劇場からの失踪

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『アフターヤン』「喪失」を引き伸ばしていった先で 劇場映画批評89回



題名:『アフター・ヤン』
製作国:アメリカ

監督:コゴナダ監督

脚本:コゴナダ

音楽:アスカ・マツミヤ

撮影:ベンジャミン・ローブ

美術:アレクサンドラ・シャラー
公開年:2022年

製作年:2022年

 

目次

 

あらすじ

人型ロボットが一般家庭にまで普及した近未来。茶葉の販売店を営むジェイクと妻カイラ、幼い養女ミカは慎ましくも幸せな毎日を過ごしていたが、ロボットのヤンが故障で動かなくなり、ヤンを兄のように慕っていたミカは落ち込んでしまう。ジェイクは修理の方法を模索する中で、ヤンの体内に毎日数秒間の動画を撮影できる装置が組み込まれていることに気付く。そこには家族に向けられたヤンの温かいまなざしと、ヤンが巡り合った謎の若い女性の姿が記録されていた。

引用元:

eiga.com

 

※以降ネタバレあり

 

小津からすくい上げたもの

『コロンバス』のココナダ監督による静寂と喪失の話。大傑作だった。
舞台はクローンやアンドロイドである"テクノ"などが人間のように生活する近未来。白人の夫と黒人の妻、アジア系の養子の娘、そしてテクノのアジア系の兄の4人家族で、ある日テクノである兄のヤンが起動停止したことで物語は始まる。

まず言及したいのは、前作から引き継がれるゆとりのある空間設計と、建築と感情を紐づけるようなナチュラルな音楽だ。常に開けた日本家屋のような空間を構築し登場人物をカメラに収めることで、彼らの中に流れる穏やかな時間や人間関係が表現されている。それを誇張もせず、かといって無意識下に隠れはしないピアノの旋律が、まるでその空間に満ちた空気のように存在する。この穏やかで静寂な表現は、まさにコゴナダ監督が小津からすくい上げ、昇華させた映像表現そのものだ。

 

人の善性

加えて私が驚いたのは、人の善性を描こうとする姿勢。チープに言ってしまえばこんなに優しい映画は滅多にないのではないだろうか?
登場人物全てが他者のとの関係性に健全であろうとし善人である、と言ってしまうと多少グロテスクなディストピアを連想させるかもしれない。だがそうはなっていないのが凄い。ココナダ監督は、本気でその一周まわって非現実的な他者との関係性を信じているのだ。それが人種がバラバラな家族や、タブレットやデバイスを通り越して、遠くの誰かと通じ合うことの出来るコミュニケーションの形に表れるといえる。また直接的な場面としても、隣人との会話や気軽に訪問できる距離感にも希望を滲ませている。
現実の物語とするには、逆に毒気がありすぎる、だからこそ希望的観測でフィルタリングするために時代設定を未来にしたのかもしれない。

 

「喪失」を引き伸ばしていく

そんな静寂な映像と善性への視座で語られるのは、ある喪失の物語だ。それも非人間であるテクノという存在の「死」と知られざる「人生」の話。
簡単に言えば、家庭用ロボットにも「人生」があったことに気づくという話な訳だが、そこには普通の人では出来ない、限りなく引き伸ばされ受容を以て完結する「喪失」がカギになっていると思うのだ。

テクノの全く以て死んでいるとは思えない綺麗なボディの持つ不変性や修理の可能性や穏やかな最期。それらが「喪失」を引き伸ばしていく。それが事切れて受容することが物語の結末なのだから、最後まで引き伸ばされるのだ。
この言ってしまえば、短を長に、小を大にするように引き伸ばし、ある意味は拡大する行為は、作中の茶葉の舞うお茶の世界の話や、ヤンの記憶が、光の信号のようである一方で宇宙に広がる無数の銀河のようにも見える様からも一つのモチーフとして存在しているのがわかる。
ミクロの中にマクロの世界がある、そういう物の見え方の話が、本作のモチーフとして一貫して存在し、それがヤンの知られざる別側面を見る行為と共通する。
画角の変化もそこに重なり、何を見ているのかを強く意識させる。


人の人生を覗き見る行為はもっと背徳感があってもいいと思うのだが、そこを感じさせないのは、そもそも「人の人生を覗くことが映画だ」ということを前提に、その良面を信じているココナダ監督の絶対的な信念故ではないだろうか。

今年のベストダンス映画であるし、終わらせかたも最高。今年のBEST10には入る。