劇場からの失踪

映画をこよなく愛するArch(Ludovika)による映画批評 Twitterもあるよ @Arch_Stanton23

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日常が崩れる音は銃声と似ている『エレファント』

1999年4月20日米国コロラド州、ジェニファーソン郡立コロンバイン高校に悲劇が起こる。高校に絶望した二人の生徒は12人の生徒と1名の教師を射殺したのだ。きっかけはスクールカーストが生んだ悪質ないじめ。そんなアメリカ銃社会の闇と高校という地獄を炙り出したような事件を題材にしたのがガス・ヴァン・サント監督作の

『エレファント』だ。

 

本作は実話に基づいているが、本作は事件の本質とは違うところにある。

わずか80分弱の映画の尺、余白をつなぎ合わせたような時間が、貴方に他の作品よりも長い思考の時間を与える。

この映画は問いかけだ。貴方はどんな答えを導き出す?

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目次

 あらすじ

舞台はコロラド州、コロンバイン高校で何気ない日常が始まる。

ジョン、アレックス、エリック、イーライ、ミシェル、ネイサン…多くの若者達の日常がここにはあった。

だが、そんな一日は二人の生徒の銃乱射によって壊れるのだった。

本作は2003年米国で公開されたガス・ヴァン・サント監督によって製作された「コロンバイン高校銃撃乱射事件」を題材にした作品である。

作中の台詞のほとんどがアドリブで、本作には台詞による映画的なストーリ展開は存在しない。

そんな特殊な雰囲気を醸し出す本作は大きく分けて二つの場面で考えられる。なので分けて考え、最後にこの映画の本質的な所について語っていきたい。

 

 

日常の余白を切り取る前半

大きく分けられるといったが、その基準は"被害者"と"加害者"の視点であると言ってもいい。場面で言えば、空を画面いっぱいに映したカットで区切られているのだ。そのカットは映画の冒頭、中盤の暗雲立ち込める空、最後の全てが終わった後に全部で3ヵ所存在する。その中盤の暗雲のシーンで二つに分けることが出来るのだ。

 

前半に描かれているのは高校生たちの日常だ。ガス・ヴァン・サント監督は『マイ・プライベート・アイダホ』や『グッド・ウィル・ハンティング』等でこれまでも若者についての映画を撮ってきているが、しかし、本作の"若者"の捉え方は全く異なるものだった。

 

本作では若者たちの日常を少し変わった風にとらえている。まずはその画面比だ。いわゆるスクエアサイズに近い画面比で全編撮られており、それは登場人物をTPS視点で捉えるシーンが多くある本作にはぴったりであるのだ。

 

ガス・ヴァン・サント監督に多大なる影響を受けているグザヴィエ・ドラン監督が『Mommy』(2014)で同じスクエアサイズを利用していた。その時のインタビューでスクエアサイズは登場人物たちの生への没入を強めるのにぴったりであると言っており、まさにその通りなのだ。

 

 

 

次に若者の日常をどう描いているのか。監督が焦点を当てたのは、彼らの日常の繋ぎ目である。自分的には"余白"という表現がしっくりくる。

数年前の記憶を思い出す時、印象的な場面は思い出せるが、場面と場面の隙間の記憶は思い出せないという経験は誰にもあるもののはずだ。貴方の記憶の隙間を埋めるような物語、日常の中の余白を描いているのだ。

 

 例えば、本作では廊下を歩いてるシーンが多くある。学校の思い出として教室間の移動程に記憶に残らないものはないだろう。他にも映画的にも、生活においても、意味のない会話や体育の着替えの時間、特にまだ完成していない「エリーゼのために」を軽く練習する風景なんかがまさにそうである。

 そんなどうでもいい生活感ある若者たちの日常はストーリーの進行に全く関係ない。映画というものは台詞に意味を持たせることで展開を生み出すものであるが、本作の台詞はそういった意味合いはなく、彼らの日常を描写する以上の役割は無い

 

これは監督の意図的なものでこの"余白"の時間をもって、観客に"考える時間"を与えているのだ。日本では事件を知らない人もいるかもしれないが、米国の人は特に本作を観る上で事件に基づいた作品であるということは知っているはずだ。

ならば、このシーンの中で誰がその事件を起こすのか、何が引き金となるのか。つまり、この日常がどうして壊れてしまうのかを考える時間となっているのだ。

 本作は明確な事件への解答を描かないことで、観客に事件について考えさせるように作られている。これがガス・ヴァン・サント監督が本作に込めた思いなのだ。

 

日常が壊れていく後半

 

若者達の日常を描いた後、中盤の空を大きく映すカットを挟んで、物語は不穏な雰囲気になっていく。暗雲が広がっていく空が不吉な展開を予期させるように、ナチスの映像、銃の試射などの不吉な展開が続く。銃声やエリックとアレックスの襲撃計画が更に加速させ、遂に事件は起こってしまう。その流れは前半の裏で起きていた出来事でその物語の交錯と転換はあまりにシームレスである。

 

二人は前半で丁寧に日常を描かれていた登場人物たちを殺して回る。逃げる生徒や受け入れられずに呆然としたまま殺される生徒等を描写し、先ほどまで日常の象徴だった廊下は死屍累々の非日常になってしまう。前半の名前のテロップは慰霊碑に刻まれた名前であったかのようになってしまうのだった。そして明確な結末はなく、幕を閉じるのだ。最後に流れるのはエリックの弾いていたベートヴェンの「エリーゼのために」。静寂に響くその旋律はエリックの心象風景だったのかもしれないし、鎮魂歌とも言えるのかもしれない。

 

彼らの凶行の動機は"いじめ"だ。学校という日常の空間にあった、スクールカーストからくるその忌まわしき行為はどうしようもなく、彼らの日常でもあったのだ。だからこの後半は非日常的な物語に見えるが、二人にとっては日常に根差した話なのだ。

 

 

この映画の本質

前半、後半を通して貫かれている本質な部分、それは「多くの部分を観客に委ねていると」ということだ。

本作には上述したように事件への解答はない。あくまで本作は問いかけである。また、群像劇的構成と明確なバックボーンを描かないことで感情移入先を誘導するように作られず、感情の強要が存在しない。だから観客は自由に感情移入して、その事件を体験するのだ。

それは被害者だけでなく、加害者たちにも言えることだ。実際の事件では、襲撃犯であるエリックとアレックスは自殺しており、世間ではサイコパスであったと判断されている。実際、彼らの精神状態が正常であったのかは分からない。だが、本作では明確に彼らをサイコパスとして描くことはしていない

だからこそ、この事件は何故起こってしまったのか、誰が悪かったのか。を観客は考えなければならないのだ

 

ここまで徹底して観客に委ねる作品は珍しい。そのため、本作を楽しむには観客は物語に対して意識的に考える必要があるように思う。実際、自分も最初は退屈な映画だと感じた。しかし、次第に本作は能動的な思考が必要なのだと感じ、そこからラストへの畳みかけに嗚咽が漏れたのだ。

 

最後に、本作への敬意として自分なりの解釈を提示したい。

 

自分の解釈

「コロンバイン高校銃撃乱射事件」を題材にするうえで、エリックとアレックスを完全な悪者として描くことは出来たはずだ。だが、ガス・ヴァン・サント監督はそうしなかった。何故なら、この事件の本質が銃社会の闇とスクールカーストという地獄にあるからだ。彼らだけの特別な出来事ではなく、身近で起こってしまうかもしれない事件である認識させることが、監督がこの映画に込めたメッセージであると思う。

だから、誰に感情移入したかと言えば、そんな銃社会の闇とスクールカーストという地獄で狂ってしまった彼らだと言えるのかもしれない。

 

貴方は『エレファント』に何を感じ、どんな答えを導きだしましたか?