劇場からの失踪

映画をこよなく愛するArch(Ludovika)による映画批評 Twitterもあるよ @Arch_Stanton23

MENU

『RRR』お前のレベルには落ちない ここまで上がって来いよ 劇場映画批評90回

題名:『RRR』
製作国:インド

監督:S・S・ラージャマウリ監督

脚本:S・S・ラージャマウリ

音楽:M・M・キーラバーニ

撮影:K・K・センティル・クマール

美術:サブ・シリル
公開年:2022年

製作年:2022年

 

目次

 

あらすじ

1920年、英国植民地時代のインド。英国軍にさらわれた幼い少女を救うため立ち上がったビームと、大義のため英国政府の警察となったラーマ。それぞれに熱い思いを胸に秘めた2人は敵対する立場にあったが、互いの素性を知らずに、運命に導かれるように出会い、無二の親友となる。しかし、ある事件をきっかけに、2人は友情か使命かの選択を迫られることになる。

引用元:

eiga.com

※以降ネタバレあり

 


圧倒されるとはこのことである!!
物語の基本骨子が単純(王道)だからこそ、相反しながら共鳴する二項対立が分かりやすく、摩擦するかのごとく熱を帯びていく。またその単純な構造の背景にある抑圧されたイギリス植民地時代のフラストレーションを映画の力でぶち壊してやるというタランティーノばりの歴史改変パンチ、俺はこれこそが「映画」だと言いたい。(同時期に公開された『スペンサー』も『アフターヤン』も『MONDAYS』も『夜を越える旅』も映画なんだから映画ってすげーよと改めて思わされた)

本作が素晴らしい点は個人的なものを含めて3つにまとめられると思う。

1つ目はビームとラーマの綺麗な対比の中で、対立と協力を描いている点。
2つ目は、イギリスによって植民地化されインドとの武力衝突もやも得ない、銃が必要だ!という状況になっていく中で、他の何よりも「心動かす」という行為を"武器"にすべきだというメッセージ性がある点。

3つ目は個人的な感想、いわゆるハリウッド映画、ヨーロッパ映画中心の映画史からは完全に独立した「映画」だという感覚。

では早速語っていこう。

 

ビームとラーマの対峙

これが本作の白眉であることは間違いない。ビームとラーマが運命的に出会い、仲を深める。しかし互いの目的や立場の食い違いによって対立するが、友情パワーで和解!更に絆を深める形で手を取り合い、正に以心伝心、究極合体で悪を討つ。
その関係性の変化と二人が協力したときの圧倒的な"パワー"こそが、物語の原動力でこの上なく最高なのだ。そしてそれらがは二人を炎と水のモチーフに見立てているなどすることで「対等」に「対比」されているからだ。

ラーマが登場すれば、後ろで馬車の客車が燃えている。ビームがキレれば噴水が砕け散る。花火と噴水のホース、炎の矢と水の槍、全てが「対等」に「対比」される。獄中の拷問を両者共に受けることでの痛みの共有、それが更にそれを加速させる。
同じ力、同じ痛み、同じ想い、2人の対等で同じ実力の関係性であることが何より肝の本作は、それらの演出によって完璧に対等かつ相補的に描かれているのだ。それが何より単純に気持ちがいい。これは言ってしまえば少年ジャンプ的な快感とも言える。でも簡単には出来ないことだし、それは『仮面ライダーBLACK SUN』(最近観た)とかいうのが証明してる。

 

土俵にあげる

『仮面ライダーBLACK SUN』を引き合いに出したが、比べられる点は他にもある。それは差別や社会構造によって虐げられる側に主人公二人がいるという構図。イギリスvsインドという対立構造にマトリックス的にラーマvsビームの対立構造があるというのは、怪人vs人間、ブラックサンvsシャドームーンのマトリックス構造に似ている。ただ圧倒的に『RRR』の方が出来がいい。というか比べ物にならない。それは①の要素が大きいのだが、そこに加えて「虐げられてきた者達」の物語に対して、明確に答えを出しているところが違う。
そこで重要になってくるキーワードは「心を動かす」「銃」である。
まずは「心を動かす」ということについて。
本作は「心動かすダンス」と「心動かす音楽」によって脚本のツッコミどころを気にする暇を与えない。この映画のやりたいこと、つまりテイストに乗せられてしまうのは、あらゆる要素が「心が動かす」からだ。それは言い換えれば、この映画の"土俵に上げられた"からだと表現できる。観客と映画の関係に限った話ではない。注目すべきは本作屈指のダンスシーン「ナートゥはご存知か?」のシーンだろう。
イギリス人の嫌味な貴族がそれはもう西洋圏由来のダンスで煽ってくる、それに対してラーマとビームが"踊り返す"という場面。みなさんも「心を動かれた」はず。そして"心を動かされた"のはイギリス人の人達もそうだ。まずは女性陣から、そして最後には男たちも「同じ土俵」でナートゥ勝負に挑んでいた。つまりあのパーティ会場にいたもの達もまた"土俵に上げられていた"のだ。
この心を動かされて、差別する側を同じ土俵に引きづりあげるという行為が何より大切なのだ。つまり差別する側を「下」として土俵に上がってこさせるという認識であり、相手のレベルには落ちないという意思だ。
この一見コメディ重視のナートゥシーンが、ビームのムチの拷問シーンに繋がっていき、「心を動かす」という行為が"武器"になる展開に繋がっていく。

 

話を続ける前に本作における「銃」についてここで語っておきたい。本作を見れば「銃」という要素が重要であることは、冒頭の「弾が勿体ない」という村での下りからも分かるはず。またラーマの動機が村の皆に銃を渡すことであり、ラーマにとって特に重要な要素なのだ。
銃は正にイギリスが圧倒的な資本主義力によって銃を大量生産し、独占する様を描くモチーフとして機能する。比較されるように弓矢が台詞内に登場、イギリス側の偏見の表れ、かつ最高のカタルシス(バーフバリへのセルフオマージュ)に繋がっていくわけだが、何より面白いのは、銃を村の皆に持たせて武力闘争を行うことが、「相手の土俵に乗ること」として描かれていくこと。ラーマがイギリス側に潜入し、英語を喋ることと「銃」の達人であるのはラーマのイギリス的な属性を象徴していて、「銃」=イギリスの構図がしっかりあることの証左といえる。だからこそ「銃」という武器ではなく、「心動かす」ことを武器にしてしまえるビームはラーマにとって「最高の出会い」となりうる。
象徴的なのは、ラーマが拷問中にビームを膝をつかせようとするシーンと独房からビームがラーマを救い出すというシーン。一方は下への引きずり落とすような運動で、もう片方は引き上げるという運動。先程自分が述べた土俵に上げるという話に上手く結び付きはしないだろうか。


このようにして「銃」と「心動かす」のふたつのキーワードによって、被差別者達は決して差別する外道と同じレベルに下がっては行けないというメッセージは色濃く伝わってくる。
ただここまで書いて疑問というか、この話の欠点も理解している。つまり最後思いっきり「銃」使って武力でボコボコにしてんじゃん!ということ
個人的にそういったメッセージを感じてた自分は、えーと思いながらも同時に「サイコー!!」となっていて複雑な心情だった。カタルシス優先というか、勧善懲悪の話故に、最後にスコットは「1つの弾」で殺される必要があったし、何ならあの建物は「銃」を火薬にして吹き飛ぶ必要があった。村の人々に銃を持たせないという選択肢に成り行きであったとしても行き着いたとも言えるかもしれない。そこはまぁご愛嬌だ。
余談だが「銃」関連であればスコットがラーマに放った「銃1発」でスコットの凄さと、ビームを脅威として認めたことが分かるシーンは良かった。

 

知らない映画

最近ゴダール見てる影響で、全ての映画はハリウッド映画やヨーロッパ映画の引用であり、古典であるみたいな価値観に触れてたこともあるのだが、本作のとてつもないオリジナリティに圧倒された。ミュージカル的だし、二人の男のブロマンスも別に珍しくはないが、それを完全に新しいものにしてしまう勢いの独創的なカットと話法に完全に絆されてしまった。
ラーマが人が乗っかってきたシーンで人の中で殴るシーンとかもエポックすぎる。インド映画の中で培われたオリジナリティみたいなものに触れて、泣きそうになった。

 

以上の三つの要素によって本作は凄まじいエンタメ作品になっていたと思う。