劇場からの失踪-映画批評ブログ

映画をこよなく愛するArchによる映画批評

前途有望だった少女の未来のために『プロミシング・ヤング・ウーマン』劇場映画批評25回

 

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題名:『プロミシング・ヤング・ウーマン』
製作国:アメリカ
監督:エメラルド・フェネル監督
製作年:2020年

「"前途有望な少年"の未来のために」

とても耳心地がよく、善行を予感させる言葉だ。ただこの言葉が"前途有望な少女”の未来を絶った上に成り立つ言葉だと知ったら、どうだろうか。

この言葉は女子学生のレイプに関する裁判において裁判官が、検事の出した求刑を大幅に減刑する判決をする際に放ったものである。

こんな男性>女性の構図が平気で成立する世の中に、この映画はアンチテーゼとして、ポップな装いを身に纏いながら送り出された作品である。レイプ被害やジェンダーバイアスについての物語であるため、シリアスな作品に一見なりそうだが、そこをラブロマンスやコメディー等ジャンルを渡り歩くことで、これまでにない風体の作品となっている。

 

では早速、本作について語っていきたいと思います。

 

目次

 

ストーリー

30歳を目前にしたキャシー(キャリー・マリガン)は、ある事件によって医大を中退し、今やカフェの店員として平凡な毎日を送っている。その一方、夜ごとバーで泥酔したフリをして、お持ち帰りオトコたちに裁きを下していた。ある日、大学時代のクラスメートで現在は小児科医となったライアン(ボー・バーナム)がカフェを訪れる。この偶然の再会こそが、キャシーに恋ごころを目覚めさせ、同時に地獄のような悪夢へと連れ戻すことになる……。

引用元URL:映画『プロミシング・ヤング・ウーマン』公式サイト | 2021年7月16日(金)公開

 

いたたまれない

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決して自分と切り離すことが出来ない問題がこの映画には描かれていた。 それは性とアイデンティティの分離が進む現代においても、"男性"という性別が持つ常に自覚しなければならない加害性が本作が照らすテーマだからだ。だから自分は非常に居心地が悪く、居たたまれない気分をずっと感じていたのだろう。普段、如何に無自覚に女性へ感情を向けていたのか、そして彼ら加害者(男性達)の根底にある女性への好意や関心、つまり下心というものを確実に自分も持っていると確信し、同種として括られてしまうのではないかと思うからだ。 (男性だけがレイプ被害の敵とは限らないことについては今回は触れない)

 
しかし、そういったシリアスな物語、男性にとっていたたまれない映画でありながら、女性のリベンジムービーとして誰もが楽しめる作品になっている。男性の加害性、暴力性を描くだけでなく、男性と女性の加害被害の関係を逆転させ、客観性を加えることで男性をより滑稽に仕立て上げる。そういったカタルシスによってコメディーに昇華されているのは、やはり特筆すべき点だといえる。
 
決して咎めるばかりで怒りが発露された感情的な作品とするのではなく、理性的に描かれているのだ。その証明に彼女は常に選択肢を与えているし、一線を越えない。なぜなら彼らとは違う"賢き女性"であり、"報復"ではなく"諭す"ことこそが本作のスタンスだからだ。復讐者というより裁定者、あらゆるモチーフが彼女を"天使"と称えることから分かるようにそんな彼女のスタンスだからこそ、最後まで"彼ら"は自らの選択、自らの罪によって築き上げた今を崩壊させるのだ。
 

紳士、いい男という言葉の空虚さ

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本作の男たちの間抜けさの一因は彼らがこぞって「いい人間」だと自称するところだろう。例えばクラブで釣られた男達は自分たちは女性を介護すると言って、女性たちを自分の家に連れ込む。明らかに下心で、客観的にいえば決して「いい人間」ではないのに何故彼らはそうだと思いこめるのか。
それは相手の女性に意識がないもの、モノとして認識しているからに他ならない。支配欲を満たせる対象、意識がなく、いくらだって妄想で捻じ曲げられる対象だからだ。
ここに男性から女性への加害の根底にある"支配欲"や"所有欲"が見え隠れしている。
そんな彼らはシラフな女性という"意識ある人"の登場によって一瞬で我に返る。いや、その一瞬に目の前の彼女が化け物に見えるほどに動揺をし始める。目の前には最初から意思ある女性しかいないはずなのに何故彼らは動揺するのか。「いい人間」だという虚構と共に瓦解する自尊心。彼らは本当に「いい人間」だと思っているからこそ動揺する、こんなの笑わずにいられるだろうか。
 
ただ本作においてそんな彼らはまだ序の口といえる。主人公キャシーが最大の目標として捉えていたのは大学生時代にレイプに加担した人間たちだ。彼らはどう"いい人間"なのか。それは"社会的に良い人間"なのである。金持ちでハンサム、医者として多くの人の命を助け、綺麗な奥さんを見つけて親もニッコリ。あらゆる点で成功者であり、社会に歓迎される人なのだ。
対して主人公キャシーは30歳間近においてもろくな仕事に就かず、交際相手もいない。派手なファッションに朝帰りの実家住み。正しく社会のはみだし者、信用度の低い市民なのだ。またここにジェンダーバイアスが絡んでくるのが厄介だ。
"いい人間"を判断する基準を社会的な体裁やステータスとしたとき、レイプ犯は"言い人"であり、彼女は"良くない人"であるのだ。
そういった社会的な「いい人間」という題材はやはり、本作の肝である。彼女が心を許した彼氏ライアンも一見「いい人間」である。しかし彼もかつてのレイプ事件に関わる存在なのだ。
彼は自分は「無罪の傍観者」と主張するが、キャシーは一蹴する。そんな彼の姿はアルフレッド・モリーナ演じる弁護士の悔恨を見た我々にはあまり無様である。
 
 
彼らは若いあの頃とは変わったという。人は変わることが出来る生き物だと私は思っている。だがそれは、忘却の上には成り立たない。過去は常に背後に立ち、振り向けばそこにある。確かに前に進めば記憶の彼方へ忘却はできるだろう。しかし過去はいつか身構えていないときに突然目の前に現れるのだ。
それは貴方にとっては遠い過去でも、誰かにとっての"今"であるからだ。だからこそ、人は忘却するのではなく、清算し、向き合わなければならない。
 
彼らは罪を犯し、一人の女性が命を絶つ原因となった。その罪は消えない。決して消えない。だからといって開き直るべきではない。忘却するのではなく、清算し、向き合うべきなのだ。
本作においてアルフレッド・モリーナ演じる弁護士はそんな彼らが選ぶべき姿として提示される。もし"彼ら"がこの弁護士のようにあれば、この映画の結末は迎えなかったはずだ。
キャシーが作中において常に選択肢を与えたように、この映画自体も選択肢を残す。それはこの映画は罰ではなく、諭しの映画だからだ。それ故に選ぶべき道も示唆された中で、最後まで忘却を選択した彼らの愚行さがより際立つものになっていた。
 
 
 
 
 
 

 ポップたらしめた美術

 

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本作をシリアスに振り切らせないのは物語もそうだが、的確なカメラワークやポップな美術も大きな要因だろう。
的確なカメラワークとしては冒頭の勤め帰りのサラリーマンのような男性たちのストリップをスローで捉えたカットだろう。本作の男性の滑稽さや客観性のなさを物語るいいカットだ。他にも胸元への視線の先に「ニーナ」のネックレスがあるカットの男性の滑稽さやキャシーの背景に常に羽や輪などが配され、天使の巡礼のようなモチーフの使い方など、どれも良かった。
 
また美術に関しては今回デヴィット・ロバート・ミッチェル監督作品の「イット・フォローズ」や「アンダーザシルバーレイク」などの美術を担当しているマイケル・T・ベリーの仕事が抜群であった。性的な雰囲気をビビットな色彩で彩られた空間で作り出す手法は、上記の二作においても共通点であり、監督のエメラルド・フェネルの求めた仕事を見事にしてみせた結果だろう。
 
 
おわりに
 
凄いカロリーを持っていかれる作品だった。思わず笑ってしまうが、「これは笑っていいのか?」と自問が空かさず生まれてくる。この繰り返しの中で、自分かどう見られてるのかという"客観視の大切さ"を感じさせてくれる。
ここまで男性視点で語ってきたが、是非性別問わず多くの人に見て欲しい。