劇場からの失踪

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『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』 劇場映画批評129回 この逡巡を与えてくれたこと

題名:『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』
製作国:日本

監督:金子由里奈監督

脚本:金子鈴幸 金子由里奈

音楽:ジョンのサン

撮影:五十嵐猛吏

美術:中村哲太郎
公開年:2023年

製作年:2022年

 

 

目次

 

あらすじ

京都にある大学の「ぬいぐるみサークル」。「男らしさ」や「女らしさ」というノリが苦手な大学生の七森は、そこで出会った女子大生の麦戸と心を通わせる。そんな2人と、彼らを取り巻く人びとの姿を通して、新しい時代の優しさの意味を問いただしていく。

引用元:

eiga.com

※以降ネタバレあり

 

間違いなく大傑作だった。
今年観た作品の中でも最も心を抉った作品になることは間違いない。

 

 

この映画は弱い

 

この映画について語るのは難しい。
(理由は2つある。もう一つは後ほど語る)
なぜなら、"語ること"や"話すこと"といった他者との関わりで生まれる無自覚な加害性を説いた作品故に、作品の意図する想いを尊重すればするほど、どう語ればいいのかが分からなくなるからだ。
扱っている「無自覚の加害性」という題材の繊細さ、1歩間違えればこの映画自体やこの映画を語る言葉が、「加害性」を帯びてしまう。パンフレットのインタビューでは物語自体が優しくないと語っていたが、まさにその通りだ。
そんな本作が扱う題材の難しさを分かった上でこの題材を描こうとした勇気や、如何に考えて慎重に歩みを進めていったかを思わずにはいられない。


多分この映画を貶すことは簡単だ。何故なら多くの"強い人"にとっては「細かいこと」だったり「当たり前のこと」だったりするからだ。

 

「そんなの当たり前でしょ、なんで悩んでるの?」と言ってしまえば、確かに本作を否定することは容易だ。傷ついて当たり前、それが生きること、人生は甘くない。そう言うのだろう。そういう人に限って、「何を悩んでるのか教えてくれないと分からない」と言うのだろう。
それらを平然と口にする人達の「加害性」に本作はなす術もないかもしれない。それこそ本作に登場するぬいぐるみサークルの人々のように、この映画は弱いからだ。

だが、本作はその"当たり前"の前提の部分で思い悩む"普通"や"当たり前"から取りこぼされた人達を、「弱い」ながらも最後まで描き通そうとする。
バッグボーンを掘り下げ、観客に晒すことで物語としての強度を上げて、「強く」することは出来たはず。だが"普通じゃない"彼らを、他者としてそのままに描き出し、それこそ同じ空間にいながらもイヤホンで間を取り合うような距離感で描くのだ。
だからこそ本作は彼らのような人が居てもいいと声を大にして言うことが出来る。言わば本作がぬいぐるみサークルの部室のようにセーフティーゾーンとして機能しうるのだ

その映画の佇まい、扱う題材へのアプローチにまず自分は感銘を受けた。

自分はぬいぐるみと話さない


本作はある大学のめいぐるみサークルに所属する1回生の七森、麦戸、白城を中心とした群像劇となっている。ぬいぐるみサークルの活動は、「ぬいぐるみと話すこと」である。それぞれがイヤホンをして互いの会話を聞かない、されど同じ空間で行われるぬいぐるみと会話する。その一見して不気味に映る光景は、本作を象徴するマスターショットだ。

そのマスターショットが我々に刻みつけるぬいぐるみと話すという行為は、「誰も傷つけない」為が故の行為だ。他者との会話において、必然的に発生する「相手を傷つけること」。そのことに誰よりも自覚的であるからこそ、誰も傷つけない方法としてぬいぐるみに話すのだ。

 

自分はぬいぐるみと話さない。どちらかというと、腹を割って話そうとするし、互いに傷つけ会うことになっても、それは仕方がないことと思っている。加えて、自分は自分の考えを相手に"語る"ことが大好きだ。そこにはある程度の客観的にも妥当だと言えるロジックがあるし、そういう話には需要があり、面白いと思っている。また、自分の納得いかない意見への反論や質問をすることも厭わなく、それが自分に向けられてもそれが、健全な関係性だと思っている。

だからこそ最初、彼らのぬいぐるみと話すことは無駄なことに思えたし、生産性のないことに思えた。それは一種の倒錯で、自分に酔っているに過ぎないのではと思った。
だが、そういった思考のプロセスこそが、彼らを「映画の外」に追いやるのだと気づいた。「普通が高すぎる」という『最強殺し屋伝説国岡』の名言があるように、私たちは彼らに高い"普通"を押し付けていたのだろう。
その加害性に映画を観ていて気づいたとき、終わりのないスパイラルに閉じ込められたような気がした。
自らの無自覚な加害性について考える時、そこには「自分は加害性に気づいている」という優越感が発生する。しかしそのことに思い至った時、同時に「自分は加害側の人達とは違う」と思いたがっている自分を見つけてしまうのだ。
加害性を自覚して改めようとも、同時にどこか「加害性」を認めきれていない自分がいる。このスパイラルから簡単には出られない。それは先程触れた「話すことの加害性」よりも、七森が特に自覚し悩んでいた「男性故の加害性」において強く言える話であり、彼の言葉通りだ。
そうすると、この映画を賛同すること自体にもどこか「加害側とは違うと思いたい自分」を見出してしまい、頭がおかしくなってくる。どうすればこのスパイラルから抜け出せるのだろう。

この映画は自分の両側面を見出すことが出来る。一つは七森達に賛同する「加害性を自覚して直したい」自分。もう一つは「"強く"て彼らに普通を押し付けてしまう」自分。後者であることが特に自分を苦しめる。自分は彼らほど落ち込みきることが出来ない。自分は状況によって適用するだけの"能力"がある。あの飲み会から飛び出すことはしないのだ。
そんな自分の"強さ"に嫌気がさすし、その嫌気もまたどこか、自己陶酔的で嫌だ。この彼らの弱さに憧れていることすらも嫌だ。


どうすればいいのか。

この逡巡を与えてくれたこと、ここに自分がこの映画に出逢えたことの幸福があり、多くの人に届くべきだという想いが詰まっている。

白城が元カノに少し雰囲気が似てるとかもちょっとあるけど、そんなことは些細なことだ。

一生大事にしたい映画だ。