劇場からの失踪

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『The Son /息子』親もまた息子 劇場映画批評118回

The Son/息子

題名:『The Son /息子』
製作国:

監督:フロリアン・ゼレールフロリアン・ゼレール監督

脚本:フロリアン・ゼレール クリストファー・ハンプトン

音楽:ハンス・ジマー

撮影:ベン・スミサード

美術:サイモン・ボウルズ
公開年:2023年

製作年:2022年

 

 

目次

 

あらすじ

家族とともに充実した日々を過ごしていた弁護士ピーターは、前妻ケイトから、彼女のもとで暮らす17歳の息子ニコラスの様子がおかしいと相談される。ニコラスは心に闇を抱えて絶望の淵におり、ピーターのもとに引っ越したいと懇願する。息子を受け入れて一緒に暮らし始めるピーターだったが、親子の心の距離はなかなか埋まらず……。

引用元:

eiga.com

※以降ネタバレあり

 

 

本作は2021年の米国アカデミー賞を賑わせた『ファーザー』の監督、フローリアン・ゼレール監督の最新作である。元々監督本人が携わった戯曲に家族三部作(The father ,the son, the mother)があり、その二作品の映画化ということである。
三部作ということ、またフローリアン・ゼレールの作家性も相まって、『ファーザー』との相違点を考えていくことで、本作を解釈することが出来る


まず『ファーザー』が認知症の老父の主観で話が進むことで、認知症を追体験していくという一種のスリラーになっていたのに対し、本作は鬱病である息子ニコラス(ゼン・マグラス)を父親ピーター(ヒュー・ジャックマン)の視点を中心に描くことで理解不能のブラックボックス化して俯瞰的に描いている
何故そういった視点の違いが生まれるのかを考えた時、病気の特性や若者と老人という対象の差、そして結末へ向かう為の逆算などがあるだろう。それらが複合的に絡み合い、本作では父親の理想の受け皿であり、思春期の青年の心理、そして後半にしっかりと診断されることで明らかになる"鬱"という要素として、ニコラスという青年は物語上に組み上げられていく。

 

親と息子

「The Son」というタイトルには2つの意味がある。それはニコラスを指す言葉であるだけでなく、同じ"息子"であるピーターを指している。彼は父でありながらはも"息子"であるというのが、本作に大きな意味合いをもたらすのだ。ピーターの父親として前作に引き続いて出演のアンソニー・ホプキンスが登場する。彼の出番は非常に短い。しかしながら彼との数分の口論によって彼が如何にピーターを抑圧し、トラウマを植え付け、人生の楔のように存在しているのかが見事に描かれていて、ここは本作屈指の名シーンだろう。
彼の登場によって、親子一代の物語ではなく、連綿と紡がれ、繰り返される親と子の話になるのだ。ピーターの行動の背景には、常に「あんな父親にはならない」ということ。しかし彼の行動はどうしてか彼の忌み嫌うはずの父親のように、理想を押付け、高圧的なものになっていく。父の存在が如何に大きくあり、子に影響を及ぼすのか。意図せず似てしまう親子、理想の押し付けを継承してしまう息子、この連鎖が見えてくることが本作は一段階上の作品にしているのは間違いない。

対して息子には何が見えていたのだろうか?
ピーターの視点に対して明らかに情報の少ないニコラスだが、彼もまたピーター同様に理想を押し付けているように感じた。「親はこうであるベき」であるという理想、それを早くに両親の離婚を原因に打ち砕かれていながらも彼はピーターと母(ローラ・ダーン)の仲睦まじい光景に縋る。
何が彼を鬱病たらしてたのかは分からない。だが、彼の動揺させ、ショックを与えるだけの家庭環境があったのは間違いない。またここには親子の不対等であるが故に互いの「理想の押し付け合い」が不成立しているのも関連するだろう。親が一方的に理想を押し付けるからこそ、歪な形のまま型に嵌められていき、窒息する。その息苦しさが、怯える両親とは裏腹にニコラスを苦しめていたのだろう。

 

結末

本作の結末はまさに悲劇だ。チェーホフの銃に従順に従い、銃は銃としての役割を果たす。この悲劇は監督は逆算的に運命的に配置して描くことで、どこで回避出来たのかを観客に考えて欲しいと試写会で語っていた。ではどこで回避出来たのか
それは間違いなく、入院の是非のシーンだろう。ニコラスが鬱病と診断され、入院を勧められたが、ニコラスの拒絶を受けてピーターたち両親は退院を決定した。その末に悲劇は訪れるのだ。
この家族の問題を外部の医療機関に委託する罪悪感や功罪を描いた展開は『ファーザー』と一致しながらも逆位置にある展開といえるだろう。『ファーザー』では医療機関に託すことの罪悪感を感じながらも後にする娘の話であり、また医療機関のスタッフの虐待を匂わせた状態でそれが行われる功罪の罪の部分が描かれていた。本作では医療機関に託すことの罪悪感に負けて、連れ帰ってしまった両親の話であり、医療機関に預けていればたすかったかもしれないという功罪の功が描かれていた。
何が正しい判断なのかは分からない。外野には正しい判断に見えても当事者には分からない。特に今回はアンソニー・ホプキンス演じる父の影があることで、息子を閉じ込めない選択をするのは致し方のないことかもしれない。

そしてラストの親子の"再会"。フィクションであることの強みをもっとも活かした場面だが、この場面には『ファーザー』的な虚構表現だけでなく、部屋へのこだわりが感じられる。ラストの引越し後の部屋はこれまで描かれていた部屋とは玄関とバスルーム(及び子供部屋等)の配置が正反対になっている。それをどう考えるのかだが、自分としては劇作家であることを踏まえて、上手下手の反転によって開かれていたはずの未来が閉じてしまった、過去に向かっている状況の示唆になっているのだと感じた。
そう考えるとヒュージャックマンは『レミニセンス』に引き続き、過去に生きる男になってしまったのかもしれない。