劇場からの失踪

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『雑魚どもよ、大志を抱け!』劇場映画批評125回 一本の線路が思わせる「別れ」と「出会い」

題名:『雑魚どもよ、大志を抱け!』
製作国:日本

監督:足立紳 監督

脚本:松本稔 足立紳

音楽:海田庄吾

撮影:猪本雅三 新里勝也

美術:高橋俊秋
公開年:2023年

製作年:2022年

 

 

目次

 

あらすじ

地方の町に暮らす小学生の瞬は、乳がんを患う母の病状よりも、中学受験のため無理やり学習塾に入れられそうなことを心配していた。そんな彼の周囲には、犯罪歴のある父を持つ親友・隆造や、いじめを受けながらも映画監督を目指す西野ら、それぞれ問題を抱えながらも懸命に明日を夢見る仲間たちがいた。ある日、瞬はいじめを見て見ぬ振りしたことがきっかけで、友人たちとの関係がぎくしゃくするようになってしまう。

 

引用元:

eiga.com

※以降ネタバレあり

 

最もバラエティ溢れる集団に属している小学生時代

いい映画だった。とてもいいガキんちょ共の映画だった。
原作での言及や、プロデューサー陣が飛騨市を「日本のキャッスルロック」だとしてロケ地に選んだなど、明確な『スタンド・バイ・ミー』意識をされた作品であり、登場人物の相関や「線路」というモチーフ等の共通点が見受けられる。
中でも、悪ガキたちの青春を「少年期の特有の奔放さ」と「少年たちに忍び寄る非情な現実」の両立によって構築している感じが、本当に『スタンド・バイ・ミー』の隠し味である"冷たさ"の見事な再現になっている。その上で考えると、本作の魅力はその少年たちの関係性が流動的であることにあるのではないか。

 

冒頭の相米監督流の長回しで"いつもの四人"の合流が、紹介とともに描写される。だが、この4人組は変動する。それは不登校気味のトカゲの不在や星正太郎のサボりだけに由来するのではなく、転校生小林や映画大好き西野、また玉島明ら不良集団との衝突によって、関係性は容易に変動する。
『スタンド・バイ・ミー』の4人組にはない感覚、しかしそれこそが、簡単に連帯できて簡単に対立する「最もバラエティ溢れる集団に属している」小学生時代だからこその現象であり、少年期の奔放さを見事に表現していると思うのだ。中でも小林の「俺は世界一の卑怯者だ!」とか明の「俺はいつも正義の味方だ!」という言葉に、その無垢さや奔放さが詰まっていて心に来る台詞だった。
台詞と言えば、本作の魅力の1つはリアルな台詞には間違いない。両親や少年たちにモデルがあるとのことらしく、実際に存在した「言葉」から台詞が作られたのかもしれない、そんな言葉の数々。浜野謙太演じるゆるい家父長制お父さんの塩梅も素晴らしかった。

 

少年の青春はなぜ線路に結び付けられるのか

自分は世の中の少年の青春は線路と結び付けられるのだろうと不思議に感じた。
もちろん『スタンド・バイ・ミー』の光景が鮮明に刻まれていることは明白だが、しかしそれは『スタンド・バイ・ミー』によって線路と少年の青春の相乗効果が証明されたということなのだ。
そう考えていたとき、本作のクライマックスにおける線路の使い方を観て、自分なりの答えを見つけることが出来た気がしている。
本作には重要な要素として「地獄トンネル」というものがある。人を容易に飲み込む漆黒の穴。幼少期であれば、当然ビビるだろうその"暗闇"は、少年たちにとっての通り抜ければ願いが叶うという"魔法のランプ"なのだ。
そのトンネルを瞬がクライマックスに乗り越えようとするのだが、それは少年たちがモラトリアムの終わりを予感して、そのに向き合う姿に重なる。

小学校の終わりは、彼らの"いつもの放課後"の終わり。つまりそれは別れであり、隆造との別れ。そのいつかは来る別れに瞬は、向き合うのだ。
それだけではない。そのトンネルの先に線路が続いていること、そしてその走る先に必然のごとく隆造の電車があること。そこに自分は感動した。人生は"続いていってしまう"。かけがえのない友人との別れを経験しても人生は終わらない、人生は続くのだと、足元の線路は語っていかのようだ。
一本の線路が思わせるのは「別れ」だけではない。「出会い」も連想させるのだ。1つの線路上に2人がいるということの示唆は、いつかその先で合流するかもしないという予感でもある。
だからこそ瞬と隆造の別れは、同時に「出会い」も予感させるのだ。


本当によくできた作品であり、それを支えるのはロケ地や脚本だけでなく俳優の皆の名演であるのは間違いない。是非また観たい作品だ。


余談だか、まさくんの嘘喰いの立会人みたいな容姿が最高だった。