劇場からの失踪

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『みんな、おしゃべり!』 劇場映画批評138回 意思疎通に必要なのは道具ではなく、姿勢

@2025映画『みんな、おしゃべり!』製作委員会

題名:『みんな、おしゃべり!』
製作国:日本

監督:河合 健 監督

脚本:河合健   ⼄⿊恭平  竹浪春花


公開年:2025年

 

 

目次

 

あらすじ

日本手話とクルド語を題材に、ろう者の日本人家族とクルド人一家が繰り広げる誇り高き小競り合いの行方を描いたコメディ。

古賀夏海は電器店を営むろう者の父と弟と暮らしているが、ある日、一家は同じ町に暮らすクルド人家族と些細なすれ違いから対立してしまう。両者の通訳として駆り出されたのは聴者である夏海と、クルド人一家の中で唯一日本語を話せるヒワだった。お互いの家族の通訳をするなかで、夏海とヒワの間には次第に信頼関係が生まれるが、両家の対立は深まるばかり。そんなある日、夏海の弟・駿が描いた謎の文字が、町を巻き込む事態へと発展してしまう。

引用元:

eiga.com

※以降ネタバレあり

 

 

今年観た邦画だと一番素晴らしい映画だった。

〇体幹のある映画

「共通言語を持たない意思疎通の困難な他者と、どう付き合っていくか」というテーマを徹底的に深堀している脚本にまず脱帽。「クルド人vsろう者」という宣伝上のキャッチーな建付けに終始することなく、別言語の話者や子供/老人とあらゆる要素が「意思疎通の難しさ」というテーマの奥行を表現する為に持ち込まれていて、テーマに正面から向き合っていることが伝わってくる。
要素がこれだけあると、大抵整理されてない印象を与えてしまったりする。実際、幾つもの要素は渋滞気味で散乱しており、場面によって「分かりにくい」と感じることもある。
だが、要素入り乱れるカオスな状況が作り出す"分かりにくさ"や"意味不明さ"は、実は最終的に提案される「一つのスタンス」を表現するには欠かせない面白みに繋がっていて、"分からなくてもいい"を計算に入れた脚本に、非常に体幹のある映画だと感じた。

 

〇対立に挟まれる若者世代

まず素晴らしいと感じたのは、描かれる人々が属性への偏見なく、個性的に描かれている所だ。
例えば、ろう者側の中心的な人物である古賀和彦。ろう者をはじめとして障害を抱える人々は、どこか「気が弱い」ように描かれがちな中で、彼の気の強さや癇癪持ちに近い振る舞いの数々は、属性への偏見とは遠いところにあるキャラクターになっていた。また対立項として登場するクルド人や聴者に対して、ろう者側グループが差別的な偏見を表していたりするのも興味深い。自分たちを聴覚障害者ではなく、(手話を第一言語とする)"ろう者"であるとアイデンティティを表明する一方で、「クルド人かトルコ人か」という相手のアイデンティティには関心を示さない。
ときにマイノリティーも差別する側になってしまうというインターセクショナリティーの考え方がはっきりと描写されていた。

町おこしの件で沖田がマイノリティーをジャンル分け、一括りにして連帯の仕組み作りするのも、このインターセクショナリティー的な思考がなく、マジョリティーに都合のいい形で連帯に与させようとするから問題なのである。
自分も典型的なマジョリティであるシスヘテロ健常者なので、分かった気になるのは危険だが、一味違う本作は自分を啓蒙するのには十分すぎるディテールを持っていた。


また凄く観点として興味深いと思ったのは、クルド人vsろう者という構図の中で、CODAと二世の若者世代にフォーカスしている点だろう。
どちらも若い頃から日本の健聴者との橋渡し役を担ってきたのが分かる。それでいて苦労を共有しつつも、スタンスが異なっていたりするのだ。夏海は問題を大きくしないように、ニュアンスを変えて通訳をするが、ヒワは自分の意思を挟むことなく、そのまま通訳したりする。そこに見える考え方の違いは言語文化に対する考え方や性格の差が要因だろう。
そんな異なるスタンスの彼らが、「タンタン、タタンッ」という机を指で叩くリズム一つで繋がっていき、「ろう者」とも「クルド人」とも違う仲間意識に目覚めていくのだ。

単純に同世代的意識、親世代への反感からの連帯とも違うのではないだろう。「タンタン、タタンッ」という、言語と表現するには乏しい〈発信〉を、たまたま〈受信〉する人がいて、そしてベストな形で〈応える〉という構図。
とてもシンプルだけど、リズムが共通言語として意思疎通を可能にすると示したこのシーンは「共通言語」を持つことの難しさを痛感する前半に対して、共通言語を狭義の意味から解き放ち、意思疎通の可能性を押し広げられるのではないかという予感をもたらすのである。

二人の連帯が、家出展開に繋がっていくのも痛快でいいし、帰ってきたら親世代間で問題が解決していたという展開もユーモラスさだ。そればかりか若者世代が背負う重荷から、すんなり解放されたような感動すらあり、この映画の佇まいにより一層見惚れてしまった。


上記に加え、"理解不可能な他者"代表のような子供が登場してオリジナル言語で会話を始めたり、意思疎通の難しい老人が出てきたりする。色々なバックボーンで、様々な関係図にいる人々が、整理し難い形でいっぱい登場してくるので冒頭に書いたように、なかなかカオスだ。
しかし彼ら一人一人の解像度が上がったり、そもそも「よく分からない」他者の人数が増えることが、エンタメになっている。
それが本作の凄いところなのだ。

 

 

〇意思疎通に必要なのは道具ではなく、姿勢

言語は重要なコミュニケーションの道具である。この日本において日本語は便利な道具で、それさえあればその辺の道端で出会う100人のうち、99人ぐらいはコミュニケーションができるはずだ(多分)。
しかしそれは裏返しとして、日本語を第一言語としない人々にとっては100人に1人ぐらいしかコミュニケーションできないということだ。それがクルド人となれば、言語が同化政策で迫害されてきた歴史を踏まえずとも、その難しさを容易に想像出来るし、意思疎通の相手が日本のろう者となれば尚更、意思疎通など不可能に思える。
クルド人vsろう者という構造は(ここまで丁寧に説明せずとも分かるが)そういった意思疎通が不可能な状況として、これ以上ない建付けなのだ、
だが本作はその言語的な分断が、この両陣営のディスコミュニケーションの原因とは描かないのである。最初こそ、通訳のできる夏海とヒワが居なきゃ難しい状況を描いて「共通言語」の必要性を感じさせる。しかし次第に観客の焦点はシフトしていき、必要なのは「道具」ではなく、「姿勢」なのではないか悟らされるのだ。

きっかけは、上記した指で机を叩くリズムだで意思疎通の"道具"は言語に限らないことが示唆される。
続く子供達のオリジナル言語は、〈言語〉自体を脱構築する。
大人は意味不明な言語を使い、コミュニケーションを取ろうとしない子供達に困惑を示す。ときにクルド人との対立項に取り込もうとしてくる。
ここでの古賀家の息子は本作で随一といっても過言ではないほどに「理解不能な他者」として不気味に映り続ける。(昨今の相米フォロワー作品のDNAを瞬間的に強く感じた)
しかしその言語と話者が不気味に映るのは、そもそもとして彼ら子供達に対して大人が「理解する」姿勢が存在しないからだ。特に和彦の息子は、例え手話という共通言語があったとしても姿勢がなければ理解しえないことを示しており、ディスコミュニケーションの原因は「道具」ではなく「姿勢」だと明確に描かれているのだ。

子供達の言語は単なる児戯に過ぎず、一過性の遊びでしかない。つまり子供達は言語を道具から〈玩具〉にしてみせており、その点においても道具としての「言語」を過大評価を提示しているかのようだった。

 

そして極めつけはヒワと夏海の逃避行だ。彼らは言語なんて、通訳なんて、と笑い飛ばしながら繁華街を飲み歩く。この瞬間だけ、テーマを忘れてしまいそうになるほどに美しい若者達の青春がある。
ここで登場する"オリジナル言語"は子供達のパートで示していることを補強するだけでなく、言語的な分断と意思疎通の不可能性
を結ぶ因果関係を解体をしていく。
意思疎通が不可能なのは、クルド語や手話が分からないからではなく、そもそも意思疎通する「姿勢」がそこにないから。
「姿勢」さえあれば相手の持つ言語を理解する必要はなくとも、意思疎通は可能だし、共通言語はいくらだって発生しうるのだ。

 

勘違いすべきでないのは、クルド語や手話を受け継ぎ守ってきた背景は蔑ろにはしていないということだ。「言語」を貶めることが目的ではなく、意思疎通における「言語」の過大評価を指摘することが目的としている。そこは同じことのようで、全く異なる性質のものだろう。

 

 

〇提案されるスタンス

本作のラスト5分は本作をとんでもない所へと飛躍させていく。まさかこの映画のリアリティーラインで「未知との遭遇」を見せられるとは思っていなかった。
しかし不思議とこの終わり方が納得できるのは、本作が「共通言語を持たない意思疎通の困難な他者と、どう付き合っていくか」をずっと描いているからだ。
ある種の応用編としての宇宙人。だからチョケてるようには思えないし、なんなら感涙してしまう場面であった。

この場面が意味するのは、一つのスタンスの提案だと思う。

それは「意思疎通の難しい他者に対してオープンな「姿勢」である方が、楽しくないかい?」というスタンスだ。排外主義的な昨今、意思疎通の難しい相手は容易に恐怖の対象や「敵」としてラベリングされてしまう。しかし意思疎通を試みれば案外楽しいことがあるかもしれない。そんな楽観は、いつしか「宇宙人」とだって仲良く機会を運ぶかもしれない。
その意思疎通の際には当然「分からない」事ばかりだろうし、意味不明だろう。だが、本作が提示したスタンスとは、そんな「意味不明」すらも面白く魅力的なんだと伝えてくれている。

なんて清々しい映画なのだろうと、思わずにはいられなかった。