劇場からの失踪

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『対峙』被害者と加害者、その親 劇場映画批評111回 

題名:『対峙』
製作国:

監督:フラン・クランツ監督

脚本:フラン・クランツ

音楽:ダーレン・モルゼ

撮影:ライアン・ジャクソン=ヒーリー

美術:リンジー・モラン
公開年:2023年

製作年:2021年

目次

 

あらすじ

アメリカの高校で、生徒による銃乱射事件が発生。多くの同級生が殺害され、犯人の少年も校内で自ら命を絶った。事件から6年。息子の死を受け入れられずにいるペリー夫妻は、セラピストの勧めで、加害者の両親と会って話をすることに。教会の奥の小さな個室で立会人もなく顔を合わせた4人はぎこちなく挨拶を交わし、対話を始めるが……。

引用元:

eiga.com

※以降ネタバレあり

 

 

上映開始5分。既に充満している緊張感は、教会の奥の一室で始まる「対話」が、複雑な関係性で結ばれた者同士の間で起こることを予感させる。この時点でもう、私はこれから始まる「対話」に耐え切れるのか不安に押しつぶされそうになった

本作は、アメリカにおいて未だに起こり続けている学校での銃乱射事件の被害者家族と加害者家族が「修復的司法」として、一つのテーブルを囲み話し合うという話になっている。本作はフィクションであり、実際の当事者が出てくる訳では無いが、当事者達へのリサーチを重ねた「対話」は、実際の銃乱射事件の被害者家族と加害者家族が対面している緊張感を完璧に再現していた

 

どうにか喪失を受け入れたいが、どうすればいいのか分からないんだ」
会話の始まりはぎこちない建前から始まる。

「修復的司法」の前提として互いのリスペクトを忘れないというものがあり、互いに詰問をしたり責めたりしないのが鉄則であるため、彼らは穏やかに話を進める。またそもそもとして彼らは軽い雑談から始めたりするなど一社会人として振る舞おうと努める。だが、その会話の端々から感じるのは「ぎこちなさ」である。被害者家族にとって加害者家族が慎重に配慮してつむぎ出した言葉でも、そこに苛立ちを感じる。なぜなら「彼らの息子がうちの息子を殺したから」。その前提がある限り、彼らの誠実な言葉は全て裏返り、気に触る言葉にしかならない。それでもその感情を被害者家族は潜める。加害者家族にとっても思うところがあり、両者の間は必然的に「ぎこちなさ」は生まれ、それが役者の演技のによって見事に表現されていて、今にも爆発しそうな風船を見ている気分になる。
ぎこちない会話から徐々に漏れ出す両者の本音は、会話の急激テンポアップさせ、激しく感情が発露される。感情の動線が全く読めず、リアリティある微細な動きをするところにこの会話の面白さがあり、特にファシリテーター的に振舞っていたジェイが最も感情を爆発させたシーンは本作のアスペクト比を変化させる転換点にもなっていて非常に良かった。

またここで踏まえておかなければならないのは彼らはその事件の直接の当事者ではなく、「両親」であるということだ。これまでガス・ヴァン・サントの『エレファント』やドゥニ・ヴェルヌーヴの『静かなる叫び』のように現場の当事者を描くのではなく、6年後の「両親」にフォーカスした所に、本作の「前に進む方法の分からない生きている当事者家族の為」という意図が表れている。近年では「喪失の受容」を混乱と困難さを停滞の中で描く話が増えている気がしている。分かりやすく言えば「どうにか喪失を受け入れたいが、どうすればいいのか分からないんだ」という話。本作もまさに6年経っても「振り切れない人たち」がついに最終手段として「対峙」するという話になっている。

 

「違い」と「共通点」

そんな会話の中で注目すべきは両者の「違い」と「共通点」だろう。両者の絶対的に埋められない「違い」は当然"被害者家族"と"加害者家族"であること。ゲイルの「あなたの息子が私の息子を殺したからよ」という言葉共に、会話が弾け飛び悲痛な沈黙が訪れた瞬間は忘れられない。どんなに繕って会話をしても前提には「被害者と加害者」があり、その違いは決して埋められないのだ。
その違いは両者がこの対峙に求めている事にも表れる。被害者家族にとってはこの対峙は相手から「(息子が死んだ)原因」や「(息子の人生の)意味」への回答を求める場なのだ。対して加害者家族にとっては相手からの「許し」を求める場であり、そして「孤独」を理解してもらう場だったのだ。その為、被害者家族は加害者である息子の幼少期にまで遡り、原因を究明しようとする。

前兆はなかったのか?あなた達の教育に問題はなかったのか?と、社会や学校制度ではなく、眼前の責められる対象である「加害者家族」の責任を追求する。だが、そこでのタラレバに意味はなく、問答は空虚に消えていく。
代わりに伝わってくるのは、彼らが自身の息子を愛していたという事実。そして彼らもまた我々(被害者)と同様に「息子を失った親」であるということなのだ。これが注目すべき「共通点」だ。
印象的な台詞がある。リチャードの言う「みんなが10人の犠牲者に祈りを捧げ、我々だけが11人の犠牲者に祈りを捧げる」(記憶が曖昧で申し訳ない)という台詞だ。
彼らもまた息子を失ったにも関わらず、彼らは責められて孤立させられる。自身の教育が間違っていたのか、自身の罪ではなく、息子の罪をどう贖えばいいのかを考えながら。
本作はその「共通点」へと話は方向転換していき、複数の目的が入り乱れる対峙は、一つの相互理解へと収束していく。「違い」から「共通点」へと至る流れには、前提にあるリスペクトがあり、彼らは言葉を荒立てながらも互いに「落とし所」を模索しようとする姿勢があり、それ故に本作は「現実における当事者」にとっての希望となりうるのだ。

 

最後に

自分としては、ゲイルが「息子の為」にと加害者家族と加害者本人を許すとした発言は突拍子もないと感じた。だが、そこの歪さにこそフィクションとして提示する意味がある気がするのだ。その後のリンダの"告白"も含め、生きている人々がどう「落とし所」を付けるかにしっかりと希望を提示する部分は評価したい。