劇場からの失踪

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そのおもかげに抱く感情の名前は『おもかげ/Madre』劇場映画批評21回

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題名:『おもかげ/Madre』
製作国:スペイン/フランス
監督:ロドリゴ・ソロゴイェン監督
製作年:2020年

 

目次

 

短編から生まれた作品

陽光が差し込む白を讃えた部屋、息子の拙い絵が飾られた部屋はまるで、主人公エレナ(マルタ・ニエト)のこれまでの幸せな人生を象徴するようで、そんな場面から映画は始まる。

携帯を介して行われる何気ない和やかな親子の会話が一転、物語は戦慄のサスペンスへと移行していく。一人の海岸、父親の不在、電話越しに伝わる不穏さ。じわじわと状況がひりつき始める。声から伝わる不安、僅かなバッテリー、そして見知らぬ男の登場・・・。

途絶えた電話は残酷な現実を提示し、息子を捜しに部屋を飛び出す母の後ろ姿に終わりなき後悔の旅を予感させる。

 

冒頭10分、上映時間の一割に満たない尺。

それだけで観客はこの作品の底の見えない闇に放り込まれる。

それもそうだ。画面の中の女性の人生が一瞬で崩れ去り、闇の中に放り出されたのだから。

 この冒頭は第91回アカデミー賞短編実写映画賞にノミネートされた「Madre」という短編作品で、長回しで描いた電話越しの緊迫のサスペンスはこれだけで一つの作品として高いクオリティーを誇っている。この手法はデンマークの「THE GUILTY」を思い出させる。サスペンス特有のカットバックではなく、電話先を想像させ、距離を置くことで事件に対する無力さと不安定さを強めることが出来るこの手法は、本作でも猛威を振るっている。

 

この高い評価を受けた短編を作り上げたとき、監督であるロドリゴ・ソロゴイェンは「主人公エレナの物語を続けたい」と考えたそうだ。

長編として描いたのは主人公のエレナの10年後。それが意味するのは空白だ。飛び出した後彼女は何をしたのか、誘拐事件の捜査はどう行われたのか、そのとき元夫のラモンは何をしていたのか、彼女はどう悲しみに向き合ったのか。諦めや納得、怒りと悲しみ、つまり短編で描いた事件に対し、事件直後の顛末を一切提示せずに物語が始まる。そこが本作の異質な点であるのだ。

監督はサスペンスに満ちた短編と異なり、全く別のジャンルとして本作は終わると語っている。その言葉に偽りはない。本作は名前を付けられないジャンルの作品に仕上がっているのだ。

 

息子の面影に何を想うのか

物語はかつての誘拐事件から10年後、フランスの街ヴュー=ブコー=レ=バンのビーチで息子の面影を持つ少年ジャン(ジュール・ボリエ)に出会うところから動き始める。エレナは息子の面影を持つ少年に思わず我を忘れそうになるが、大人としての理性と10年の厚みが彼女を止まらせる。対して、ジャンはエレナの周りとは違う謎めいた雰囲気と大人の女性としての魅力に惹かれはじめる。

ここで特筆すべきは両者が"何を感じているのか"ということが明確にされないことだ。エレナは物語が進むにつれて結局ジャンにのめり込んでいくのだが、

ジャンを"息子"として見ているのか、"男"として見ているのか。

息子の面影に何を想うのか、が明確にされないのだ。ジャンもそうだ。先ほど「謎めいた雰囲気と大人の魅力」だなんて書いたが本当は定かじゃない。"好いている"という事実は分かるが、何故そこに至ったかは曖昧なのだ。

つまりこの息子を失った39歳の女性と未成年(16歳)の少年の物語の推進力がなんであるかが不明瞭なのだ。定義しがたい関係、一線を越えないゆえに宙吊りな状況、それは本作の不安定で危険な香りのする作品の雰囲気の源泉ともいえる。そもそも空白の10年を挟むことで、喪失を経た彼女はどう受け入れたかも予想は出来ても本当のところは分からないのだから。

 

冒頭との対比

またそんな雰囲気を作り出しているのは意図的なカメラワーク、つまり演出によるものでもある。本作は随所にあるスリリングなシーンでは必ず長回しを行う。

この長回しによってもたらされるひりつくような緊張感がとにかく恐ろしいのだ。暗闇の海に消えていくジャンや見知らぬ男達との車内での一幕。長回しによって緊張感と不穏感が連続的に蓄積され、観客に最悪の未来を過ぎらせる。

ここでの"長回し"という技法そのものが"冒頭のシークエンス"によって"=最悪の展開のトリガー"として観客に刻まれているからこそ最悪の未来を過ぎらせるのは間違いない。あまりに衝撃的な冒頭のシークエンス、それ自体が全編に通してトラウマのように連想される。例えば"携帯の着信"が作中において、不穏な展開のきっかけになっていることは冒頭がある故だ。また本作で進行するにつれてエレナがジャンの家族にとって、息子を脅かす存在になっていく訳だが、それは冒頭の"見知らぬ男"とエレナの加害者と被害者の構造に重なる。

つまり次第に彼女の立ち位置が最初の”家族が脅かされている被害者”という立場から対称的な"家族を脅かす加害者"に変わっていってるのだ。全てが冒頭との対比、連想によって構築されている映画構造は巧みという他ない。

 

 恋、そして再生

ただここまで緊張感というものにフォーカスしてきたり、ジャンル不明な作品として扱ってきたが本作はあくまでも"恋愛映画"として見るべき作品だろう。というかそういった解釈でこその物語の着地点が用意されているし、私が感銘を受けた部分が大人の女性と子供の男性の歳の差恋愛映画としてこれまでにない斬新な描き方にあるからだ。

これまで『言の葉の庭』や『ビューティフルデイズ』等でも同じような恋愛の形を見てきたが、正直に言って苦手であった。苦手の理由の一つはその禁忌の関係を執拗に"美化"しているようにみえてしまうことがある。その点が本作だとかなり自覚的というか、一見倫理感の欠如が見られる本作が実はしっかり"我を忘れた異常行動"として描いており、ちゃんとした倫理観に基づいているように感じるのだ。

上述した全体にある不安定な宙吊り感は"我を忘れた異常行動"であることを際立たせ、また少年の家族や友人の視点をしっかり描くことで"普通でない出来事"なのだとしっかり提示する。そういった美化せず"我を忘れた異常行動"であることを明確にする姿勢が自分は新しいというか、真摯な描き方だと感じた。だからこそ最後の車内の一幕は"恋の始まり"という艶やかなものではなく、"終わり"という決別の最後を見せたのだ。

 

その後主人公は元夫に電話にかけるシーンで幕を閉じる。終わりがあればまた始まるように、彼女は何かをまた始めようと電話をする。

彼女の中で何が整理されたのかは分からない。それでも何かと決別し、清々しさを孕みながら歩み始める。その白い部屋と電話を掛ける光景は冒頭を連想させる。

そう、冒頭の再現になっているのだ。

 

 

 

どこから始めるのかは言うまでもない。 何故彼に電話をしたか言うまでもない。