劇場からの失踪

映画をこよなく愛するArch(Ludovika)による映画批評 Twitterもあるよ @Arch_Stanton23

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『エンパイア・オブ・ライト』観客を照らす光こそが映画なのだ 劇場映画批評115回

題名:『エンパイア・オブ・ライト』
製作国:イギリス・アメリカ合作

監督:サム・メンデス監督

脚本:サム・メンデス

音楽:トレント・レズナー アティカス・ロス

撮影:ロジャー・ディーキンス

美術:マーク・ティルデスリー
公開年:2023年

製作年:2022年

 

 

目次

 

あらすじ

厳しい不況と社会不安に揺れる1980年代初頭のイギリス。海辺の町マーゲイトで地元の人々に愛されている映画館・エンパイア劇場で働くヒラリーは、つらい過去のせいで心に闇を抱えていた。そんな彼女の前に、夢を諦めて映画館で働くことを決めた青年スティーヴンが現れる。過酷な現実に道を阻まれてきた彼らは、職場の仲間たちの優しさに守られながら、少しずつ心を通わせていく。前向きに生きるスティーヴンとの交流を通して、生きる希望を見いだしていくヒラリーだったが……。

引用元:

eiga.com

※以降ネタバレあり

 

"ただの映画"

映画についての映画というものは、探せば無数に存在する。まず思いつくのは、『ニューシネマパラダイス』のような映画史及び映画館と"僕"の話だろう。今度の『フェイブルマンズ』もここに分類されるはず。

他にも映画を撮る映画というジャンルと存在し、それが『カメラを止めるな!』のような話になったり、もっと監督の内面に向き合う『8 1/2』のような作品もある。

またそれらと完全に区別することは難しいが、メタ的な構造を利用することで、鑑賞者と映画の関係(観る/観られる)を劇中に描くことで"映画の持つ力"を描いた作品も"映画についての映画"と表現してもいいだろう。

そういった無数にある"映画についての映画"の中でも本作は、どの作品よりも映画は"光"だと語る。いや"光"という物理現象でしかないと突きつけるのだ
映画はただの娯楽でしかなく、日常の余暇でしかない。なんなら極めて商業的なものでしかないとまで言ってくるようだ。


これまでにあった"映画についての映画"は、言ってしまえば「映画の力を信じる人」によって撮られた作品である。映画とは人生だと、映画とは魔法だと、映画は人や現実を変えうると、実感を以て言い張れるもの達の映画だ。
だが、本作は日常にあるただの"映画"として描く。だから本作は廃れゆく劇場の栄枯の話にはならないし、主人公が映画業界を目指すという話にもならない。
1981年のイギリス、人々にとって必須という訳でもなく、不必要とされている訳でもないという塩梅で存在する映画。目の前に失業問題や悪化する人種対立の問題にはただ無力で、スタッフを守ることすらできない劇場
そんな"ただの映画"を描くのだ。

 

鑑賞者を照らす光

本作を観ると分かるのは、これはオリヴィア・コールマン演じるヒラリーとマイケル・ワード演じるスティーヴの物語であるということ。おばさんと括るられるだろう年齢の彼女と黒人男性の年の差のある関係は当時でも現在でも、訝しむものがいるだろうが、本作はそのことを踏まえながらも、当然の恋として描く。
そこに添えられるように、二人を緩く結ぶものとして映画を置くのだ。
劇場を舞台にしながら、ただ日常にあるだけの"映画"を描くという試みに、過剰で大袈裟な"映画愛"を振るう映画にはない愛情表現を見た気がした


その愛情表現のMAXが、鑑賞者の"表情"に集約されるのが素晴らしい。映画の上映されている劇場とは本来全てが暗闇に包まれており、スクリーンに投射される"光"のみが光源として存在する空間だ。その空間で、鑑賞者の表情は"映画の光"の反射のみで可視化される。
オリヴィア・コールマンの朗らかで満ち足りたような表情は、"映画の光"によって可視化され、それが我々の前に"映画の光"として投射される。そこに"光"としての映画が出来ること、存在意義が集約されるのだ。
(『バビロン』もそこで辞めておけばいいのに…)

"映画"ではなく"映画と共に生きた人々の営み"を描く。そのために建物の明かりや花火といった営みを表す"光"と映画を構成する"光"を並置、そのためのロジャー・ディーキンスの起用。そこに本作の素晴らしさがあった。

 

不満点

ここから先は余談、不満点について語る。なので、読みたくない人は読まなくていいと思う。

不満点として職場でSEXしまくる連中を観ているのは何を見せられているのかとなっていた。2人の関係が様々な理由で秘密にしなければならない(したい)理由は分かるが、ならば尚更職場でするのは意味がわからない。また関連してあの「かつて映画館だった場所」である立ち入り禁止の空間はヤリ場以外の使い方で描いて欲しかった。


オリヴィア・コールマンの精神不安定演技も類型的でつまらないと感じてしまった。ああいう舞台演技っぽい展開と彼女の演技はまぁサム・メンデス×オリヴィア・コールマンなら楽しむべきなのだろうが、なんだがなぁと。オリヴィア・コールマンはああいう大袈裟な演技をさせられることが多い気がするのだが、もっと穏やかな演技の方がその良さが際立つと思っている。
また話の筋として、最初と最後が一貫していないという感じは否めない。もしあの「大学に行く」というものを終わりにするのなら、はたまた彼女が映画を観ることをクライマックスにするのなら、早期の段階でそれを予感させるべきだったと思う。全体にある描写はされどドラマは生まれてこないような感覚は終盤に向けての積み重ねが全くなってないことにある気がしていて、それは"ただの映画"を描いたこととはまた別問題として存在している気がする。