劇場からの失踪

映画をこよなく愛するArch(Ludovika)による映画批評 Twitterもあるよ @Arch_Stanton23

MENU

『ジュラシックワールド 新たなる支配者』どこまでも不誠実 /何を以て共存とするのか 劇場映画批評73回

題名:『ジュラシックワールド 新たなる支配者』
製作国:アメリカ

監督:コリン・トレボロウ監督

脚本:エミリー・カーマイケルコリン・トレボロウ

音楽:マイケル・ジアッチーノ

撮影:ジョン・シュワルツマン

公開年:2022年

製作年:2021年

 

目次

 

あらすじ

ュラシック・ワールドのあった島、イスラ・ヌブラルが噴火で壊滅し、救出された恐竜たちが世界中へ解き放たれて4年。人類はいまだ恐竜との安全な共存の道を見いだせずにいる。恐竜の保護活動を続けるオーウェンとクレアは、ジュラシック・パーク創設に協力したロックウッドの亡き娘から作られたクローンの少女、メイジーを守りながら、人里離れた山小屋で暮らしていた。そんなある日、オーウェンは子どもをつれたブルーと再会。しかし、その子どもが何者かによって誘拐されてしまい、オーウェンはクレアとともに救出に向かう。一方、ある目的で恐竜の研究をしている巨大バイオテクノロジー企業のバイオシンを追っていたサトラー博士のもとには、グラント博士が駆け付け、彼らはマルコム博士にも協力を求める。

引用元:

eiga.com

今回紹介するのは『ジュラシックワールド』シリーズの完結編である『ジュラシックワールド 新たなる支配者』である。旧シリーズのキャストも登場し、旧シリーズも含めた堂々たる完結編として期待されていた本作、蓋を開ければ一切の期待に応えられていない駄作であった。ジュラシックワールド最終作、ついに世界に恐竜が放たれた世界はどうなってしまうのか…という感じで期待していたが、予告で感じた不安感はそのまま的中してしまった。

良かった点/悪かった点を分けて早速語っていこう。

※以降ネタバレあり

 


良かった点を掘り出してみよう

こちらに関してはほとんど細かいワンシーンをピックアップしていくしかない。

例えばマルコムが炎を振り回すシーンは意外にも興奮した。「まさか死ぬのか!?」や一作目の露骨なオマージュとして普通に良かった。他にも付随してマルコムとアランの関係性がパークからあんま更新されず、ただ年を重ねて大人になった二人のそれ相応な関係が描かれていて良かった。
またテリジノサウルスは良かった。絶対こんなの創作だろと思ってたのに、しっかりいるのだから恐竜って面白い。

これらの良かったところは悪いところの中からどうにか"発掘"した部分でしかなく、大体は悪い。因みに私は4DXで観賞したのだが、"体験"としては一級品。恐竜たちの活躍にフォーカス、またアトラクション性に目を向けるのであれば、意外にも楽しいものだった。

 

どこまでも不誠実 /何を以て共存とするのか、一切希望も絶望も見せない

本作はまずどういった前提の元に立っているかを再び考えてみよう。
 一つは既に恐竜が世界中に広がっているという事実だ。前作で世に放たれた恐竜、何故だか全く収束せず、大陸を渡って繁殖してしまったようで、まさに恐竜と人間がどう生きていくのか、つまり、淘汰されるのか/共存するのか、という問題が眼前に突きつけられるのだ。かつて島に隔離して遠ざけていた問題に遂に完結編でようやく向き合うのだ。もう一つはメイジーというクローンの少女を通して、「作られた生命はただのレプリカでしかないのか」という問いが投げかけられていたということ。

それはジュラシックパークシリーズに内在してきたDNA操作で生まれてきた恐竜はクローンなのか、本物なのかという問題が、メイジーのアイデンティティの問題に重なり、「人か否か」となることで、より無視できないものになっていたこと。
このふたつの無視できない現実は、これまでシリーズが触れてこなかった確信の部分で、だからこそ前作『ジュラシックワールド 炎の王国』はその二つを炙り出したのが一つの凄さだった。

 


ただそのどちらにも不誠実に作られているのが本作だった。
まず一つ目に関しては全く描かれていない。確かに世界中のあらゆるロケーションで恐竜が描かれた様子はある。ただそれは序盤と終盤に少し描かれただけで終わっていて、恐竜が世界中にいるという激変を迎えた世界、というのか伝わってこない。いくつか理由は考えられるが、前作の直近の出来事すぎて恐竜が至る所で野生化しているというのに納得がいかないこと。また恐竜による被害が生半可にしか描写されず、そんなことよりイナゴ!!な作品になっていて、恐竜被害の印象が薄いことなどがあると思う。

そういったそもそもの"ジュラシックワールド"の描写不足は否めない。本作はあくまでブルーの子供ベータとメイジーの救出に話の焦点に合わせていく。またいつも通りの悪徳大企業のCEOとの対決の構図になっていくので、本来目を向けるべき世界ではなく、身内や悪党へとフォーカスがあっていき、どんどんミクロな話になっていく。


また前作主人公陣を登場させることで、物語はどんどん同時進行による弊害として尺が伸びていき、2時間半は終わる。そして最後になんの過程もなく、「共存していくしかない」と締める。メイジーとはそら共存できるに決まってんだろ!!と三人の仲睦まじい焚き火シーンで思ってしまう。この問題に関してだけいえば、クローンか否かは関係なく、人を捕食対象にする巨大生物がその辺にいっぱいいることなのだから。
高層タワーの上に素を作ってるプテラノドンって、子供になんの"餌"を上げてるんですか???
人ですよね絶対???

 

何を以て共存とするのか、一切希望も絶望も見せないまま話が終わってしまった

サンクチュアリをドミニオン(自治区)とした終わり方も「ジュラシックパーク」が陸続きになっただけなのだ。(サンクチュアリが島か大陸にあるのかちょっと分からなかった)

 

前作主人公陣が明らかに秀でていたのはその受動的な一般人性

話はだいぶ逸れるが、前作主人公陣に触れたので少し話しておく。
前作主人公陣が明らかに秀でていたのはその受動的な一般人性にある。一般人と違うのは「恐竜に詳しい」ことぐらい、マルコムに関しては問題意識が人一倍ある、そんぐらいだ。
前作主人公陣はだからこそ自らの意思でジュラシックパークに行こうとはしないし、常に仕方なく受動的に踏み込んできた。その立場は至って恐竜と関わるべきではないというスタンスになっていたからこそ、作品の良心たり得た。
だが本作ではそんなことはお構いなしに能動的で行動する。まるでスパイ映画かのように大企業の研究施設に潜入して証拠を奪取する……は?

この「は?」には二つ意味がある。一つは先程も述べたように「一般人の域」を逸脱した行為であり、考古学者がやることではないからだ。インディ・ジョーンズか何かと勘違いしてないかと言わざるを得ない。この展開も、これまでの受動的な立ち位置に僅かながらも後悔があり、それを踏まえての行動であればいいのだが、全然そんな感じでもない。
もう一つは一般おじさんおばさんがスパイしてるのなんて見てたくないということ。案の定の揉みくちゃな感じでイナゴに襲われているし、どうしようもない。
前作主人公を出すことは確かに熱いし、シリーズ最後にサービスしたいのは分かる。だが、登場のさせ方がひどいではないか。

 <

/p>

メイジ―の葛藤

話を戻そう。前提として2つ目に上げた「人か否か」という問いについてだ。
これは『ミュウツーの逆襲』を思い出させる問いで、その問題があったからこそ前作ラストのボタンを押すか否かが機能していた。だが、本作ではその部分については、冒頭の「人じゃないんでしょ」というメイジーの言葉はあるものの、具体的触れる場面は「母親の記録映像」のみになっている。あの下りだけだと正直両親を知らない子供の癒しの物語となんらテイストが変わらない。
彼女の葛藤やアイデンティティの問題は結局に解はでない。別に出さずとも最後まで悩んでさえ入ればよかったのに、その描写もない。
この感覚はスターウォーズのプリクエルに近いものがある。しかさ本作はしっかり一人の監督が一貫して作ったのにこの体たらくだ。もっと酷いかもしれない。

 

ギミックになり果てた恐竜

そういった前作の前提を全く解決しなかったのが今作なのだ。
他にも文句はある。まずはティラノの使い方だ。ワールド1作目は良かった。モンスターと化したインドミナスレックスvs生物の構図になっていたのが何よりも良いし、一度目は確かに熱い。
ただ二作目、三作目と続いたまるで「味方」としてカテゴライズされているかのように出てくるのが恐竜が物語のギミックに成り果てているように感じて悲しい。このジュラシックパークシリーズが恐竜をあくまで生物として描いてきたことこそが最大の発明だったことを忘れていけない。
他にも毎回登場する巨大企業とCEOが消費されていく流れは飽きたし、キャラクターを薄っぺらいものにしてしまっている。
あと博士がまるで改心したかのような描写やマッチポンプな展開も頷けない。

 

 

期待していたこと

この後はこの映画に期待していたことについて記述していく。
まるで聖書に書いてあるようなイナゴの災害が本作では描かれるが、もしそれをするなら恐竜と人間が直面する「隕石(恐竜絶滅)の再来」としての出来事であるべぎだった。(イナゴは一例)もしイナゴの出来事を共通の災厄として定義出来たのなら、それこそ恐竜と人間の共闘が描けるはずだ。それは人間と恐竜の共闘であり、共生であり、共存への道そのものである。これまでも人の選択によって恐竜は"道"を見つけてきたはずだ。ならばそれを今回こそやるべきだった。その為の用意は出来ていたはず。ブルーとオーウェンが今回一緒に行動し、このイナゴの危機に立ち向かえば、それはこの星に生きる生き物という連帯を描くことにもなっていたはず。
そのためにはこの映画は前作からもっと時間をかけて、恐竜若しくはイナゴによって滅びかけているべきだった。そしてメイジーは"ピーチ姫"ではなく、純然たる主人公として世代交代をすべきだった。

肝なのは「世代交代」も「隕石の再来」
恐竜にとっての二度目の絶滅を、人間と共闘していくことで生きる"道"を見つけるという流れ。これぐらいしないと共存のテーマは描けないでしょ。
毎度毎度CEO殺す映画にしても殺しても楽しくないよ「猿の惑星」にしようよ

 


まだまだ文句は吐けるけど!こんぐらいで