題名:『ドント・ウォーリー・ダーリン』
製作国:アメリカ
監督:オリビア・ワイルド監督
脚本:ケイティ・シルバーマン
音楽:ジョン・パウエル
撮影:マシュー・リバティーク
美術:ケイティ・バイロン
公開年:2022年
製作年:2022年
目次
あらすじ
完璧な生活が保証された街で夫ジャックと幸せな日々を送るアリスは、隣人が赤い服の男たちに連れ去られるところを目撃する。それ以降、彼女の周囲では不可解な出来事が続発。次第に精神が不安定となり周囲からも心配されるアリスだったが、あることをきっかけに、この街に疑問を抱くようになる。
引用元:
※以降ネタバレあり
今回紹介するのは、『ドント・ウォーリー・ダーリン』である。『ブック・スマート』で劇的な監督デビューを遂げたオリヴィア・ワイルドの二作目である本作は、『ブックスマート』とは違い、不穏な予告編が印象的だった。フローレンス・ピューやハリー・スタイルズを主要キャストにまるで『ステップフォードの妻たち』のような物語が展開されていく。では早速語っていこう。
広告の50sの不穏
アメリカ50年代の幸せの形とは、広告で流布されたイメージに過ぎない。綺麗な一軒家、妻と夫、そして子供にペット、そこにクラシックな車や庭を付けると「幸せな家族」の完成だ。
そんな平均化されて理想として位置づけられた幸せは、他人に与えられた幸せに過ぎない。しかしその型にハマることで、幸せを手に入れられる人もいるのだから、難しい。
本作はそんな50年代アメリカの風情を再現し、その中で生きる主人公アリスが徐々に異変に気づいていくという物語。『ステップフォードの妻たち』なんかを思い出す人もいるだろうし、アメリカのシットコムが意図せず放つ白々しい幸せの形に嫌悪を示す人は、その感覚を自覚的に示す本作の不気味さは強烈なものになっているかもしれない。
ただそういった虚構の幸せを"今"描く上で色々な試みを行っており、そこが『ステップフォードの妻たち』等のジェンダーバイアスによる役割つけの恐怖というテーマを超えてより広義の意味づけになっている部分なのだ。
例えば冒頭、登場する複数の夫婦は規則的で統一された行動で出勤していく。ルックの不気味さも去ることながら、彼らの型に嵌められた生活の様子を一発で理解させる状況説明のカットとしても見事に機能している。そこから登場人物とのやり取りが始まっていくが、興味深いのは彼らの人種配置である。
もし50年代アメリカを描いた作品を映画で観たとき、広告の作り出したイメージや人種への偏見で、高級住宅街に住む人々は「白人」だけになるはず。
しかし本作においては白人だけでなく、中東系やアジア系の人が登場する。更に加えて黒人が登場することで「不穏」を演出するのだ。「不穏」なのは、それらが流布された50年代イメージには存在しないものだから。
勿論50年代においても有色人種はアメリカに存在したのだが、広告によって流布されたイメージには"彼ら"は存在しない。つまり虚構としての理想50年代アメリカを描こうとしながら、「現実」が随所に紛れているからこそ不穏、そこが本作の上手いところだ。
量産型で複製なライフスタイル
他にも本作のギミック設定も面白い。ネタバレしてしまうと本作は、『マトリックス』やSAOのようなバーチャルリアリティの世界に夫が妻を拘束していたという衝撃の事実が終盤で明かされる。この設定が面白いのは『ステップフォードの妻達』のように妻の自由意志を完全に剥奪する訳ではなく、本人の意志によってその場に居続けさせるシステム作りになっているところだろう。
その為に本作がやっているのは、何不自由のない生活を用意すること、そして"人生の負け犬"を意図的にピックアップしていることだろう。ここの能動性こそが『ステップフォードの妻達』と違うところであり、妻もまた「良妻賢母」像を初めとした作られた"幸せの形"に縋っている為に、夫婦間の両方向性が生まれているという点が、現代へのブラッシュアップになっているところだろう。
他にもラストの荒野の先にある本部、つまり「現実」への出口に逃走する際のマッドマックス的かつ西部劇的なルックをフローレンス・ピューがやっている面白さ、それもジェンダーバイアスの転覆を感じさせた。
あと興味深いなと思ったのは、全員毎日のように噂話,身の上話をしていた癖に、全員が出身や夫婦の出会い、新婚先が同じである事態に全く違和感すら感じていない展開。はっきりいってそんなことにも気づかないのかと呆れてしまいもするが、ただ一方でその"同じなのに気づかない"というのがSNSの揶揄になっていると感じた。特にインスタなんかで同じような食べ物、風景(観光地)、カップルの写真を投稿し自らの人生を"価値ある"ものだと振る舞う。しかし一方でそれは量産型で複製なライフスタイルで醜い視野狭窄の結果でしかない。周りと同じで、それが羅列されながらも自覚的じゃない、その感覚は正しく本作のあのシーンにピッタリはまる感覚だ。
結末はみんな早い段階に察しがつくかもしれない。しかしそこに至るまでの道程の作り込みの上手さ、単純に「映画」をちゃんとやっているところを評価したい。