劇場からの失踪

映画をこよなく愛するArch(Ludovika)による映画批評 Twitterもあるよ @Arch_Stanton23

MENU

『ニトラム/NITRAM』ある殺人者についての考察 劇場映画批評第56回

題名:『ニトラム/NITRAM』
製作国:オーストラリア

監督:ジャスティン・カーゼル監督

脚本:ショーン・グラント

音楽:ジェド・カーゼル

撮影:ジャーメイン・マックミッキング

美術:アリス・バビッジ
公開年:2021年

製作年:2022年

 

目次

 

あらすじ

1990年代半ばのオーストラリア、タスマニア島。観光しか主な産業のない閉鎖的なコミュニティで、母と父と暮らす青年。小さなころから周囲になじめず孤立し、同級生からは本名を逆さに読みした「NITRAM(ニトラム)」という蔑称で呼ばれ、バカにされてきた。何ひとつうまくいかず、思い通りにならない人生を送る彼は、サーフボードを買うために始めた芝刈りの訪問営業の仕事で、ヘレンという女性と出会い、恋に落ちる。しかし、ヘレンとの関係は悲劇的な結末を迎えてしまう。そのことをきっかけに、彼の孤独感や怒りは増大し、精神は大きく狂っていく。

引用元:

eiga.com

※以降ネタバレあり

 

今回紹介するのは、ジャスティン・カーゼル監督の最新作『ニトラム/NITRAM』である。オーストラリアの観光地ポートアーサー流刑地跡で起こった無差別乱射事件を、犯人の視点で"その日"に至るまでの過程を描くことで考察する内容となっている。監督曰く、この映画は「半銃器映画」であり、当時も今も銃規制が甘いオーストラリア、ないしアメリカなどの銃社会への警鐘となっている。

何故事件は起こったのか。その原因をどこに求めるべきなのかについて語っていく。

では早速語っていこう。

 

普通になろうとした

昼間の住宅街で花火の破裂音が鳴り響く。日本人にとっては夏の風物詩を思わせるその破裂音だが、日常的に絶えず鳴っているのであれば爆竹と変わらず、心を乱す騒音でしかない。この映画は主人公ニトラム/マーティン(ケイレブ・ランドリー・ジョーンズ)がそんな不快な破裂音を響かせるシーンから始まる。無差別乱射事件を題材にした映画だと知っている観客であれば、その破裂音が後に"銃声"へと変貌することは容易に想像でき、それは明らかな凶兆として映画に響く。

だが果たしてこの凶兆は、彼を無差別乱射事件を引き起こす犯罪者、つまり狂人として定義するものなのだろうか。あくまで事件までの過程を描き、暴力が行使される瞬間を映さない本作の構成を考えると、それは間違っている。では、と考えるとき、次に花火が登場するシーンに注目したい。場所は小学校と思わしき敷地に隣接する道路。ニトラムは置き花火の上で火の粉を浴びていて、小学生(?)が柵越しに見て、煽っている。その構図は動物園の「動物」と「観客」の関係のようで、ある種の残酷さを醸し出すが、ニトラムは意に介さない。むしろ、ニトラムは"孤独"じゃないことに安堵すら感じており、止めに入る父親に憤慨する。この場面において花火は、ニトラムのコミュニケーションの手段として用いられる。それは我々が幼い頃に誰かと遊ぶときに使ったサッカーボールに置き換えられるかもしれない。はたまた、カードゲームやゲーム機器に置き換えたのなら貴方も覚えがあるかもしれない。そう考えると、この花火を単にニトラムの社会不適合性の表象としてや、銃器を連想させる映画的なモチーフとして処理するのは間違っているのだろう。花火の音を響かせる行為はむしろ、ニトラムの唯一ともいえる社会との接続点を作る行為、または確認しようとする行為であり、声ではなく破裂音として響く"助けを求める叫び"なのだ。

爆発音と共に火の粉をまき散らす花火に対して、危険性や嫌悪を見出す普通の人々と、恍惚とした表情と共に戯れるニトラム。その決定的な隔たりがこの場面には表れており、そして同時にニトラムがその彼我の境を越え、「"普通"になろうと藻掻く姿」が何より脳裏に刻まれる。(言うまでもなくそれは不可能な出来事のように描かれる)

このように、本作は二トラムという人物を"狂人"ではなく、"普通のなろうとしてもなれなかった人"としてフォーカスを合わせる。この描き方は世界に拒絶されているような感覚を観客に追体験させることになるだろう。サーフィンなどしたこともない二トラムは、海に浮かぶウェット・スーツの集団をビーチから眺めることしか出来ず、彼と"普通"との埋まることのない隔たりがまたも可視化される。そんな彼がサーフボードで溺れそうになりながらも必死にもがき海を進む姿は、彼が"普通"になろうとする純粋な行為と、それが叶わない現実、そして別の回答(手段)を持ち合わせない不自由さを表現しているようで、残酷だ。他にも彼は彼なりの努力で、"普通"になろうとする。その行為は言い換えれば世界に認識されようとすること、自分の居場所を社会に希求することに他ならない。

 

では"普通"とはそんなにも憧れるに値するものなのだろうか。ここで言う"普通"はオーストラリアの男性の価値観を指すといっても過言ではない。パンフレットの監督の言によると、オーストラリアには未だ古びたマッチョイズムに基づいたトキシックな男性の価値観が根付いており、そんな男性的な価値観において、サーファーは何より"男らしい"理想の姿なのだそうだ。しかしその先に何もないことが問題でもあると監督は指摘するように、二トラムの追いかけた"普通"は、悪しき価値観に支配された旧時代的な考えで先はなく、追いかける価値はどこにもないのだ。(本作と同じオーストラリア出身の監督が『パワー・オブ・ザ・ドッグ』で似たテーマを扱っているのは興味深い)

 

 

欠陥を抱えた世界に生まれて

繰り返すが、本作は二トラムが銃乱射事件を起こすに至ったまでの過程を考察する内容になっている。だが、その上でニトラムの抱えていただろう精神疾患については、具体的に描写しない。その代わりに注力しているのは、二トラムという人間がそこに至るまでに、どのような人生を歩んだのか、つまりどういった環境で、どういった人と出会ったのかを事実に忠実に描くことだ。ヘレンとの出会いとその結果、大金を手にしたことや父親が買おうとしていた土地が横取りされたこと、そして免許もない彼が簡単に大量の銃器を手に入れられたこと、それらの非現実的にも思える出来事は全て二トラムに実際に起きたことだ。それらの事実に基づいた描写の中で、特に銃の購入シーンは、本作が描こうとする問題意識、つまり「二トラムは何故事件を起こしたか」の答えといっても過言ではない。これまでのオーストラリアの自然を背景にした雄大かつシリアスな雰囲気と比べて、単調でシンプルな屋内のシーン。一見どこにでもあるようなそのショップで、店員と相談や紹介を受けながら商品を購入する姿は、個人的にはスポーツ用品店でテニスラケットでも買っている姿と重なる。だが売っているのは「銃器」なのだ。ここで起こっている出来事が何より"狂気"という言葉に相応しく、その言葉は二トラムではなく、銃器を販売する側の免許制を無視した行動にこそ相応しいだろう。

この事と上述したオーストラリアの環境を踏まえると、果たしてこの事件が二トラム一個人だけに原因を認めることは正しいのだろうか。いや正しくないとはっきり断言できる。明らかにニトラムが起こした事件には、外的要因が存在する。彼の起こした事件は、彼の罪だ。擁護の余地はない。だが、それを未然に防ぐことが出来なかったのは、彼を取り巻く世界が欠陥を抱えていたからだ。前章で述べたような普通になれなかった孤独もある意味、彼を許容できない狭量な世界による外的要因といえるかもしれない。ともかく、この映画は、事件の原因を彼の精神疾患や思想に求めず、欠陥のある世界にこそ正すべき歪みがあるとするのだ。

本作には、忘れられない場面がいくつも存在する。彼が作中において「皆絶望的な気持ちで毎日過ごしているんだ」とつぶやくシーンは本作の中でも逸脱したシーンといえるだろう。この台詞は常にズレていた彼が経験に基づいた確信と共にいきなり核心を突いた台詞で、違和感と同時に深い共感を誘う言葉でもある。この言葉を思い出す度に、私は思ってしまう。あの映画において、世界の欠陥に唯一自覚的だったのは彼だったのではないかと。

 

ジャスティン・カーゼルの描く暴力

ジャスティン・カーゼルはこれまでにもオーストラリアで実際に起こった事件を映画化してきた。『スノータウン』では「スノータウン男女12人猟奇殺人事件」を、『トゥルー・ヒストリー・オブ・ザ・ケリーギャング』では、オーストラリアの伝説的な義賊を描いていたが、そのどちらにおいても注力して描かれていたのは、その犯行(暴力行為)の部分であった。対して本作は最後の事件を描写しなかった点で大きく異なっているといえるだろう。しかし、一貫して彼が描いているのは「人は何故暴力行為に至るのか」という過程の考察だ。彼の唯一の原作ものの『アサシンクリード』においても、暴力は遺伝する疾患であるという設定があり、同様に逃れられない人の性として暴力を描く。

彼の作品は暴力を描くが決して肯定しない。確かに暴力を弱者による自由意志を示す手段として描きはするが、そこに単純なカタルシスを認めないのだ。彼が暴力を描くのは、暴力をただの現象として眺めるのではなく、原因を究明し過程を考察することで、根絶するためにあるのではないだろうか。本作を「反銃器映画」と言い表していたように、映画を通して彼は暴力を否定する。私はそんな彼の姿勢を強く支持したいと思っている。

 

 

最後に

本作は今年一番の傷跡を私に残した。特に鏡に映る自分にキスするシーンは、彼が外部との繋がりを拒絶し、自分一人で完結してしまった瞬間で本作のハイライトだといえる。他にも非常に優れたカットの数々があり、それらの中にニトラムにとって幸福だといえる瞬間があったことが言うまでもない。だからこそ、この結末に行き着いてしまったことが悲しくて仕方がないのだ。

彼の起こした事件は彼の罪であり、そこで多くの人が犠牲になったことは忘れてはならない。しかし、新たな悲劇を回避するには、彼の内面を掘り下げることだけでは足りない。我々を取り囲む世界のシステムの欠陥にこそ、目を向けるべきなのだ。それは制度に限らず、彼のような"普通になれない人"へ手を差し伸べられない我々も含まれる。

多くの人に届いて、同じ傷を抱えて欲しい。そんな映画だ。