
※上映当時に書いた文章を転載しています。
目次
相変わらず期待したものがそこにある。劇場に行けば期待したものがあるという、安定したクオリティーがもたらす平穏さが、ウェス・アンダーソン作品にはある。
彼の作品には一貫した強迫観念に囚われた構図と演技演出プランが存在する。
そしてストーリーは、常に喪失感とノスタルジーを感じさせる"後ろ髪引かれるもの達"の群像劇であり、そんな登場人物へと向けられる寛容と憧憬の帯びたウェスアンダーソンの視座で語られるのだ。本作を過去最高傑作とは言わない。
だが、「ありがとう」とは言わずにはいられない。そんな作品だ。
詳しく書いていく。
①過去作との相違
まずは過去作との比較を行っていきたい。
パッと思いつくのは『ムーンライズ・キングダム』だ。ムーンライズ・キングダムが黄色と青のツートーンを基調とした作品だったのに対して、本作も青い空と黄色(に近い)砂の二色が印象的で、他作に比べてもカラーパレットが類似しているといえる。
またウッドロウとダイナの子供達の恋物語と大人の恋物語を並行させることで、子供を大人と対等に描こうとすると視座が似ている。ただその観点で語るならやや描写不足は否めない。単純に尺の違いから来るものだろうが。
またジェイソン・シュワルツマン繋がりで、『天才マックスの世界』を引き合いに出すのもいいだろう。彼の主演作が久しぶりなのも興奮するが、何よりかつて"天才少年"だった彼が、"天才少年の父親役"となっていることに感慨深いものがあるわけだ。
そして何より前作『フレンチ・ディスパッチ』と比べると興味深い。『フレンチ・ディスパッチ』はフランスのとある雑誌の廃刊記念号を"映画化"した作品で、そのコンセプトは"現実に実在する雑誌"という体裁のフィクションだ。
対して本作は、最初に"作り話"(フィクション)だと言い切って始まり、架空の人物達の"現実"をメタ的並走させる。つまり本作は『フレンチ・ディスパッチ』と違い、フィクションであることを"自覚"している作品として作られているのだ。この入れ子構造は『グランドブタペストホテル』と同様だ。
このフィクションであることの自覚が、本作の興味深いところの一つであるので詳しく後述する。
ともかく過去作との相違点を記述してきたのは、そこに面白みがあるからだ。面白味を感じるのは、ウェス・アンダーソンにはスタイルがあり、そのスタイルからはみ出た部分にその作品の傾向や監督としての変化等、そういった観点が生まれうるからだろう。作家性を軸に追いかける監督としてこれ以上のコンテンツはない。
②喪失、込められたもの、見えない者、カットされてしまった人の感情
ウェス作品には必ずと言っていいほど、家族の喪失が描かれる。ルックの鮮やかさ、柔らかさに反すして喪失感に打ちのめされている登場人物達。そのギャップこそ、ウェス・アンダーソン印なわけだが、本作にはそこに一捻りがあるように思うのだ。
それこそ上記した入れ子構造により、役者と登場人物が不一致であることを自覚した作品だからこそ「喪失」の物語を語るについて一考を要するのだ。
それについて語る前に本作が50年代を舞台にし、マリリン・モンローやマーロン・ブランドといった、アクターズスタジオ出身のメソッド演技者がハリウッド映画を変えてしまった時代背景を、把握すべきである。スカヨハ演じるキャラが明らかにマリリンモンローを参照項としていたように、またジェイソン・シュワルツマン演じる彼が、劇中劇外において、まさにメソッド演技的な役作りをしていたように、メソッド演技というのは重要なモチーフである。
それを踏まえると、劇中クライマックスのカオスによって一度舞台から飛び出すジェイソン・シュワルツマンの行動が興味深い。
彼は"アステロイドシティ"内の感情の動線が分からなくなり飛び出してしまう。その先で出会うのは、マーゴット・ロビー演じる亡くなった妻役の役者である。彼女は劇には出ない。しかし彼女はまるでわがことのように、その物語上の喪失について語るのだ。
彼のメソッド演技の限界は、どこまで人の喪失に寄り添うのかという問いであり、それに対して、舞台にも上がらない役者と言葉を交わすことで、劇中の喪失を受容するのである。
これは役者への讃歌だ。役者とはこうも、虚構に"真実味"を見出すことのできる存在なのだと、褒めたたえているのだ。
そして他人事にどれだけ寄り添えるかという問題への希望に満ちた回答なのだ。ウェスの描いてきた「喪失」全てへのスタンスの表明にも思える。
③偽史、込められた憧憬と現在
今回アメリカ50年代というのが、かなり重要なのは前項でも少し触れたが、さらにその背景を深掘りするとフロンティアというモチーフが立ち上がってくる。
アメリカはフロンティアスピリットに従い、とにかく開拓を推し進めてきた。そこに移動が伴い、移動することによって万事は解決するといういわゆる"移動神話"とも表現すべき精神が根底にある。それは西部開拓時代をとうに終えた50年代においては、宇宙へと向けられる。詳しくは「荒野のオデュッセイア」に書かれているので参照してほしいが、ともかくこの映画はそんなフロンティアの話でもあるのだ。
そして現代の視点からいうと、エイリアンが登場し、「powerful america」を旗に刻んだ科学大会といった要素は、トランプ元大統領の掲げていた「古き良きアメリカへの回帰」の話を思い出させる。
そして本作はそんな現代に対して、ある種の偽史として反対を表明する。注目すべきはエイリアンに対する面々の反応だろう。彼らは大人子ども等しく同様を見せる。そこに差異はない。
子供のエイリアンに対する当然の疑問は、大人に向けられる。それに対してアステロイドシティの住民の「彼らは敵ではない」という安直な答えがもたらされる。
ここにはある種の偽史を通した、スタンスの表明があるのだろう。
ウェスはとにかく過去を美化してきた人、というか過去の良かった部分を強調し、悪い部分をノスタルジーという名のオブラートに包む人だった。だが、本作ではどこかフロンティア精神の過去のアメリカに対して、多少の批判的な視点があるように感じる。それは今のアメリカが、このアメリカの延長線上にあるからなのだろう。
そういったところに「いつも通り」以上に、ちょっといつもと違うなが、目立つ作品だった。