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40年の時を経て、今宵はハロウィンの夜。
ブギーマンを殺すまでこの夜は明けない。
伝説は再現され、恐怖は伝染する。
ローリーの悪夢、いやこのハドンフィールドの悪夢はまだ始まったばかりだ。
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題名:『ハロウィン KILLS /HALLOWEEN KILLS』
製作国:アメリカ
監督:ディヴィット・ゴードン・グリーン監督
製作年:2021年
久しぶりの劇場映画時評、というかブログの更新です。今日は2021年10月31日、ハロウィンの前日の夜。そうとくれば、今回取り上げるべきは『ハロウィン KILLS』でしょう!
1978年に公開されたジョン・カーペンター監督の『ハロウィン』、その正当続編としてジェイミー・リー・カーティス製作、デヴィッド・ゴードン・グリーン監督によって2018年に公開された『ハロウィン』新三部作、その二部作目にあたるのが本作です。(もしかして一夜の物語で三本作るのか、夜長くね?)
前作は『ハロウィン』(1978)版への徹底したリスペクトによるリフレインと脱構築のバランスが奇跡のような大傑作だったために、本作も非常に楽しみしてた一方、「これやっていいのは一作だけだよ?」と『007 スカイフォール』のときと同様の懸念は抱えていました。しかしそんな懸念を吹き飛ばすアイデアが本作にはあったと思います。
自分が感心したのは「40年前のハロウィンがもたらした恐怖の拡大解釈」と「最終作へ向けた"ブギーマン"の再定義」この二つのアイデアによって40年越しの因縁とローリーの主人公性を強化し、『Halloween Ends』へと盛大に前振りをしているところです。
ただでさえ、三部作の二部作目ということで難しいポジションの本作、どうだったのか。早速語っていきましょう。
目次
ストーリー
40年におよぶローリー・ストロードと“ブギーマン”ことマイケル・マイヤーズの因縁の戦いに決着はついたはずだった。しかし、悪夢は終わってはいなかった。ローリーの仕掛けたバーニングトラップから生還したマイケルは、過去を背負う街ハドンフィールドでさらなる凶行を重ねる。恐怖に立ち向かいブギーマンとの戦いを選ぶ者、その恐怖に耐えかね暴徒と化す者。果たして、ハドンフィールドの運命は!? そして、物語はついにブギーマンの正体に迫り新たな展開を迎えるー!!
全世界で250億円を超える大ヒットを記録した究極のショッキング・ホラーの新章がこのハロウィンに、日本に解き放たれる!!
引用元URL
「40年前のハロウィンがもたらした恐怖の拡大解釈」
まず前作についておさらいしてみる。前作はジョン・カーペンター監督の『ハロウィン』(1978年)の40年後を描いた作品―――作品内と公開年どちらも40年を経ている―――で正体不明、目的不明の恐怖の権化"ブギーマン”によるスラッシャー映画であった『ハロウィン』というタイトルを、『ハロウィン』(2018年)はブギーマン(マイケル・マイヤー)とローリー一族(ローリー、娘カレン、孫アリソン)の40年に渡る因縁の物語へとシフトしたことに、秀でた部分があったと思う。
”因縁”という要素、これが前作ではファイナルガールとして貧弱だったローリーを"復讐"を駆り立て、「40年間ブギーマンを殺すためだけに生きてきたヤベー(カッコいい)おばさん」というある種のモンスターを生み出し、ブギーマンを罠に掛けて対等なレベルで闘うという奇天烈な物語となったのだ。
ここでフォーカスされた物語の主軸は先ほども言ったように、「ブギーマンvsローリー一族の40年越しの因縁」である。
それに対して、本作がフォーカスしたのは「街の住民(ローリー以外)にとっての40年越しの因縁」なのだ。40年前に愛する人を失ったのはローリーだけではない。ローリーと同じようにかつてのハロウィンによって心に傷を負った者達にまで視野を広げ、『ハロウィン』(1978年)の物語を続編で深堀して語り継ごうとしているのだ。
このアイデアは本当に凄いと思った。『ハロウィン』における失われた命、生き残った命に更なる重みを与えることは中途半端な仕事で生存者を残しがちなマイケル君だからこその引き出せる葛藤―――1978年版と2018年版しか観てないので間違ってるかも―――で『ハロウィン』シリーズだからこその味わいになっている。(フレディやジェイソンは主人公以外は基本殺すからね)
また40年越しの因縁に深みを与えることにも繋がるこの着眼点は、同時に40年間怯えるだけでなく準備をし続けてきたローリー・ストロードを、インスタントな復讐心に駆られた他の人々と差別化して、真の意味で「マイケルにとっての宿敵」であることを強調する。ファイナルガールだからではなく、狂人だからこそ、彼女はマイケルの宿敵に相応しい。つまり彼女が主人公たる所以の強化に繋がっているのだ。
そして同時にその主人公家族以外との因縁を持ち出すことで、メタ的に"殺せる"人間が増えていき、ブギーマンの残虐性を際立たせることにもなっている。この映画を最後まで見ると分かるが、本作は完全にローリーとマイケルの最後の決戦に向けた下準備のような作品になっていて、トミーやリンジー達が倒れ、そしてカレンも倒れ、完全にブギーマンの勝利。前作と今作で一勝一敗、もう残っているのはローリーしかいない!さてどうなる!?と、両者のマッチングへの期待感を最高潮に高めて終わるのだ。さながら『ワンパンマン』。(映画でいい例えが思いつかない…不甲斐ない…)
その為の弊害はあり、ローリーの出番の少なさは歪に映るし、パッとしないキャラクター達の心理描写に時間を割くことに違和感を感じてしまうとは思う。
このようにローリー側(街サイド)を改めて描きだして整理して、ローリーにしかブギーマンを殺せないし、ブギーマンを理解しているのもローリーしかいないことを明白にすることで、結果的に「ブギーマンとローリーの"因縁"」が更に強化されることとなったのだ。
最終作へ向けた"ブギーマン"の再定義
前項で述べた内容はある意味、人類側の再定義だといえるかもしれない。とすれば、もちろんブギーマンも再定義される。特に前作のブギーマンは、ローリー達の闘いに尺が割かれていたことによってKILL数が伸び悩んでいたり、ローリー側が優位に立つ場面が多い印象を受けるため、弱体化したかのようにも思えた。だからこそ、再定義の意義があるのだ。
"ブギーマン"ことマイケル・マイヤーとは何なのかを再定義するために本作が最も意識しただろうこと、それは「めっちゃ殺すこと」だ。
とことん殺しまくる。ギリギリ話に関わってくるが、削っても問題ないレベルの登場人物もしっかり時間を掛けて派手に殺す。そのせいで物語の勢いが死んでる感も否めないがそんなことも構わず、殺す。そして何より、前作であんなにカッコよく"ガッチャ"を決めたカレンすらも倒れる。"KILLS"の題に恥じない殺害人数によってキラーとして再定義されたのだ。
また再定義されるのはそういったキラーとしての性能だけでない。本作ではブギーマンの行動原理の不明さ、誕生の物語、目的、それらを多少説明口調に語られる。それがかえって伝説や伝承として語られる"ブギーマン"を垣間見せることになり、伝説、そしてハロウィンの怪談として、ブギーマンの再定義を行うのだ。
そして本作で一番面白いと感じたのは何より"恐怖の権化"としての再定義である。
ブギーマンの登場は40年前越しの因縁を浮上させることとなり、当時の生存者たち、特にトニーは街中を巻き込んでブギーマンと決着をつけようとする。しかしその行為は街中に恐怖を伝染させ、混沌(カオス)を生み出すこととなる。
その混沌を生み出す"恐怖"こそがブギーマンの恐ろしさであり、人が彼を恐れ続ける限り、彼は死なない。本作はそう再定義した。そういった恐怖という概念との接続は『エルム街の悪夢』のフレディのようであるし、『キャンディマン』のリメイク作品とも通ずる要素だといえる。
これら三つの再定義によって"ブギーマン"をオリジナル以上に、恐ろしい存在へと昇華させられる。前作のような焼き回しではなく、新たなハロウィンの伝説として。
生存者たちの再定義とブギーマンの再定義。前作が脱構築の作品であるならば、本作は再定義の映画だ。オリジナルを深堀し、再認識させる形で40年後の今宵のハロウィンを描いているのだ。
最後に
ここまで褒めてきたが、粗があることは私も認めるところだ。序盤の複数場面の編集の繋ぎ方も変だし、特に集団が混沌としてマイケルではない人を自殺に追いやるシーンは違和感が凄い。もっと上手く出来た気がする。だが、それらの欠点を無視できるほどに三部作で『ハロウィン』を新しく語ってやろうという気概を感じたのだ。次の作品はダニエル・クレイグの007にも通ずる脱構築と再定義を超えての最終作となる。
もしかして『Halloween Ends』のラストは『ノータイム・トゥ・ダイ』のように…
最終作はまた来年のハロウィン時期に公開されるそうだ。楽しみである。