劇場からの失踪

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『ある男』他人として生きたい 劇場映画批評93回

題名:『ある男』
製作国:日本

監督:石川慶監督

脚本:向井康介

音楽:Cicada助監督:中里洋一

撮影:近藤龍人

美術:我妻弘之
公開年:2022年

製作年:2022年

 

目次

 

あらすじ

弁護士の城戸は、かつての依頼者・里枝から、亡くなった夫・大祐の身元調査をして欲しいという奇妙な相談を受ける。里枝は離婚を経験後に子どもを連れて故郷へ帰り、やがて出会った大祐と再婚、新たに生まれた子どもと4人で幸せな家庭を築いていたが、大祐は不慮の事故で帰らぬ人となった。ところが、長年疎遠になっていた大祐の兄が、遺影に写っているのは大祐ではないと話したことから、愛したはずの夫が全くの別人だったことが判明したのだ。城戸は男の正体を追う中で様々な人物と出会い、驚くべき真実に近づいていく。

引用元:

eiga.com

※以降ネタバレあり

 

他人になりたい

『愚行録』の石川慶だった、というのがまずの印象だった。妻夫木聡を主演にして、彼が"無意識の悪意"に晒され続けて、遂に一線を超えてしまうような感覚はまさに愚行録の田中武志だし、妻夫木聡の強みはこの"透明な存在感"なのだと観ていて唸らされた。だからこそ狂言回し的な立ち回りから彼の物語だと屹立するラストが印象深くなる。

「他人になりたい」という願望、果たしてどれだけの人が感じるのだろうか?そしてどんな人物が感じるのだろう?
個人的にはこれはSNSやアバターという概念が一般化された今、僅かだとしても「自分とは違う自分」への憧れを皆が持っているのではないかと感じている。だとしても、全てを投げ打ってまで過去を清算して新しい人生を演じようとする人はいない。
そこにはそれだけの"理由"があるのだ。本作はその理由を解きほぐしていく話だと言える。

 

縁を切ることの出来ない「顔」

夫谷口大祐が死んだ。しかし彼は谷口大祐ではなかった。では誰なのか?
その問いは冒頭の大祐と里枝の関係が深まる様、特に大祐の良き人間性を見てきた者にとって大きな問いとなる。そこに現れるのが妻夫木聡演じる城戸という弁護士だ。
彼は上記したように狂言回しのように物語を進めていく"探偵"として機能する。ただ話が進むにつれて彼の在日朝鮮人三世だというアイデンティティーが暴かれていく。その暴かれ方もかなり残酷で奥さんの両親との食事の席での差別的な発言や「あなたは三世だから違うわよ?」と共に、指摘されたり監獄に面会に行ったとき、顔を観ただけで言い当てられてしまう。
彼が帰化することで、払拭/或いは忘却してきただろうアイデンティティを掘り起こされる展開はかなりキツい。
特に「顔」というのが本作では重要だ。変えることが出来ず、人に認識される上で最も代表的かつ鏡を観る度に視界に入り、縁を切ることの出来ない「顔」。それが過去や自分の人生と決別したい者達にとっての呪いであり、不幸かその過去を知る上で唯一の線となっていく。
これはXと呼ばれ、後に原誠だと判明する男においても同様だ。彼の人生を遡ることで、彼が犯罪者の息子で、そのことに苦しめられていたことを知る。鏡を見れば、父の面影を感じる「顔」があり、揺るがない「人殺しの息子」というレッテルは消え去らない。あろうことかこの映画はその「顔」を頼りに原誠の人生を追いかける。ここにある種の残酷さがありはしないだろうか?

 

後頭部を観る

他にも名前や血縁関係といった生まれたときには持っている自らを定義するアイデンティティを呪いのように描いていく、その中で大事になってくるのが冒頭と最後に現れる印象的な絵画、ルネ・マグリットの「複製禁止」である。あの絵が示すのは、鏡を観るという行為と自分の顔を観るという行為の=が崩壊し、"後頭部を観る"という行為になった時、貴方は自分の顔を知る方法を失い、自分が誰か分からないのなら貴方は誰でもあるということなのだろう。「他人として生きたい」という願望を忠実に表した絵なのだ。
対して鏡かのように機能するカメラワークが他にもある。例えば榎本明との対面するシーン。ここでは城戸の真実である朝鮮人三世というアイデンティティが晒しあげられるわけだが、鏡像関係によって真実が暴かれるという構図といえる。他にも路地で幼い頃の自分と見つめ合う構図や木の奥にいる原誠と向き合う構図、そのどれもが「鏡」のように面を挟む形で対称的に人物を配置し、向き合う相手同士が鏡像関係にあることを示唆する。上手い演出だ。これらのシーンはリアリティラインをぐらつかせる演出になっていて、本作の面白い点であり、特に榎本明の「雨」のシーンは凄まじかった。

 

過去を捨てて歩き出すことはこの現代社会において難しい。『罪の声』ながまさにそういったことを描いており、思い出していた。
人は変われるという立場に、全ての人が経つことが出来れば或いは、そんな社会は来るのかもしれない。

 

 

とここまでは絶賛の部分。逆に否定的な部分としては、谷口大祐本人の戸籍を変えてまで生き直したいの部分が、やはりどうしても上手くいっていないと思う。朝鮮人差別や加害者家族に対する差別と並列に語っていいのか疑問点が残る。他にも、ラストの城戸の奥さんが浮気してた件、あれが城戸のアイデンティティのせいであれば納得いくが、あそこであの情報が入れられると、浮気されたから別人になろうとしたというオチに見えてしまう気がする。

いまいちやりたいことに乗り切れないところがあり、忖度を必要とする作品だったのは間違いない。石川慶の映画特有のレンズフレアのあるショットをちょっと期待してたところはあるが、撮影がピオトル・ニエミイスキから変わってしまったのでしょうがないかもしれない。確かに本作の雰囲気には合わないだろう。