劇場からの失踪

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『ハウス・オブ・グッチ』しょうもない愚痴しか思いつけない、GUCCIだけに。劇場映画批評第34回

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題名:『ハウス・オブ・グッチ』
製作国:アメリカ
監督: リドリー・スコット監督
公開年:2022年

 

目次

 

あらすじ

貧しい家庭出身だが野心的なパトリツィア・レッジャーニ(レディー・ガガ)は、
イタリアで最も裕福で格式高いグッチ家の後継者の一人であるマウリツィオ・グッチ
(アダム・ドライバー)をその知性と美貌で魅了し、やがて結婚する。
しかし、次第に彼女は一族の権力争いまで操り、
強大なファッションブランドを支配しようとする。
順風満帆だったふたりの結婚生活に陰りが見え始めた時、
パトリツィアは破滅的な結果を招く危険な道を歩み始める…。

引用元:

eiga.com

 

前回の劇場映画批評33回では、2021年ワースト映画『プリズナーズインゴーストランド』の園子温監督の『エッシャー通りの赤いポスト』について批評した。結果は2021ベスト映画になりえたかもしれないぐらいには大傑作で、正直びっくりした。で今回は、逆に、2021ベスト映画であった『最後の決闘裁判』のリドリー・スコット監督の最新作、『ハウス・オブ・グッチ』について語っていきたい。一応断っておくが、別にワースト映画というわけではない、ただ『最後の決闘裁判』に比べるとやはり…という点はある。

 

※ネタバレあり

華やかなキャスト

本作は、1995年3月27日に実際に起きたマウリツィオ・グッチ殺人事件にまつわる、グッチ家滅亡の物語を描いている。実在の金持ち一家が権力とセックスで崩壊していく様を映画化しているという点で、かなり面白いし攻めた企画だといえる。リドリー・スコットは過去に似たような実在のお家騒動を描いた『ケディー家の身代金』を撮っていて、SF作家のイメージが強い御大の新境地といった印象を受けるが、この企画は20年も前にプロジューサーでもある妻ジャニーナが20年前に原作を読んだことから端を欲しており、その印象とは裏腹に、長年温められた企画であったわけだ。

 

また他にもこの映画で触れざるを得ないのは、キャストについてだろう。誰をとっても豪華なキャスト陣だが、何よりも目を引くのは、全ての元凶たるパトリツィア・レッジャーニ演じるレディー・ガガだろう。『アリー/スター誕生』でゲイリー・クーパーの監督としての手腕と共に注目を集めたレディー・ガガは、どこか自伝めいて真に迫った演技と圧倒的な歌唱力を以って、初主演ということを忘れさせ、"演者"として名を轟かせた。そんな彼女の主演映画二作目が本作。前回とは違い、自分を重ねられる歌手を演じるわけではないため、真に実力が試されそうなものだが、そんなことを一切気にさせない演技を見せていた。特に彼女のキレ演技は絶品。確固たる才能を本作で示していたといえる。

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そんな彼女の相手役であり、最後には殺されることとなる"グッチ"終焉の象徴、マウリツィオ・グッチを演じるのはアダム・ドライバー。『最後の決闘裁判』に続いての出演である。自分は、正直レディー・ガガ以上に彼のバケモノっぷりにひれ伏していた。バケモノとは決して大げさな演技を指しているわけではない。最終的には"グッチ"のトップとして殺されてしまう男が如何に弁護士志望の童貞青年から30年かけて変貌を遂げたのかを、何一つ違和感なく演じてしまう彼の才能に畏怖を覚えたからこその表現である。

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他にも注目したいのはジャレッド・レトだ。彼が演じるのはパオロ・グッチ、マウリツィオの従兄である。その変貌具合はいくらジャレッド・レトだと言われても分からない程のもので、画面から一切"ジャレッド・レト"の感じさせない狂気的な演技は驚嘆する他なかった。

こんな凄まじいキャスト陣が全力で食いつぶしあっていく、そこがこの映画の最大の魅力といえる。

 

 

帝国の崩壊の必然

この映画は、グッチ家によるパワーゲームであること以上に、パトリツィアとマウリツィオ・グッチの手綱の争奪戦だと表現できる。ただ面白いのは、彼女と彼はどちらも変われなかったからこそ破滅を迎えるということである。

パトリツィア・レッジャーは「グッチ夫人と呼びなさい」に全て集約されるように、最後までマウリツィオにとっての"妻"であろうとする。彼女の生き様は、その背景の"グッチ"に対する強い憧れから、妻であることから"変わろう"しない。この妻であることにアイデンティティを見出そうとする女性像は『最後の決闘裁判』のマルグリットの正反対に位置し、他者や立場にアイデンティティに依存することの虚しさこそが、彼女の破滅の原因だと言える。

 

対してマウリツィオ・グッチは変われなかった男、厳密に言えば、遂に運命から逃れられなかった男である。彼は当初、グッチ家を引き継ぐのではなく、弁護士となろうとしていた。父親から後継者として扱われた彼は、家を出て最愛のパトリツィアと結婚を迎えるが、彼は結局、グッチ家の後継者として家に戻ってしまう。そこにはパトリツィアの思惑もあったが、それ以上にグッチ家に生まれたが故の呪縛があった。

彼女は変わらず、彼は変われなかった。その適応できなかった彼彼女の姿にこそ古き悪しき帝国の崩壊の必然性を感じずにはいられなかった。

 

話をもう少し俯瞰的な視点に移してみよう。この映画はリドリー・スコット御大によって非常に巧みな取捨選択と演出を行っているように思えた。特にパトリツィアが何故"グッチ"に固執するのかやアルドとの出会い、他にも贅肉になりそうなシーンを許から弾いてしまうのは脚本もそうだが、映像で物語ってしまう監督の手腕あってこそに思う。他にも『オッデセイ』とも通ずるニードル・ドロップも素晴らしく、そういった最新のリドリー・スコット節は大いに楽しめた。

 

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しかし、自分が今一乗り切れなかった部分もまた、そこにあるように思えたのだ。あまり具体性の無さに言葉にするのも恥ずかしいが、用意周到に進むが故の寂しさのようなものがあり、それは多分、結末ありきに進む物語の安心感と表現も出来るはず。ゴージャスさや安定した演技のキャストはどれも心地よいが、同時にイレギュラーが起こらないつまらなさに通じている。

これは『エッシャー通りの赤いポスト』で知らない役者たちの予想もつかない躍動を観てしまった後だからかもしれない。

約束された結末、約束されたクオリティ、そこに乗れなかった自分がいた。

 

最後に

キャストも良い、話も面白い、最高!だけど最後のシーンで映画から心離れている自分を感じた。どうして途中で降りてしまったのか、それを具体的に表現できないのが悔しいというのが正直なところ。

こんなしょうもない愚痴しか思いつけない、GUCCIだけに。