劇場からの失踪

映画をこよなく愛するArch(Ludovika)による映画批評 Twitterもあるよ @Arch_Stanton23

MENU

『ソフト/クワイエット』劇場映画批評131回 彼女達の行為を断じて許さないという意思表示

© 2022 BLUMHOUSE PRODUCTIONS, LLC. All Rights Reserved.

題名:『ソフト/クワイエット』
製作国:アメリカ

監督:ベス・デ・アラウージョ監督

脚本:ベス・デ・アラウージョ

音楽:マイルス・ロス

撮影:グレタ・ゾズラ

美術:トム・カストロノボ
公開年:2023年

製作年:2022年

 

 

目次

 

あらすじ

郊外の幼稚園に勤めるエミリーは、「アーリア人団結をめざす娘たち」という白人至上主義グループを結成する。教会の談話室で開かれた初会合には、多文化主義や多様性を重んじる現代の風潮に不満を抱える6人の女性が集まる。日頃の鬱憤や過激な思想を共有して盛りあがった彼女たちは2次会のためエミリーの家へ向かうが、その途中に立ち寄った食料品店でアジア系の姉妹と口論になってしまう。腹を立てたエミリーたちは、悪戯半分で姉妹の家を荒らしに行くが……。

引用元:

eiga.com

※以降ネタバレあり

 

白人至上主義者女性のコミュニティ「アーリア人団結をめざす娘たち」を設立した女性たちの行動を全編ワンカットで追うスリラー作品。

 

差別が如何に醸成されるのか

本作はアメリカ社会において「差別」は如何に生まれ続けているのかを「体験」する為の作品だ。

如何に差別は醸成されるのか、無根拠の嫌悪感が引き返せない暴力にまで至るのか、そしてその問題の根深さへの絶望を通して、当事者たちの感じる「恐怖」を味わう為の作品だ。
監督はパンフレットで「この映画で観客に安心感を与えたくない」と言う。
その"安心出来ない"という体験は多くのマイノリティが、一見"ソフト(人当たりが良く)でクワイエット(穏やか)"なレイシスト達によって、日常が如何に脅かされ、「安心感を感じられない」ものになっているかを疑似体験に他ならない。


まず、すれ違う清掃員の黒人女性への一瞥を映すことが、何よりこの映画の「性質」を物語る。

父にブラジル系、母2、中国系アジア人を持つベス・デ・アラウージョ監督が、映画に描こうとしているものの要約がなされていて良い。

この作品の主人公達は「女性」だ。最近だと「女性」はヒロイックであり、被害者であり、"正しく"描かれる。それはもとより男女の不平等が前提にある為、なんら不思議でもなく、正常への1歩を感じさせる訳だが、そんな最近の作品に慣れていると本作の圧倒的に悪党であり、加害者であり、"間違っている"人として描かれる女性は衝撃的だ。

 

これは監督が女性だからなのだろうか。同性であるが故に"女性"という括弧付きでの語り口ではない感じが本作にはある。男性が作品内の白人で唯一と言っていいほど理性的に描かれるのも印象的だ。

そんな彼女達の集会「アーリア人団結を目指す娘たち」の下りが前半で強烈な印象を残す。彼女達は、「我々は差別主義者ではない」と前提を置いた上で、有色人種に対する偏見や不満、つまり差別的な発言を繰り返す。そこには我々はむしろ差別される被害者だという意識があり、集会内で肯定されることによってその被害者意識は止まることなく膨張していく。
よく聴くお決まりの「BLACK lives matter」ではなく「All lives matter」だという発言や、ユダヤ人からのアーリア人差別の話題など、それらがそもそも有色人種が人種差別されてきたという前提が欠けている話題が羅列され、とにかく頭が悪いと思わずにはいられない。
興味深いのは、やはり彼の差別意識の根底には実人生への不満があることが露呈するところだろう。仕事上の不満、経済的な理由、不妊治療への不満、結婚出来ない、彼氏がいない特に家庭の主婦の孤独など、あらゆる人生上の不満や不安が差別と直結していることが分かり、現実逃避のために多文化主義を否定していることが見えてくる。差別とはそういった鬱屈から生まれているものなのだ。



ワンカットについて

彼女達のコミュニティには、自浄作用がないことが一つの原因と言えるだろう。基本的に自浄作用のないコミュニティは危険だなと思っているのだが、それがブレーキを踏まずに惨劇を引き起こしていくこの物語の加速度の正体だ。

ソフト/クワイエットとして日常に潜むレイシストである彼女達の化けの皮(或いは野蛮さ、頭の悪さ)が次第に露呈していく後半、ワンカットの猛威が振るわれていく。

ワンカットは視野狭窄感と不可逆性を強調するのにうってつけである。あらゆる選択が文字通り取り返しのつかない結果を導き出していく。そういった不条理系のエンタメでもありながら、しかしそういった楽しみをさせないだけの酷さがある。(それはアジア系姉妹の存在感に起因する)

バカ騒ぎと紙一重の家でのシーンには、冒頭の教会での会話シーンではオブラートに包まれていた現実逃避癖が全面に押し出され、阿鼻叫喚の地獄になっていく。服のモデルを依頼するという行為を反復することで、「先が見えてないバカ」感を強く印象づけてるのも良かった。これは悪しきシスターフッドの崩壊の話でもあるのだろう。

ワンカットとはつまり、現実をひとつのカメラ/視点からしか見ないということ。それは後半の死体袋を映すカットで最も効果を発揮する。彼女達が目を向けなかったもの、彼女達の馬鹿さ加減が露呈する、意味深なカメラの視座。
水面を映すショットは、この映画のワンカットのゴールとして見事なものだった。
それは不幸中の不幸の幸いであるばかりでなく、彼女達の行為を断じて許さないという意思表示であるからだ。