劇場からの失踪

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『ミッション:インポッシブル デッド・レコニング PART1』劇場映画批評136回 割かし何も解決してない映画

(C)2023 PARAMOUNT PICTURES.

題名:『ミッション:インポッシブル デッド・レコニング part one』
製作国:アメリカ

監督:クリストファー・マッカリー監督

脚本:クリストファー・マッカリー エリック・ジェンドレセン

音楽:ローン・バルフェ

撮影:フレイザー・タガート

美術:ゲイリー・フリーマン
公開年:2023年

製作年:2023年

 

 

目次

 

あらすじ

IMFのエージェント、イーサン・ハントに、新たなミッションが課される。それは、全人類を脅かす新兵器を悪の手に渡る前に見つけ出すというものだった。しかし、そんなイーサンに、IMF所属以前の彼の過去を知るある男が迫り、世界各地で命を懸けた攻防を繰り広げることになる。今回のミッションはいかなる犠牲を払ってでも達成せねばならず、イーサンは仲間のためにも決断を迫られることになる。

引用元:

eiga.com

※以降ネタバレあり

 

改めてこれまでのシリーズ作品を鑑賞した上での鑑賞。

多くの語り口があると思うのだが、三つの要点にまとめて語ってみたい。

 


アクションについて

クリストファ・マッカリーが監督に就任したローグネイション以降、加速度的にM:Iシリーズはアクションファーストを極めていった。
それは単純なアクションパート>ストーリーパートという尺の割合や作品のセールスポイントには留まらず、製作体制にも及び、脚本未完成な状態でアクションをまず撮るという異例な体制は、公開前にメイキングを予告編代わりにするスタイルに象徴されると言える。
そこまでいくと、自縄自縛になってはいないかと思うところもあるが、全てのアクションにノースタントで挑むトム・クルーズという"狂人"の能力と看板能力によって、唯一無二のアクション映画は成立しているのだ。
『ローグネイション』は、そのスタイルの歪さがMAXに反映されていて、冒頭の全くストーリーに関与しないアクションから始まり、ストーリーの閉じ方もかなり無理やりな印象で、アクションとストーリーが全く噛み合っていないものに仕上がっていた。

 


その次の『フォールアウト』は製作側のイーサン・ハントを単なるアクション装置ではなく、一人のキャラクターとして描こうという意志を感じた。イーサン・ハントが恐れていることは何なのか、彼は何の為に世界を救うのか、という問に対して、M:I-3で登場したジュリアという元妻の設定を引き継ぎ、「彼女がこの世界に生きている だから世界を救う」という答えを示し、モチベーションの所在を明らかにしたのだ。そのドラマ成分とアクションパートが極めて高いレベルで融合していて、マッカリー監督の手法の成功をここにみた気がしたのだ。
(いつかは失敗してしまう、いつかは世界を救い損ねる、そしてジュリアを失ってしまうのではないか?というイーサンの不安や危機感を、"落ちる"という運動に繋がるアクションの連続によって表現し、彼は"落ちない"からこそ、世界を救うのだと描いて見せた。ここが私の言うドラマとアクションの融合の部分)


それを踏まえて今回のアクションについて考えてみよう。今回まず目玉として用意されているのは崖からバイク落下だ。劇場で何回もそのメイキング映像が流されて、その映像の凄まじさに崖からバイクと一緒に落下するトム・クルーズのほうがアバター2よりも面白いと思ったほどだった。ついでに言うと、本編でCGでちゃんとした崖になっていたが、崖際に建設された飛台がないことにめっちゃ違和感があった、メイキング映像を先に何回も見せる事のデメリットといえるかもしれない。

そんな崖からのバイク落下、ストーリー的にも必然性に乏しいアクションで、これぞM:Iというアクションだが、正直にいって前作の"ヘイロージャンプ"のほうが凄いと私は感じた。いくらメイキングをみせて、本人スタントだとアピールしても、画として良いか悪いかはその映画の中にあるものとして判断されるべきだ。

そう考えるとヘイロージャンプはそのアクションの中にもヘンリー・カヴィル演じるウォーカーの気絶なんかのスリリング成分が詰まっていて良かったが、今回は列車にたどり着けないかもしれないという要素やパラシュートが開かないかもしれないという要素が一切ない。アクションをただ見せるだけで、そこにドラマ成分がないのだ。そう思うと後退、というかやりたくても上手くアクションにドラマを込められなかったって感じなのかもしれない。この撮り方だとそれは時に起こりうることだろう、仕方ない。(脚本→アクションの単純な製作工程ならば、ハッキリ後退してると思う)

 


他のアクションについても考える。実はフォールアウトが縦のアクションが多かったのに対して、本作は横のアクションが多く見受けられる。特に面白いのは、オリエント急行でのアクション。これは実は一作目オマージュの列車アクション(横のアクション)をやり、そのあとに谷に墜落する電車を登っていくという縦のアクションにシームレスに移行する見事な展開になっていて、素晴らしいアクションシーンになっている。
1作目のような今にも振り落とされそうな列車のスピード感は感じられず残念なのだが、それでも横→縦の使い方で充分に見応えのあるラストシークエンスになっていた。(インディ新作にも感じたが、列車上アクションのマンネリ感は一つ問題だと思う。)
他のアクションは正直パッとしないものが多く残った印象。ベニスの剣アクションや路地裏の殴り合いetc… どれも微妙だった。

 

マクガフィンについて

ストーリー構成において他シリーズ作品と比べて特徴と言えるのはマクガフィン(広義の意味で、キーアイテム的な用法)の扱い方だろう。これまでもイーサン・ハントの前には「世界(あるいは世界の均衡)を滅ぼしうる何か」がマクガフィンとして登場する。その傾向は1作目からの傾向で、3に関しては名前しか説明されない始末である。(なんならマクガフィンとしての軽薄なそれを自嘲してる節もある)

 

正直M:Iにおいて「世界がどうヤバいのか」は大した問題ではなく、それが核だろうがなんだろうが別に大した関係なく、重要なのは「何個あるか、或いはどうしたらその兵器は発動してしまうか」なのだ。なぜならそれがシーンを生み出すからだ。

そのことを踏まえると今回の"鍵"というマクガフィンは面白い効果を産んでいる。
鍵はこれまでのマクガフィンと比べても小さく、それ自体に効果はなく、ただの道具である。
懐に隠しやすいサイズであることで、各陣営感でのやり取りの応酬に繋がっているし、列車内でのアクションにおいて利便的である。またAIという人類の敵の掴みどころのなさ、ある意味で運命なんかと同義の高次元の観念として描かれているのも、その実態あるマクガフィンを用意したからこそといえる。つまりAiIもまたマクガフィンだが、そのマクガフィンの為のマクガフィンとして鍵が登場しているのだ。
それはM:Iシリーズにおいては発明的。マジでマクガフィンで話を進めてやるぜという意気込みを感じさせるのだ。


余談だが、あのマジックのような仕草は明らかな一作目オマージュだろう。オリエント急行でのクライマックスもそうだし、前作『フォールアウト』でもアバンでの下りやウィドウとの会話で挿入される回想なんかも1作目オマージュ。マッカリーは1作目から要素を持ってこようとする意志を感じることがあり、そこには多分、一作目からどんどん離れていくM:Iシリーズへの引け目か、どうにか接点を維持しようとする意味合いがあるのかもしれない。


ストーリー(及び撮影)について

言いたいことは山ほどある。
このでも四つぐらいに話を分けて語りたい。
まず深刻化する女性陣を守るイーサンという構図。マッカリー作品の明確な欠点として、イーサンのピンチとしてチームメンバーを人質にする展開をやりたがるというやつ。ベンジーから始まり、ルーサー、イルサと全員人質経験がある。
これの深刻な部分はチームなイーサン・ハントにとって対等なものとして描かれてないことの証左になっていることだろう。イーサン・ハントが人質になることはなく、イーサン・ハントにとっての最悪としてチームメンバーの死があるという図式。彼を主体にしすぎて チームが守らねばならないものに成り下がっている。

 特にそれは女性陣にほこさきがむけられていて、グレースかイルサかみたいな展開には、マチズモやフィクション内でのジェンダー的な配置を想起せざるを得ない。
特に本作ではイルサが死ぬ訳で、その前降りとしてイーサンと仲睦まじくベニスの屋上でハグしてる姿が挿入される。違和感たっぷりな映像の順序だと思った、何故なら二人の関係性がよく分からんからだ。友情ということで間違ってはいないが、あのシーンベンジーとルーサーを省いてやる必要はあったのだろうか?
対比として1人曇りのベニスで黄昏れるイーサンがカットインする訳で、まぁ機能はしているけど、やっぱ透けて見えるイーサン中心の世界は、逆にイーサンをよく分からん存在にしていると思う。
仲間描写としてはルーサーがイーサン・ハントにオリエント急行ミッションの失敗条件をしっかり提示して、観客の為にも情報を整理する場面が良い。観客としてもありがたいし尚且つルーサーとイーサンの関係性を改めて描く良いシーンだった。

 

次にIMFという組織とイーサンの関係
これも結構よく分からない部分。イーサンとINFの関係性はハリーポッターシリーズのホグワーツ並に関係性が監督ごとに描き方が違っていて、いまいちどう言った関係なのか分からない。
まず前提として国営の独立組織であること。そして映画で映されている限りでも相当回数組織を無視して独断専行していること。ローグネイションではIMFに追われてましたよね?ゴーストプロトコルでは見限られてましたよね?
そういうことを考慮するとイーサン・ハントにとって組織は、「仕方なくいるところなのか」或いは「居心地がいいところなのか」が自分にはよく分からない。

マッカリー作品に限れば、「使い捨てスパイなんてやめた方がいい」という話をローグネイションで本人もしていて、イルサとの会話の中でスパイなんて辞めてしまえという話が出てくる。またフォールアウトでは彼が世界を救うモチベの所在が分かり、IMFにたとえ酷い目にあっても在籍するのは、わけがあることが判明する。その展開の印象としては、IMFのことを好いてはいないというものだった。

だが、本作はいい選択だと、若き諜報員を歓迎したり、我々は"選択"したといって、居場所であることを多少なりとも肯定的に描いているように感じたのだ。その割にはボスにカチコミしたりとやりたい放題で、組織もほっとき放題すぎないだろうか?


話は逸れるが刑務所入るぐらいなら組織入るって感じを出してたが、ベンジーもそうなんですか?
3を見た感じ、あの組織にいる人が全員そういうバックボーンがあるとは思えなかったんですよね。


なんだか今回で改めてIMFが再定義されたようで、それを踏まえてのpart2だと思うので、次の作品ではノイズにはならないだろうが、ストーリーを追う上でやっぱ気になるところだった。

ともあれ私が言いたいのはラストのグレースがIMFに参加する終わりをどういう感情で観ればいいのか分からないということだ。イーサン・ハントの周りの人は影に生きる羽目になるというある種の既定路線に入ったのか、『エイジ・オブ・ウルトロン』ばりのIMFにようこそ!なのか。
うーん、あのグレースがよく分からないのもあって、うーんな終わり方だった。


会話シーンについて
今回新たに撮影監督としてフレイザー・タガートを起用したからか、会話シーンが独特なショットになっている。印象的なのは予告にも使われたイーサン・ハントとIMFのボスが煙い中で話してるシーン。

超至近距離かつ煽るようなローアングルで斜めに撮るショット(ダッチアングル)で切り返すシーンで、あそこまで鋭角に至近距離で撮るのもこのシリーズでは珍しい印象だ。この撮り方はあらゆる会話シーンで採用されていて、一番すごいと思ったのは、あのクラブで各陣営が会話してるシーン。見栄を切るようなショットによって緊張感、それぞれの視線の交錯を演出されていて非常に興味深くはあった。ただ"やりすぎ"なきらいはある。
効果はあるが、ピンポイントでやってるわけではないので、シーンとしてぼんやりしてしまってる感じがする。

 

最後にこの映画が何をテーマにしてたのかについて。
自分としてはまず最初に思ったのは、過去との対峙というテーマだ。M:Iに入る前のイーサン・ハントを回想させるのだからあからさまだ。(フォールアウトではジュリアが核爆発に巻き込まれる悪夢から始まる)
しかし観ていると『トップガンマーヴェリック』のようなAIとの対決の構図も立ち上がってくる。
過去との対決なのか、AIとの対決なのか、その両方なのだろうが、どう整理してカタをつけるのか。
AIとの対決は本質は全く違うが、ハリウッドで起こっているストライキに絡めて考えることができるし、トム・クルーズという存在が抗っているものなので、否応なく盛り上がる対立構造だ。対して過去との闘い。これまで語られてなかった話を"過去"として対面することは『トップガンマーヴェリック』のグースともまた違う。


今回そのどちらにも曖昧で、ガブリエルを殺さなかったという選択が、過去の影からの解放を意味するのだろうが、ガブリエルは結局生きてるし、次で必ず対決することは必至なので、その過去とAIとの対立構造は未だ変化せず存在する。


そう思うと本作は割かし何も解決してない映画になっていると思う。

ほとんどマクガフィンの争奪戦以外話が進まずに終わった本作、マジで続編どうすんだろ。