劇場からの失踪

映画をこよなく愛するArch(Ludovika)による映画批評 Twitterもあるよ @Arch_Stanton23

MENU

『裸足で鳴らしてみせろ』触れることは、相手を感じること、手に入れること、実感すること。そして突き飛ばすこと、傷つけてしまうこと、束縛すること、現実に引き戻してしまうこと。劇場映画批評82回

題名:『裸足で鳴らしてみせろ』
製作国:

監督: 工藤梨穂 監督

脚本: 工藤梨穂

音楽:黄永昌

撮影: 佐々木靖之

美術: 柳芽似
公開年:2022年

製作年:2021年

 

目次

 

あらすじ

父の不用品回収会社で働く直己と、市民プールでアルバイトしながら目の不自由な養母の美鳥と暮らす槙。ふたりは美鳥の願いをかなえるため、直己が回収して手に入れたレコーダーで“世界の音”を記録することに。サハラ砂漠、イグアスの滝、カナダの草原など各地の名所の音を記録していく中で、互いにひかれながらも触れ合うことができない直己と槙。言葉にできない彼らの思いは、じゃれ合いから暴力的な格闘へとエスカレートしていく。

引用元:

eiga.com

※以降ネタバレあり

今回紹介するのは、PFFスカラシップ第27回作品である『裸足で鳴らして見せろ』である。『オーファンズ・ブルース』で監督デビューした工藤梨穂監督の長編二作品目の本作は、旅をする物語を撮りたかったという監督の考えを発端にしながらも、蓋を開けてみれば異色の旅となっている。今年に観た邦画の中でも現状BESTの作品かもしれない。

では早速語っていこう。

 

 

日常を再発見して彼らの世界として再構築していく

研ぎ澄まされたような五感が世界を形作る。たとえそれが「虚」であったとしても、触れて壊してしまうよりはマシだ。


 映画全体からほとばしる身体性を通して、触れることの尊さと残酷さを、とことん描き続けた見事な一作だ。本作は父親と二人暮しをする「直己」とプールで出会った「慎」、その盲目の祖母の「みどりちゃん」ら、三名を中心にこの物語は進んでいく。

 みどりちゃんの世界を見たいという夢を叶える為、お金のない牧が取った手段は自分達の生活圏でカセットテープに"国の音"を録音することだった。ゴビ砂漠の音と砂場の音で表現し、イタリアの青の洞窟を屋内プールで録音する。それらの行為で、彼らはみどりちゃんに世界一周旅行を届けるようとするのだ。

  彼らのその録音風景が言わば、日常を再発見して彼らの世界として再構築していく行為に他ならない。カセットテープでの録音がノスタルジックな空気を感じさせ、少年の冒険譚のようであり、まるで世界は彼らのもののようであり、彼らの解釈で塗り替えられていく。プールがイタリアになり、近くの小さな滝が、外国の巨大な滝に変貌する。そうしていくことで世界が彼らだけのものに塗り替えられていく。彼らの行為は録音、であれば視覚的な情報であるロケーションは関係ないはずだ。しかしそれでも彼らが撮る場所にこだわるのは、その行為の目的がみどりちゃんを満足させること(騙すこと)ではなく、何よりも彼らが"世界を旅すること"が重要なのだと納得できる。
 また彼らの行為はそもそもとして、金がなく街を出ることの叶わないもの達のごっこ遊びで虚しいものに見える。だが一方で彼らの行為は間違いなく「フィクションを生み出す創作行為」であり、その創造性の豊かさやそのフィクションが一人の女性を幸せにしている事実は感動的だ。

 

触れる/触れない

 触れること、触れないことは身体の距離に結びついた行為であり、二人の青年や理想と現実の間において常に存在するものだ。先程述べた録音という行為もまた、その要素が関わっている。彼らが録音という行為で再現する世界は、まさに触れられない世界である。触れられないことは、たどり着けないこと。だが一方でその遠さにこそ、創造性の余地があり、彼らは非日常的な世界を作り上げているのだ。
 また触れる/触れないで重要なのは、慎の「磁場」に関する発言である。
抱きしめられる相手をどうやって見つけるのか。という慎の人生観の反映された言葉は、養子だからなのか彼が人を信用せずに生きてきたことを察させる。そこに共感と羨望を感じたからこそ直己は牧に惹かれるのだろう。彼らは男性同士がじゃれ合うようにとっ組み合うが、次第に抱擁となり激しさを増していく。(『ブエノスアイレス』のように)
 描写としては『マイ・マザー』のオマージュが挟まれていたりするのだが、彼らの抱擁は性愛とは少し違ったものに見える。直己は表面的には異性愛者だと描かれているのもそうだが、何よりキスの一つもせず、異様なまでに強く抱きしめ合う。
彼らのハグは、同極の磁石を無理やりにくっつけるように「磁場」に抗うからこそ激しいのだ。そして同時に激しいからこそ傷つけてもしまうのだ。
触れることは、相手を感じること、手に入れること、実感すること。そして突き飛ばすこと、傷つけてしまうこと、束縛すること、現実に引き戻してしまうこと
 だからこそ彼らはその関係が壊れないように、傷つけないようにと、最初互いに触れることを躊躇う。それでも触れてしまいたいという情動が彼らをつき動かし、結果傷つけてしまうのだ。

 彼らの結末は、強く触れて傷つけてしまったから。求めれば求めるほどに傷付ける。そこに触れることの残酷さが表現され、また彼らが最後に大切にしていたのものの違い。触れられるもの(見えるもの)と触れられないもの(見えないもの)、場所と人(記憶)などのこれまで会話の中やレコードなどのフィジカルを通して匂わされてきた2人のすれ違いが露呈していく。刑務所の謁見室の窓も彼らを隔てたものの可視化になっていて残酷だ。

 

穴の先の結末

 その後、なおみは大学の友人と結婚し幸せな生活を送る。この辺りの展開が非常にスピーディなのだが、前半の描写の反復になっていて飲み込みやすくなっているのがいい。特にコンビニのシーンは前半で砂のトンネルと同じカットになっているが、思えば砂浜でトンネルを覗き込んだ後に、まるで白うさぎを追いかけるかのように牧を追うことでこの物語の中心的な話は始まる。つまりコンビニでの覗き込みはそのトンネルの穴から出てきたことを指すのだ。

そして反復描写としてはラストの廃品収集車の下りは見事という他ない。車越しに横並びになる2人。違う人生を歩んでいることが可視化されるばかりでなく、どこか時間の進みも違うように思えてならない。
スピーカーからは冒頭と同じアナウンスが流れるが、いきなり聞いたことのある別の音源に変わる。
ゴビ砂漠、青の洞窟…かつて撮った音声だ。
その音声が彼らのかつてを思い出させるばかりでなく、ものを取っておかない人である慎が、そのカセットテープを持っていたという事実にも泣けてくる。
ラストは『スカイミッション』ばりの別れ。本当に見事だった。

 

最後に

触れることで人は簡単に熱を帯びてしまう。だからこそ彼らは夢中になるし、傷つける。痛くて脆い青春、荒々しくしすぎている部分もあり、描写の足りない箇所もあったが、大傑作であることは間違いない。