今回紹介するのは『グッドウィルハンティング』などで知られるガス・ヴァン・サント監督の『マイ・プライベート・アイダホ』(米1991年)です。
若き日のキアヌ・リーヴスと今は亡きリヴァー・フェニックスのW主演で、体で金を稼ぐ青年たちの青春を描いた作品で、あのグザヴィエ・ドラン監督にも大きな影響を与えた作品でもあります。本作の魅力について考察していきたいと思います。(ネタバレ注意)
あらすじ
ポートランドで日々、体を売って暮らすマイクとスコット。マイクは発作性睡眠(ナルコレプシー)を患い、ストレスを感じると道の真ん中であろうと寝てしまう。孤児として育ったマイクと市長の息子であるスコット。マイクはスコットに特別な感情を抱きながらも自分を捨てた母親を捜しにバイクに跨り、旅に出る。
必然だった別れの物語
本作は二人の青年、マイク・ウォーターズ(リヴァー・フェニックス)とスコット・ファイヴァー(キアヌ・リーブス)が青春のほろ苦い別れを経験する決別の物語です。男娼や発作性睡眠などのショッキングな設定を持ちながらも、誰しもが経験する普遍的な「別れ」がテーマとなっています。
本作では二人の別れを必然的なものとして描いています。その必然性は彼らの相容れない二人の立場、その間にある大きな溝から来るものであります。
例えば、彼らの生き方の違いは大きな溝の一つでしょう。男娼として生きる二人ですが、その職業との向き合い方という点でまず異なります。
マイクにとっては「生きるために金を稼ぐ手段であり、性的趣向と合致している職」で、それに対してスコットにとっては「遊びの延長線上であり、性的趣向とは違う職」であるのです。同じ時を過ごしながらも、マイクにとってはポートランドでの生活は永遠に続くもので、スコットにとっては父が死んで財産を相続するまでの期限付きの生活でした。
そういった価値観の違いはポートランドの旧市街地で遊んでいただけなら気にすることではなかったのかもしれません。しかし、二人はその旅を通して、決定的な考え方の違いに直面してしまいます。ローマでの別れは突然の出来事ではなく、いつか来る別れが訪れただけのことであり、それは必然であったとしか言えないのです。
人生のメタファーとしての道
本作ではアスファルトの道路は”不可逆な時間の中にある人生”のメタファーとして機能しています。冒頭、マイクは言います。
「この道はここだけ、世界中探してもどこにもない、人の顔と同じ。」
同じように見える景色であっても同じ場所はない。何故なら、主観が常に流動的な存在であるからその感じ方によって景色は変わるはず、だから「この道はここだけ」になるのです。それは人生を時間という観点で見るとき、人生に同じ場所がないという考え方と一致していると言えます。
"不可逆な時間の中にある人生"は同時に彼らの取り戻せない青春を連想させ、二人がポートランドをバイクで出発して、アイダホに向かって道路を往くまでの姿を象徴的なものにしています。
マイクは発作性睡眠を患っているため、眠りについたときに誰かに運ばれています。それはマイクが"過去に依存してなければ生きてけない存在"であることを強調するように機能しているのです。その依存先はスコットとの青春だけでなく、自分を捨てた母という過去であったりでもあります。
それに対し、スコットは"過去に依存せずに生きていける存在"として描かれています。スコットは男娼としても過去をマイクと共に切り捨てることが出来る人間で過去に依存せず、未来に向かって生きられるのがスコットなのです。
これは先程の二人に空いている大きな溝でもあり、このハイウェイを行く二人の姿は彼らの人生の縮図であるといえるのです。そう捉えると、ポートランドに居た時間は人生における停滞の時間で、アイダホに向かうことで人生の止められない時間の針が進んでしまったように思います。
道路が画面に映されるのは冒頭と最後にも印象的に使われています。注目すべきは道路が分ける草原です。最後のマイクが拾われていくシーンでは道路を挟んで、草原の色が違います。それは前半の道路を分けての草原が同じ色であったのと比べると、彼らのポートランドで交わっていた人生が最後には完全に分断されたことを暗示しているのです。
何よりも悲しいのはマイクの行末でしょう。依存しなきゃ生きていけない彼の未来はどうなってしまうのか。その問いに対して本作のラストの見ず知らずの人に拾われていくというシーンはあまりに希望のないものになっています。マイクにとってスコットとの別れが新たな人生の始まりという希望的な面ではなく、悲劇的な面を見せて終わるのは本作が分かれを始まりではなく、一つの時代の終わりとして描こうとしていることの証明だと思います。
芸術性の高い作品
今作はそのストーリーの持つ普遍的な悲しいテーマに魅力があるだけではなく、その映像表現の面白さも魅力の一つであります。例えばセックスシーン等がそうです。セックスシーンを止め絵の連続で表現していて、どこか絵画的な神聖さを帯びているように思います。また、詩的な言葉選びをする本作にとてもマッチしていて、本作の芸術性を高める結果になっています。
最後に
今作を通して二人は親友となったそうで、この映画には演技以上の見えない二人の絆があったからこそ、最後の別れがより真に迫ったものとなっているのだと思います。
『マイ・プライベート・アイダホ』、それは不可逆な青春の中で二人が共に生き、必然的な別れにたどり着くまでを芸術的に描いた作品です。