題名:『狂武蔵/Crazy Samurai Musashi』
製作国:日本
監督:下村勇二監督
製作年:2020年
ちょっと前に『キングダム』という作品を観た。
その作品は可もなく不可もなく平凡な漫画原作の実写作品だな、と思って観ていたわけだが、瞬間画面が淀むような異質な存在が飛び込んできたのを覚えている。
明らかに堅気じゃない面構え、血の匂いを漂わせ、周りの空間を歪曲させてしまう存在感。ファンタジー世界観のコスプレ一歩手前の映画に一人"本物"が混じっていると思わされた。その後はもうこの"左慈"というキャラクターに目を奪われ、最後の一瞬、その死の瞬間に至るまで失望させられることはなかった。
役者の名前はTAK∴(坂口拓)。その経歴を見るとやはりか、俳優というよりアクションの世界を血生臭く歩んできた方だった。俳優では出せない"本物"はこの"本物のアクション"由来のものだったのだ。
9年のときを経て誕生した狂
そんな彼がおよそ9年前、狂気の映画を撮っていた。
「77分間ワンカットの殺陣」
想像できるだろうか。1人対400人の剣戟による攻防で休みなく刀を振り回し、捌き切る。演じるを越えて"体現する"といった形相。開始5分で指は折れ、中盤で肋骨が逝き、終わったころには奥歯が四本砂のように崩れ去るという裏話がその苛烈さを物語る。
御幣を恐れず言うならば、この時代、世界で最も命を懸けた"チャンバラ"であり、最も"宮本武蔵"に近づいた瞬間であると思う。
その77分の映像は帯びた狂気を封印するが如く、一般公開されることはないまま時間が過ぎ、この2020年に至るまで封をきることはなかった。しかし『キングダム』のアクション監督"下村勇二"と主演"山崎賢人"が参加した追加撮影を行い、遂に見事に一つの"映画"として出来上がり、この世に解き放たれたのだ。
ではその裏話を聞くだけで狂気が滲みでるようなこの映画は何を描いていたのか、書いていきたい。
狂気の儀式
本作の本丸はアクションであるが、史実に準えたストーリーがある。
慶長9年、面子を潰された吉岡一門400人が宮本武蔵を迎え撃つ。しかし一枚上手の武蔵は前日に山中に潜み、幼き大将である吉岡又七郎(9歳)を斬る。油断を突かれた吉岡一門は激情しその400という数を用いて一斉に攻撃を始める、というのが本作のストーリーのほとんど。そうした史実に準えた宮本武蔵の物語が背景にあることで単なる殺陣の見本市ではなく、現実に根差した剣豪の生き様に昇華させている。
これに代表するように本作は自分的にどこか宮本武蔵を坂口拓に降ろす儀式のように思う。正しく"狂気の儀式"といえるだろう。
狂気の儀式と思わされる要因は二つ。一つは"単vs多"の構図である。目を疑うような光景、これぞ絶体絶命といえる状況こそ、宮本武蔵を降ろす下地といえるだろう。
"単vs多"の構図を成り立たせているのは日本の築き上げてきた伝統と文化を継承してきた地に足の着いた殺陣である。77分全てが計算された殺陣であるはずもなく、殺陣は複雑に構築された構図の中でそれぞれの勘と経験で組み立てられていく。坂口拓だけでなく、やられる側の技術も高いものが要求される状況。途中で坂口拓の刀が折れるハプニングがあったそうだが、敵から刀を奪うというアドリブを双方が瞬時に行ったそう。これぞプロの職人芸であり、アクションを極めた本作における"映画の魔法"だ。
二つ目は言うまでもない。"一切のカットを行わない77分間の剣戟"だろう。カットをしないということは帯びた熱量が冷めずに持続していくということだ。疲労と絶望が毎秒加算されていき、明確に負債が蓄積されていく。文字通り77分間人を斬り続けるのだ。そこに映し出される疲労と切迫感は何よりも"本物"である。
ここには製作陣の狂気が込められている。坂口拓だけでなく、吉岡一門を演じた他キャスト、カメラスタッフ、監督陣。無茶でしかないこの狂気の企画に狂気の熱量で応えたからこそ成し遂げられた偉業。
ラストのカット、そこに居るのは坂口拓ではなく、修羅の如く宮本武蔵の実像。降ろしてみせたのは"狂気の儀式"なのだ。
エゴの結晶
ここからは正直仕方のない、ワンカット故の弱点について語りたい。これは「1917」や「カメラを止めるな」「バードマン」に例するワンカットの弱みとも繋がってくる。
本来カット編集という行為は物語のテンポを生み出すことである。そしてカットを掛けることで物語の矛盾点などを消化したり、基本的に良い事尽くめなのである。
本作のような大人数で行われるシーン、またアクションを多用するシーンでは特にカットにより、その人数感とアクションのキレを演出するのが通例である。
そうはしなかったために本作は多くの問題点が生じてしまったように思う。
例えば多くのノイズを生んでしまったことがあげられる。宮本武蔵が切り殺した人間が殺陣の邪魔、人数の関係にいつの間にか画面外に捌けていること。本来ならカットやカメラワークで違和感なく出来る箇所なのだが出来ていない。本作においては間違いなく、殺した人間が宮本武蔵の背後に死屍累々として連なるべきだったはずだ。
他にも一瞬カメラの影が映っているシーンがあったり、殺陣途中で必然的に入れなくてはならない水分補給でテンポが死んでいたり・・・
長尺であったからこそ、仕方のないノイズが生まれてしまっていたように思う。
ここまで書いたことは全て製作陣も基から分かっていたはずだ。それでもやったのは本作がアクションを生きた者達の"エゴの結晶"であったからだろう。編集を通して手を入れずともアクションはそれだけで完成しているという自負。それこそが本作という歪な作品を作り上げたのだ。
終わりに
これは本当に異質で歪な作品だ。執念や製作陣の狂気が画面から滲むようで、ドキュメンタリー映画にある本物の質感が存在している。
また未だかつてないジャンルでありながら、日本の伝統と技術の血結晶でもあるのだ。そう簡単には生み出すことが出来ない、それこそ海外では絶対作れない作品なのだ。これぞ日本の誇るべき作品だ。