題名:『ザ・フラッシュ』
製作国:アメリカ
監督:アンディ・ムスキエティ監督
脚本:クリスティーナ・ホドソン
音楽:ベンジャミン・ウォルフィッシュ
撮影:ヘンリー・ブラハム
美術:ポール・デナム・オースタベリー
公開年:2023年
製作年:2023年
目次
あらすじ
地上最速のヒーロー、フラッシュことバリー・アレンは、そのスピードで時間をも超越し、幼いころに亡くした母と無実の罪を着せられた父を救おうと、過去にさかのぼって歴史を改変してしまう。そして、バリーと母と父が家族3人で幸せに暮らす世界にたどり着くが、その世界にはスーパーマンやワンダーウーマン、アクアマンは存在せず、バットマンは全くの別人になっていた。さらに、かつてスーパーマンが倒したはずのゾッド将軍が大軍を率いて襲来し、地球植民地化を始めたことから、フラッシュは別人のバットマンや女性ヒーローのスーパーガールとともに世界を元に戻し、人々を救おうとするが……。
引用元:
※以降ネタバレあり
正直残念な出来だった。ドラマ版でフラッシュポイントの話の大筋を理解していて、"時の流れを身勝手に変えてはいけない(色々酷いことになるから)"というフィクション内で深く共有される価値観に則り、母の死を受け入れるという終わりを知っている状態での鑑賞だったのだが、そのせいか全てが予想の範疇から抜け出しそうで結局抜け出さずに終わる作品だった。
多分それは話の筋が分かってたからだけが原因ではなく、言ってしまえば演出云々が全て古いからなのだ。
ベンアフ・バットマン
大きく分けて、タイムトラベルして別世界線に行く前後で分けて話していく。
前半に関しては、時折素晴らしいシーンがあり、本作の白眉になっていた。
まずはやはり、ベンアフバットマンの活躍が観れたこと。
ベンアフバットマンに特別な思い入れはないものの、快活なバイクアクションやザック演出影響下から抜け出したベンアフバットマンの憑き物が落ちたような演技は、続きを見てみたい気持ちにさせられた。特に素晴らしいのが「過去の傷があるからこそ今の自分がいる。過去に使命はない。過去に君(バリー)が正さなきゃいけないものはない」という台詞。大人として、先輩のヒーローとして、親を失った同類として、投げかけるその言葉はベンアフバットマンのバックボーンを感じさせながら、優しく若者を導こうとする意志を感じさせる台詞であり、そして本作の行き着く結末を予感させる素晴らしい台詞で涙が出そうになった。
また細かい描写だが、アルフレッドがフラッシュに出動要請をするシーンで、他のヒーローの行動が示唆される描写、特にスーパーマンがテレビに映るのがいい。MCU初期ではをやっていたのだけど、最近そういう裏では別の事件を解決してましたという描写が欠けてるので、久しぶりに観れた気がして嬉しかった。特にDCはどのヒーローも個でも十分な戦闘能力があるところに一つ差別化できるポイントがあるので、個で活躍している展開はDCの方が映える。
観たいフラッシュじゃない
前半のその辺は良かったのだが、一方でフラッシュ本人の描写には不満が残る。仕方ないにせよバリーという人間が父の事件を解決するために勉強して鑑識に入った、という部分の描写不足が否めないこと。
またフラッシュの赤ちゃん救出アクションがとにかくたるいこと。『XMEN F&P』や『XMENアポカリプス』でクイックシルバーが見せたアクションシーンと比べても全くセンスを感じないし、JLスナイダーカットと比べても一目瞭然。最近の流行りとして、高速移動を「スローモーション」にすることで相対的に描写することが流行っているが、正直それが基本のアクションになるとゆっくり戦っているヒーローの画ばかりを見ることになるのでキツイ。(加えて走り方もダサい 足が遅いやつの手の振り方が本当にダサい )
スーツもJLの機械的なのが好みだったし、もっとコミュニケーションエラー起こす感じのバリーが見たかったというのが本音。とにかくJLを通して「単独作が見たい!」とさせられたフラッシュではないと感じてしまったのだ。
そんな彼が母の死について思いを馳せ始め、遂にはタイムジャンプを覚える。そこからが後半。(尺的には全然後半の方が長いのだが、個人的な都合でここで前後半を分けさせて欲しい)
ハッキリいってこの後半、特にゾット軍との平地での対決までの流れがとにかく退屈だった。時間遡行の描き方がかなり変わっていて興味を引かれたし、それがクライマックスの世界線の追衝突の展開と相性がいいのも分かった。(上から観るとダーツボードの様である円形で、その中心でダーツで串刺しにされたぬいぐるみはリバースフラッシュを予見するものだったというのも悪くなかった)
ただ、スパゲッティを使った説明とイメージ的に合わないし、フラッシュという主体に寄りかかり過ぎな描写で、とにかく奥行がないので面白くないのだ。
またキートンバットマンも前シリーズとの繋がりがあってもなくても変わらない存在感で、これなら老け込んだベンアフでもベイルでも成立するやんという感じがした。
このキャラクターが同じ姿(俳優)ながらも、全く前作との繋がりを感じさせない描き方が、今作への最大の不満点かもしれない。
とにかく記号的にキャラクターを登場させて、「驚いただろ?」とサプライズを演出する。仮面ライダーの春映画と比べれば俳優本人(CGも含めて)が出ているだけマシだが、それでも顔や名前は同じなのに、全くその"歴史"を感じさせてくれないのは悲しい。NWHって本当に凄かったんだなと改めて思う。
とにかく古い
バリーが能力を失ってから取り戻す流れも結構ずさんで酷い。
後半はかなりアクションも多めになるのだが、スーパーガールが出たり、ゾットが出たりしてくると『マン・オブ・スティール』と比較してしまうのだが、やはり目を見張るようなものが本当にない。全てがなんだか手垢のついたようなアクションで、とにかく"古い"。闘い方を教えながらのCG感強い平地でのアクションも見てて辛い場面がかなりあった。
後半で「おっ!?」となったのは、CG感の強い平地でスーパーガールとバットマンが死んだところ。つまりここからは「母親の命か、それともDC二台巨頭のスーパーガール(マン)とバットマンの命か」という究極の二択を迫られるのかと思ったのだ。
ただその展開は結局大した結末を導かない。そもそもスーパーガールが何故か地球に未適応の覚醒前ゾットに一生勝てないという前提に納得がいかない。
そして結局"知ってるラスト"に落ち着いてしまったのが残念だった。自分としては 不可視の交差を如何に攻略するって話の方が面白いだろと思うのだ。
自分は『シュタインズ・ゲート』を親だと思って育った世代なので、その不可避の時間軸のルールに抗ってなんぼだと思うんですよ。
特に一人のフラッシュじゃ無理だった、だが、二人なら…と、2人のフラッシュで事態を解決する展開を期待してもいいじゃないか。それこそがマルチバースの醍醐味だというのに。
そのクライマックスで、他のマルチバースとしてクリストファー・リーブ版スーパーマンや企画段階で中止になったニコラス・ケイジスーパーマンなんか出すのも、結局上記したようにキャラクターが記号的に配置されたに過ぎないので、サプライズににやけながらも複雑な気分にさせられた。
あとジョージ・クルーニバットマンを出すのも許せない。自分が一番見たバットマン映画はMrフリーズの逆襲なので、それ自体は嬉しいのだが、前半のベンアフのセリフ(忠告)に対するリアクションが最後にあってこそ綺麗にまとまると思っていたので、そこで別バットマンにするのは理解できない。
この映画はやっぱり、そういう軽薄なサプライズで成り立っているんだなと思ってしまった。軽蔑する。
結局、バリーは全てをなかったことにする。ヒーロー映画らしいマッチポンプ展開だ。しかしこの映画をスーパーガールやキートンバットマンの物語として見た時、その終わり方はあまりに酷くないか?
その「なかったことにする姿勢」は、現DCの体制そのものだと思うのだ。
スーパーガールのオリジンがもっとちゃんと見たかったんだよ俺は。
鑑賞中はそこまで不満は無かったのだが、振り返ってみるとろくでもない作品だなと思った。