劇場からの失踪

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『グリッドマンユニバース』劇場映画批評126回 「今とは違う現実を信じることが出来る」という特権

題名:『グリッドマン・ユニバース』
製作国:日本

監督:雨宮哲監督

脚本:長谷川圭一

音楽:鷺巣詩郎


公開年:2023年

製作年:2022年

 

目次

 

あらすじ

かつてこの世界は、ひとりの少女によって作られ、壊された。その少女の心を救ったのは、異次元から現れたハイパーエージェント・グリッドマンと、少女が作った心を持つ怪獣、そして高校生の響裕太たちだった。高校2年生に進級した裕太は、別のクラスになった六花に告白することを決意する。しかし彼らの平和な日常は、突如として出現した怪獣により崩れ去る。裕太の前に再び姿を現したグリッドマンは、この世界のバランスが崩れようとしていると告げる。やがて真紅の強竜ダイナレックスや、グリッドマンの支援者・新世紀中学生、さらに別世界の住人である麻中蓬たちも現れ、裕太は非日常へと巻き込まれていく。

 

引用元:

eiga.com

※以降ネタバレあり

 

リアリティー

俺がTRIGGER作品に求める、なんだか分からないもの全てを混沌なままに肯定する姿勢、そして友情や愛情、そういった純粋でストレートな想いを描こうとする姿勢、そのどちらもが画面全体にスパークしていて、もう最高でした。

正直、グリッドマン世界の細かい設定をよく分かっていないし、前アニメシリーズや原作の特撮シリーズも曖昧にしか記憶してないので、全てを把握できたわけではない。
ただとにかく虚構に生きていることを自覚しながら、自らの人生を必死に謳歌しようと闘い恋する彼らの姿は本当に眩しいもので、そこに心奪われた

作中では文化祭での舞台脚本を書くというのが話の骨子の部分に存在し、そこでは頻りに「リアリティ」という言葉が出てくる。
リアリティとはなんだろう。本作においてそのリアリティーという言葉が強く意味を持つと思うのだ。

リアリティーは当事者には全く意味のない言葉だ。我々が生きている中で、現実に目の前で起こったことに対してリアルか否かを判定することは出来ない。リアリティーは我々が生きる世界を基準とした言葉であり、リアリティーの判定は俯瞰で認識する別の世界、つまり"虚構"に対してしか使えない言葉なのだ。

 

それはつまりその虚構の中に生きる存在にとって、如何に異常な事態であったり、我々からするとリアリティーが感じられない状況も、彼にとっては「現実」だということを意味する。
それは自らが誰かに作られた存在(虚構の存在)だと自覚しているグリッドマン世界の主人公達にとって、大事な考え方ではないだろうか?
彼にとって自分が誰に作られたかなんてことは考えるに値せず、目の前の事態に真剣に向き合い、必死に闘い、恋して生きようとすることこそがリアルなのだ。
我々視点ではご都合的で無茶苦茶な展開にしか見えないTRIGGERらしい話も、その彼らの世界に生きる彼らの熱量の前には納得せざるを得ないのだ。

 

二種類の青春

本作は高校生の青春(恋愛)に着地する。この高校の恋愛という要素との親和性も評価したい。青春には自分はふたつのタイプがあると思っていて、一つは高校生達が憧れや理想に基づいて作り上げようとする「偽りの青春」。もう一つは全てに出会いと別れが存在するという年齢を問わない「サヨナラの青春」

本作は前者の「偽りの青春」。高校といった学生コミュニティにおいてイベントやイニシエーションに紐づけられて、演出されるその青春は、極論"作られた青春"なのだ。(必然的に訪れるものではないというのが、後者である「サヨナラの青春」と区別できるポイント。)
彼ら高校生の青春は、青春コンテンツの幻想に寄せて皆で作った虚構なのだ。だが、彼らはその虚構に無自覚であり、真剣だ。その青春を真剣に謳歌するのだ。それは前述した当事者に分からないリアリティーの話と同じであり、無自覚だからこその真剣さという共通点がある。だからこそ本作において、世界の存亡の危機と高校生の恋愛は等価に扱われるし、「告白したい」という気持ちが大きな力を持つのだ。
ラストの告白シーンは、近年稀に見る心拍数で観てしまった。多分共感性羞恥と色々昔を思い出させるからなのだが、かなり劇薬だった。

 

作中でも言及されたように我々人間だけが虚構を持つことが出来る。そんな我々の特権であるフィクションへの賛歌であり、「今とは違う現実を信じることが出来る」という特権の肯定でもある。マルチバースという概念と虚構の存在というグリッドマンの世界観があったからこそ成しえた話だと思えた。


良い作品でした。