劇場からの失踪

映画をこよなく愛するArch(Ludovika)による映画批評 Twitterもあるよ @Arch_Stanton23

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友情よ、暮れてくれるな『くれなずめ』劇場映画批評22回

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高校の奴らと5年ぶりに再会する。

赤いフンドシで踊ってたバカ達も今や恥も外聞も知っている大人だ。

それでも今日だけはあの時に戻ろう。

俺たちはいつまでも変わらないってこと証明しなきゃならない。

俺らは忘れない、過去だって変えられる。

最後の最後までひきずれ。暮れなずむ空だって一生暮れなくていい。

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題名:『くれなずめ』
製作国:日本
監督:松居 大吾監督
製作年:2020年

 

-最初に一言-

前回更新から大分空きまして、久しぶりの劇場映画批評です。空いた理由としては、誰しもが通る通過儀礼、「就活」でございます。今では転職が当たり前!なんて時代ですが、これで人生が決まるという緊張感は恐ろしいものでしたね… 

そんな雑談は置いといて今回の映画は『くれなずめ』です。予告を見た瞬間にその主演6人の面子にこれはズル過ぎる!と唸り、そして予告から連想された『佐々木、イン、マイマイン』『横道世之介』的な"昔仲良かったアイツとの物語"にも期待値MAX、就活が終わったら一番に観たかった一本でした。

 

私はこれまで松居 大吾監督の作品は一切触れたことのない身でして、今回は監督の作家性についてはあまり触れず、印象批評に近い形となることと思います。それでは行ってみましょう!

 

 

目次

 

ストーリー

優柔不断だが心優しい吉尾(成田凌)、劇団を主宰する欽一(高良健吾)と役者の明石(若葉竜也)、既婚者となったソース(浜野謙太)、会社員で後輩気質の大成(藤原季節)、唯一地元に残ってネジ工場で働くネジ(目次立樹)、高校時代の帰宅部仲間がアラサーを迎えた今、久しぶりに友人の結婚式で再会した! 満を辞して用意した余興はかつて文化祭で披露した赤フンダンス。赤いフンドシ一丁で踊る。恥ずかしい。でも新郎新婦のために一世一代のダンスを踊ってみせよう!!
そして迎えた披露宴。…終わった…だだスベりで終わった。こんな気持ちのまま、二次会までは3時間。長い、長すぎる。そして誰からともなく、学生時代に思いをはせる。でも思い出すのは、しょーもないことばかり。
「それにしても吉尾、お前ほんとに変わってねーよな
   なんでそんなに変わらねーんだ?まいっか、どうでも。」
そう、僕らは認めなかった、ある日突然、友人が死んだことを─。

引用元URL:映画『くれなずめ』オフィシャルサイト 2021年5/12公開

 

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吉尾という存在について

『桐島、部活やめるってよ』における桐島、『佐々木、イン、マイマイン』における佐々木、『ユージュアル・サスぺクツ』におけるカイザーソゼ。映画の中心にいる存在、物語における屋台骨的な存在(設定)。本作においてそれは、言うまでもなく吉尾(成田凌)であろう。しかしその存在は『シックスセンス』のブルース・ウィリスなどの観客を驚かせるトリックではなく、"前提"であるというのが非常に面白い。

最初は「この6人以外にはどう見えてるか」や「どう成仏するのか」に気が向きがちにはなるのは仕方がないことだが、冒頭のカラオケでの「俺ってもしかして死…」の部分で、そういった観客の溜飲の下げるシーンのピークは来てしまう。それ以降はほとんど設定故のテンプレート的な展開を本作は前面に出してこない。

そういったところから吉尾の存在を”幽霊"や"幻想"といった説明のつく現象として捉えるのが正しくないことが分かる。自分としては"思い出"というニュアンスが一番近いと思うが、それはつまり"心象"の具現化、「アイツは今でも心の中で生きている」という心理状態の現象化、具現化であるのだ。

心象の具現化(思い出の具現化)であることは本作において、非常に重要な意味を持つ。それは本作の強いテーマの一つである、「はっきりさせなくていいじゃないか」という曖昧さをより際立たせることになるからだ。

 

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この映画に登場する吉尾は本人ではなく、"誰かにとっての吉尾"のツギハギである。どの場面においても吉尾は誰かの主観に依存する存在なのだ。6人でいるときは、他5人の心象から出来た吉尾。友人達の回想に登場する吉尾は特に顕著で、それぞれの心に刻まれている吉尾であり、"思い出"として都合よく解釈された吉尾なのだ。だからそれぞれの吉尾に対するイメージが色濃く映し出されている。

例えばネジ(目次立樹)にとっては「ウルフルズ」が好きな実は真っ直ぐな音楽が好きな男であり、欽一(高良健吾)にとっては、仙台で震災を経験したものとして苦悩を抱え、自分を鼓舞する男であるのだ。

ここで忘れてはならないのは「思い出は流動的に変化していくもの」であり、彼らの回想すらどこか曖昧で全員の吉尾像が一致しているとは言い難い。だからこそ、この映画に"吉尾本人"はいない。

あくまで生者の物語であり、生者がどう喪失と向き合って生きていくかの物語であることがここから分かる。

 

"死人に口なし、人は語りによって永世の命を得る"

 

それがこの物語の根幹にあたる吉尾という存在なのだ。

 

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はっきりさせなくていいじゃないか

本作は先程述べたように"曖昧さ"を吉尾という異質な存在によって抱えている。居ない人を居るとしているホラー感覚も一切なく、ただ「そういうものだ」と提示されるため、リアリティーラインがぐらつく。
作品全体に漂うこの曖昧さは、喪失に対する「はっきりさせなくていいじゃないか」という本作のテーマに密接に結びついている。
 
特にこの作品を鑑賞した方の中でも賛否が分かれるであろう、畑に穴を掘ったシーンからタイトルコールに至るまでのクライマックスのシークエンスは、本作のそのテーマを色濃く反映しているため、非常に歪に出来上がっている。
 
「心臓を取り出す、フェニックスが登場する、花畑で鞄が浮く、赤フンで踊る、過去をリフレインする。」
 
未見の人なら?が頭に浮かぶ言葉の羅列だが、これら全部が比較的に短いクライマックスの中で叩きつけられる。
 
ここにはいくつかの意図があると思う。
1「最後に全てをうやむや、はっきりさせないラストのため」
2「この物語は普遍的な話ではなく、あくまでも6人の内輪話だということ」
3「舞台出身の監督の手癖」
 
たぶんこんなところだろう。
吉尾がもたらす虚実の曖昧さは最後まで大事にしたかったためのラスト。ただ"成仏"したという印象にしたくなかったのだと私は思う。理解ではなく、感じろと言わんばかりの映像芸術だから成り立つ展開は、観客を意図的に振り落とそうとする意図を感じ、この物語が「彼らの物語」であることを印象付けてくる。
この物語のスタンスはあくまで内輪ノリだ。「喪失にまじめに向き合わなくてもいいじゃないか、俺らはこれでいい」という彼らだけの"答え"を提示して、それを正しいとも思っていない。ただ観客はそれを外部から覗き、観ているだけ。結婚式の出し物を引いた目でみたり、バカやってるなと笑って見ていたりしている外部に過ぎないのだ。
ただやりすぎ感が否めないのは劇団「ゴジゲン」に所属している松居 大吾監督の手癖、特に本作は元々は舞台であるために映画にしては大げさすぎる演出になっていたのかもしれない。
 

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そんなクライマックスだが、更に特筆すべきなのは過去をリフレインするシーンだろう。なんて演劇的なのか、そして自己満足的なのか。しかしどうしてこうも泣けてくるのか。
全体を漂う曖昧さの最高到達点、過去は変えられるという逸言を画にして見せたこの作品だからこそのオンリーワンのシーン。
ホモソーシャルな内輪ノリコメディーでありながら、その根底には寂しさや後悔から来る辛さが通底していて、恥も外聞も知った大人たちの無理してる感じが本作に常にあったが、それら全てがこのシーンに詰まっている。
 

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 総評、終わりに

敢えて今回は自分がこの作品を楽しんだのかについてはあまり触れていない。
正直な話をすると自分は後半の展開に置いてきぼりにされた。また後半の怒涛の展開だけでなく、内輪ノリや気恥ずかしい学生ノリ、ホモソーシャルな雰囲気、そのどれもが共感の念を抱かせないのもある。
だが、そんな風に作品と距離感を感じてると、藤原季節の菓子のシーンや若葉竜也の電話のシーンでぐっと心を掴まれる。そういう不意打ちもある。
だから自分も面白かったのか、つまらなかったのか正直答えが出てない。
 
まぁそれでも今回は別にこれで構わないと思っている。
くれなずめとは、暮れそうで暮れないこと。そんな時間が常に漂っているこの映画は
 
「はっきりさせなくていいじゃないか」
 
そう朧気に語っているからだ。