不可視の事物を可視化させるのは、「不可視の事物との対峙」者でもある成長/老化によって変化する肉体だ。そのため、このビーチにおける時間の異常な進み具合を表現するために、つまり不可視の事物であるものを可視化するために、本作はバリエーション豊かな異常事態を用意する。ナイフによる負傷に始まり、子供の急激な成長、腫瘍の肥大化等の病気の悪化、そして妊娠。相変わらず滑稽な画を真面目に撮るところに感慨を覚えてしまうが、それぞれが非常にショッキングな出来事として表現され、時間の流れの恐ろしさが描かれ、また自覚症状がなく進むがゆえに「体感している時間」の不確かさを如実に表現できているのが面白い。

 

 ここで一つ言及しておきたいのは、それらのショッキングな出来事が全て、直接的な描写を控え、画面外で引き起こされた出来事であるということだ。

主にレーティングの関係で、血が出る表現等が控えられたことが主な要因だと推測でき、そのショッキングな場面に対するリアクションを撮るだけ充分成立していることは承知している。また本作において時間の経過を肉体で表現しているわけだが、大人はメイクによって表現できるのに対し、子供は俳優を変化させていくことで表現しているため、常に画面に収めることは不可能だともいえる。

だが、それらを踏まえたうえでも何もない"空(くう)"を捉えたり、シャマランには珍しい大きな移動を伴うカメラワークなど、露骨なまでに出来事を撮る努力をしないカメラワークは異常だ。

これらの異様なカメラワークは上記した意図とは別に、それは時間の不可逆性を強調する効果を伴っていると感じた。つまり敢えてその出来事が起きる瞬間に、別の場所にカメラを向けることは「タイミングを逃がす」ことを象徴し、タイミングを逃すことはすなわち、またその同じ"時"に立ち会うことは出来ない、という時の不可逆性を露わにすることに他ならないからだ。

 これはこの物語における子供たちの悲哀にも通ずる。彼らは人生に一度しかないはずの青春時代をビーチのせいで一瞬のうちに通り過ぎてしまう。カーラの台詞にもあったように、「プロム(学校行事)にも参加できない」のだ。彼らは本来通るべき、通過儀礼的なイベント全てのタイミングを逃していく。その取返しのつかない現実への悲哀、それが上記したような「タイミングを常に逃すカメラワーク」によって強調されて描かれているのだ。これもまた画面外へと一度追いやり、その後に"見せる"ことでスリラー展開を演出するシャマランらしいやり方である。

 時間の不可逆な経過が根源的な恐怖として描かれる本作において、老化していくことは当然のように恐怖として描かれる。歳をとる恐怖とはつまり、クリスタル(アビー・リー・カーショウ)の抱える恐怖が正に体現し、肉体と精神の不一致からくるものだ。それは『ヴィジット』のただ「老夫婦が醜くて怖い」という話ではなかったことに通じており、本作は『ヴィジット』とは正反対の「歳を重ねることのハッピーエンド」を描いていた。

 ガイとプリスカ夫婦が老いに老いて、耳や目が不自由になっている夜。彼らはこれまでのわだかまりを忘れ、この無慈悲な人生の終わりを、貴方と居られればと、幸福に終えていく。例え、時間は不可逆だとしても、その一瞬を奪うことはできず、その一瞬を幸福に迎えることはできる。彼らの中央にカメラの中心を重ねたような背中越しのショットは、まるで二人の間にある「不可視の事物」を捉えているようであった。

この時間という「見えないもの」に対して、受け入れてハッピーエンドを迎えようとする夫婦の様に対して、本作は、やはり「見せる」という行為で詳らかにすることをラストに選ぶのが、やはりシャマランなのだ。ただし、その「見せた」のは時間という形而上的なものではなく、この事態を画策した者たちの正体であるというのが、興味深い。つまり時間という「見えないもの」を受け入れるハッピーエンドと、首謀者を観客や世間に可視化させることで生まれるカタルシスを両立させているのだ。

 

 このラストにおいて登場するのがシャマラン自身である。実はシャマランが首謀者という展開は監督自身がこの光景を「撮る」という行為によって、ただでさえ、人種や性別、年齢のバラエティーによって世界の縮図的に構成された本作に寓話的な意味合いを更に付与することになり、笑けてくるのだが、ともかく彼の再登場によって過剰なまでにタネ明かしが行われる。これぞシャマランという感じの最後、蛇足という人もいるだろうが、最後に再びホテルを映すことで、違って見える光景は、"見える"ことでエモーションを作り出してきたシャマラン渾身の仕掛けといえるだろう。

 このように本作はこれまで通り「映画的可視不可視の操作話法」を駆使し、見事なまでに難解なテーマの本作をエモーショナルに撮ってみせた。集大成かといわれるとやはり、『ミスターガラス』を上げてしまうが、本作の至る所までに行き届いた可視/不可視の構図は流石としかいいようのない出来である。また見えないものを見えないままに終わらせたことで、中途半端に終わった『ハプニング』に対して、本作は見事に「見えない」ものを「見えない」ままにしたうえで、ハッピーエンドを紡ぎだした点で、リベンジを果たした作品のように感じた。

 

 

シャマランは「どんでん返し」ではなく、「見せる」監督である

ここまでM・ナイト・シャマラン監督の作品について「映画的可視不可視の操作話法」という造語に纏わる形で論じてきた。ようやくして言いたいのは、彼の極めて表層的なイメージである「どんでん返し」は、映画の宣伝広告によって踊らされた結果、つまり勘違いに過ぎないということだ。

彼が常に不可視の事物と対峙し、画面内に可視化することでエモーションを生み出してきた。その作家性の一部として「どんでん返し」というものが表出しているだけで、本質はそういった俗的なプロット主義ではなく、極めて映画的なイデオロギーにあるということが私は約2万字かけて言いたかったことだ。

次にシャマラン監督の作品を観るとき、この試論を踏まえて観ていただければ幸いである。

これ以上の追記は蛇足のため、控える2023年の次回作を楽しみに筆を置く。