劇場からの失踪-映画批評ブログ

映画をこよなく愛するArchによる映画批評

『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』-グザヴィエ・ドランの世界

 



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今回紹介するのは『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』です。

 こちらは新進気鋭、新世代の先駆者として知られるカナダ出身の監督グザヴィエ・ドランの最新作であります。

 監督デビューを果たした第一作『マイ・マザー』を作り上げたのは若干20歳。低予算であるがそれでも個人の資金力では足りず、自らアパートを売りに出したそう。彼はこの作品が必ず成功するという絶対の自信で作り上げる。そして完成した作品がカンヌでの監督週間で20ヵ国に売却され、成功を収めたという。

 そんな彼の初英語圏での映画、それが今作『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』である。今作は『タイタニック』を幼少期に観て、感銘を受けたグザヴィエ・ドラン監督が主演であるレオナルド・ディカプリオに手紙を出したという体験談から構想されたものである。これはこれまで彼が監督した6作品にも共通することだが、彼の映画は自分自身の中にある非常にパーソナルな題材を取り扱っている。自分自身の体験から来るからこそ彼の映画にはリアリティーある切実さが備わっているのだ。

 今記事ではそんな彼の過去作6作品を紹介しながら最終的にジョン・F・ドノヴァンの死と生の魅力を語っていきたい。『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』にだけ興味がある方は読み飛ばしてもらっても構わない。

 

 

グザヴィエ・ドランの映画とは

 まず彼の過去6作品についてどの作品にも言えること点は少なめに、しかし『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』に引き継がれている部分やその作品の唯一性のある点を重点を置いて紹介していこう。

『マイ・マザー/i killed my mother』(カナダ:2009年 主演グザヴィエ・ドラン)

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第一作目『マイ・マザー』は多感な時期の少年と母との愛憎混ざる関係を描いている。

母を殺したいほど憎み、また時には愛おしくも感じる。そんな実にリアリティーある描写は思春期を経験したことがあるものなら痛みすら感じるだろう。リアルな描写の説得力のわけは彼の体験からきた半自伝的だからというのもあるが、なによりその登場人物の感情の切り取り方の巧みさにある。独白のようなカットで本音を語り、そのポエティックな台詞が的確に感情を表現する。そして登場人物の表情を細かいところまで捕えるために、その瞳に映る色まで分かるほどのアップで撮影をする。

 今作は処女作ということもあり、粗削りなところも見受けられる。だが音楽と絵画などの芸術を通して、若者の感情の発露を描いていてその傑出した才能を感じることが出来る。ラストのフィルム的な自然光輝くショット、子供時代の記憶のフラッシュバックあれが特に素晴らしいのだ。

 因みに主演はグザヴィエ・ドラン監督本人が演じていて、彼のセクシャルが反映され、LGBTのアイデンティティを取り扱うのも彼の作品の特徴だ。そのせいで「ゲイ映画」を作る監督だと揶揄されることもある。しかしそれは間違っている。このデビュー作から徹底しているのは物語が焦点を当てている部分はセクシャルよりもっと人の本質的な部分であるということだ。セクシャルは個のアイデンティティ以上には描かれておらず、焦点は常に主人公の普遍的な苦悩当たっている。

 これは『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』にも通ずることでもある。今作が焦点が当てているのはジョンのセクシャルではなく、自分らしく生きられない一人の男の葛藤という普遍的なテーマなのだ。

 

 

胸騒ぎの恋人/Les Amours imaginaires』(カナダ:2010年 主演グザヴィエ・ドラン)

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 第二作目『胸騒ぎの恋人』は一人の天真爛漫な男に惹かれる男女がその恋心を隠しながらその一方通行の恋模様を描いている。

 『マイ・マザー』を撮ってから一年も経たずに始まる撮影。グザヴィエ・ドラン本人の「一年空けてしまうと映画が撮れなくなる」という強迫観念から製作が始まり、カンヌの(ある視点部門)で初上映された作品である。

 今作は前作と比べ、アップグレードされた点が多くある。前作が室内の撮影が多かったのに対し、今作は秋のカナダの森や現代的なアートを反映した建物が背景に覗くカットが多く存在する。また主人公たちがカナダのお洒落な学生ということもあり、ファッションへの力の入れ具合も今作からみられる特徴である。また音楽が非常に印象的に使われていて、登場人物たちの"もうひとつの声"として機能している。前作になかったこれらのファッショナブルな画作り、映画的な外連味ある演出の数々は彼の映画を撮る方法の選択肢ということなのだろう。それらは『わたしはロランス』にも引き継がれていくものである。

 今作も前作同様、主演はグザヴィエ・ドランである。今回は女性からの恋心という視点があり、それは『マイ・マザー』同様に主人公のセクシャルではなく、普遍的な恋愛の苦悩を描いているのだと分かる。恋する相手に翻弄され、振り向いてくれるように努力する。その滑稽さも誰もが分かる感情であり、前作同様パーソナルな題材を扱っている。総評としては、彼のお洒落映画的センスの開花した一本であるだろう。

 

『わたしはロランス/Laurence Anyways(カナダ:2012年 主演メルヴェル・プポー)

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 第三作『わたしはロランス』は男性の体で生まれながら女性の心を持ち、それを隠して生きてきたロランがその恋人フレッドの10年に渡る大恋愛の様子を描いてる。

  今作はグザヴィエ・ドラン監督が世界にその名を知らしめた作品であり、これまでの二作とは規模感が違う。これまでが人生の小さな物語を題材にしていたり、低予算であるために撮影の規模も小さめで描いていたのに対し、今作は10年にも及ぶ年月、国を股にかけて交錯する二人の人生を描いていて壮大な人生譚に仕上がっている。『マイ・マザー』の次に製作が考えられていた本作だが、予算規模の関係で見送られたそうであり、それも納得である。

 これまでの二作にある「ゲイの少年をグザヴィエ本人が演じる」という共通点は今作にはなく、同一性障害というこれまでとは違う題材を取り扱っている。しかし、何度も言うようにそこに作品の本質はない。特に今作は『性で括られない個としての自分』がテーマであり、その部分がより強調されているように思う。本当の自分を隠してきた彼の姿は『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』のジョンに通ずる点がある。ロランスとジョンの違い、それは"立場の違い"と"支えてくれる存在が傍にいた"ということであると思う。

 グザヴィエ・ドランはよく詩等から引用やポエティックな表現を用いる。それはアバンに作品を象徴するように入れられていたり、登場人物の台詞にみられる。特に今作にある手紙のやり取り。その文章のセンス、そして挿入される音楽のマッチ感。これは間違いなく『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』にも息づくグザヴィエのこだわりである。

 

『トム・アット・ザ・ファーム/Tom à la ferme (カナダ:2013年 グザヴィエ・ドラン)

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 第4作目『トム・アット・ザ・ファーム』は彼の中でも異質な作品である。恋人を失ったトムが葬式に出席するため恋人関係を隠し、彼の実家の田舎に向かう。田舎で過ごすうちに閉鎖的な家庭と風土にトムは呑み込まれていく。

 「わたしはロランス」で注目を浴びた彼が次に作った作品のテーマは「嘘と喪失」である。前作で自分らしく生きる姿を描いた彼だが、その真逆。「僕たちは愛し方を、学ぶ前に、嘘のつき方を覚えた」というキャッチフレーズが表すように、自分のセクシャルを隠して生きる偽りの人生の苦悩を描いています。

 グザヴィエ・ドラン作品の中でも最もダークな作品で、これまでにないホラージャンルにも片足突っ込んだ作品になっています。喪失から来る狂気だったり支配欲から来る空しい愛が田舎という先のない閉鎖的な世界と相乗効果を生み、観る者の心に刺してきます。特に今作における"嘘"の取り扱い方が実に素晴らしい。そのまやかしは現実を逃避する麻酔のようでありながら、しかし悲しいほどに現実を突き付けてくるという側面もあるということ。今作にある唯一といえる"真実"。その嘘のような恐怖的な真実を描くことで作品全てを嘲るような点が今作が傑作たる所以でしょう。個人的にグザヴィエ・ドランベストです。

 主人公トムの自分の本当の姿を隠す様はジョンにも重なる所で、同性愛の影の面を描いた本作の系列であることは間違いないでしょう。

 

『Mommy/マミー』(カナダ:2014年主演アンヌ・ドルヴァル)

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 第5作目である『Mommy』は2014年にカンヌ審査員特別賞を受賞した作品である。ADHDを持つ息子スティーヴが施設を追い出され、母ダイアンとともに生活が始まる。しかし、多くの問題が彼らを襲い、彼らの愛が試されていく。

 今作の最たる特徴が画面アスペクト比の操作である。従来の映画がビスタサイズ(1.85:1)やシネマスコープサイズ(2.35:1)であるのに対し、今作はスクエアサイズ(1:1)という異例なサイズである。それは他の作品以上に登場人物の表情を大きく捉えることが出来ていて、スティーヴとダイアンの閉鎖された関係を的確に表している。特にこの画面が効果を示すのは、この画面サイズがビスタサイズに戻るシーンだ。スティーヴが第四の壁を越えて画面を手で開く。それは彼らの希望に満ちた未来を暗示するようで、その観客と登場人物たちの感情を同期させる非慣習的で見事な演出が本当に素晴らしい。そしてそこで流れるoasisの「WonderWall」である。グザヴィエ・ドラン監督はこれまでも印象的に音楽を使ってきたが、彼史上最もセンスの輝く音楽の使い方であったと思う。

  今作の主人公であるADHDのスティーヴは彼の作品史上最もピュアな人間であった。感情を抑えきれない。愛を抑えきれない。誰が相手であろうと自分を偽らずに感情のままに動いてしまう。それは一見素敵なことだが、不幸な結果を招くのがほとんどなはずだ。そのピュアさを幼い精神だからと断じてしまうことも出来る。しかし、彼のその純粋な感情、そしてその感情から来る躍動を私には非難などできなかった。彼らにこそ輝かしい幸せな未来があればと思わずにはいられないのだ。

 

『たかが世界の終わり/Juste la fin du monde(カナダ:2016年主演ギャスパーウリエル)

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 第6作品である『たかが世界の終わり』はこれまで距離を置いてきた家族に向き合おうとする余命わずかな作家を中心に不器用な家族模様を描いている。

 今作が遅すぎた再生の物語である。自分の死期を悟ってから家族との時間の大切に気づき、彼らのまた新たな一歩を踏み出そうとするが、もう遅い。その残酷な時間の不可逆さを今作は突き付けてくる。

 毎回グザヴィエ・ドランは人の感情を観客にリアルに伝えるため色々な手法を使う。今作ではほとんどのシーンで顔のアップが多用されている。これまでも『Mommy』等でも利用されていたその手法だが、異常なほど利用されている。今作に出てくる5人の家族、彼らは思っていることを口に出さない。言いだそうとしても寸前で止まってしまう。そんな不器用な彼らの表情から漏れる音にならない言葉を伝えるため、その手法は的確だったのかもしれない。正直アップのシーンを多用し、肝心なことを言葉にしない作風が今作の短所でもあるが、『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』ではそのアップの多用を上手いこと全体のバランスを改善してきていると感じた。

 今作はフランスの名だたる名優を存分に使った贅沢な作品である。それはこれまでのカナダの俳優女優を使ってきた流れを見ると新たな境地であると言えるだろう。

 

 

ここまで6作品を紹介してきた。全てに共通する点を挙げるならば、それは圧倒的な美的なセンスを感じる"美しい映画"かつ誰かの"パーソナルな映画"だということだろう。常に新たな要素を取り入れながら、普遍的な共通テーマである人の苦悩を描き、社会に訴えかけてくる。どれもがハイクオリティーで誰かのオンリーワンの作品になっている作品に思う。「ジョン・F・ドノヴァンの死と生」を観る前でも、観た後でもいいので鑑賞していただきたい。

 

 

『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』について

これまで全6作品をざっとだが、作品のグザヴィエ・ドラン特有の何かだったり、今作に繋がる所を紹介してきた。ここから読んでも分かるように書くつもりなので目次から飛ばしてきた方は心配しなくていい。早速いこう。

 

『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』(英カナダ:2018年 主演キットハリントン)

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 ファンとセレブという関係

 今作はグザヴィエ・ドラン監督の第7作品目である。これまでの作品と同じように主人公がゲイセクシャルである点や家族の微妙な関係を描いている作品であるが、そこに本質はない。彼の作品の物語に通ずる本質は『どうしようもない状況に追い込まれた人』を描いているということだ。それは普遍的な人生の苦悩で、LGBTのセクシャルな問題に依存しない。各々が抱える問題のせいで自分らしく生きられない"どうしようもない状況に追い込まれた人"が逞しく美しく自分らしく生きる様だったり、時には自分を偽って生きる辛さを描いているのだ。

 その『どうしようもない状況に追い込まれた人』が描かれているという点は勿論今作にも通じているところだ。主人公はテレビスター,ジョン・F・ドノヴァン(キット・ハリントン)。彼は芸能界という世界でゲイである自分を隠して生きている。ファンは彼に理想のスター像を想い、美人の女性と付き合い、誰にも愛想を振りまく。しかしそれは彼の本当の姿ではない。また、業界や周りからの期待も彼にとっての重圧である。そんな芸能界での偽りの人生を余儀なくされているのが今作の主人公だ。そんな彼が唯一"本当の自分"を知っている存在が少年ルパートである。ジョンとルパートは一通のファンレターから文通を始める。その"小さな友人"にだけ彼は本当の自分をさらけ出せたのだ。

 この人物像、これまでの作品であれば『トム・アット・ザ・ファーム』や『たかが世界の終わり』にある本当の自分を隠して苦悩する主人公の系列である。しかしながら本質的には同じで共通点もあるが、大きくこれまでの作品と違う点がある。それは彼がセレブという影響力を持つ人間であるということだ。これまでの主人公が抗ってきたのは家族という狭い世界であったり、セクシャルを容認できない社会であるわけだが、彼はどの作品の主人公よりも立場というものに囚われている。

 それはグザヴィエ・ドラン監督が現在の同性愛への寛容がない芸能界を痛烈に示唆しているということである。昔よりもマシにはなったはずだが、現在もその問題は残っている。今回こういったテーマを選んだのはグザヴィエ・ドランの体験から来るものだろう。これまでの作品がそうであったように自分自身の体験から彼は映画を作る。彼は『わたしはロランス』や『Mommy』といった作品で世界に評価され、また俳優としても知名度を上げたことで彼は『マイ・マザー』の頃では想像もできないようなセレブになっている。だからこそ、現在の彼にとってこの映画は最もパーソナルで描くべきテーマを扱った作品なのではないだろうか。

 こういったセレブの影を描いているが、同時にグザヴィエ・ドランはその業界の持つ華やかな世界をセレブに憧れるファン視点から描こうとしてる。そのためのファンの視点としてルパート(ジェイコブ・トレンプレイ)の存在や絶望の時期に出会ったダイナーのスタッフ(マイケル・ガンボン)が重要となってくる。彼らが持つセレブに対する"憧れ"という感情、向けられている"羨望"に気づくことでジョンはその世界で生き始めた原点、かつて魅了される側であったことを思い出す。そのおかげで芸能界という世界で彷徨っていたジョンが微かな光明を見出す。その結末は確かに悲しいものでしたが、最後の手紙には希望が詰まっている。その結末をファンであるテレビの向こう側にいたルパートがどう解釈するのかというところに重きを置いているという点。それこそがスターとファンの関係であり、つまりこの映画が描いている"スターに抱く希望"というものを究極形でもある。

 これまでと違うのはこの映画のメッセージがオードリー・ニューハウスという女性記者のインタビュー形式にすることで、観客に直接的に伝える形になっていることだ。女性記者は観客と一緒で何も知らない聞き手として存在する。だからこそ、ルパートに諭されてこの物語の要点や語る意義を観客は知ることになる。ラストまで女性記者視点と観客視点を重ねてるわけだが、最後の質問も観客の代弁として機能する。そしてルパートの言葉に希望を感じ、彼がジョンから引き継いだ意思を彼の最後の姿に見て彼女は笑みを零す。それは彼女の笑みであり、観客の笑みでもあるのだ。このように聞き手と観客を同期させることで過去と現実が入り混じ物語を分かりやすくエモーショナルなものとして観客に伝えているのだ。

 進化する映画の演出

 これまでのグザヴィエ・ドラン作品でも印象的に使われる"音楽"という要素。それはジャンルが多岐にわたり、クラシックから最新ポップまでを使いこなしている。だが比較的にマイナー曲を利用する傾向がある。しかし、今作ではその選曲の指向の変化や使う場面がちょっと違っていた。今作での使い方は『Mommy』に近い。比較的ポピュラーな曲を利用し、特に英語圏の映画であるため英語圏の音楽を利用している。また、劇伴としての音楽ではなく、ラジオから流れてくるような日常に潜む音楽として使われている。LifeHouseの「Hanging by Moment」だったりGreen Dayの「Jesus of Suburbia」等がラジオから流れてきて、その音楽にジョンが乗っかる。それはジョンのセレブというペルソナが外れている瞬間だ。そういった人間的な部分を見せるために音楽が利用しされているのだ。

 こういう風にこれまでの映画演出技術がアップグレードされているのが本作である。細かく追及すると例えば、ジョン・F・ドノヴァンの登場シーンだ。俯いていた顔が正面を向く。撮影のためカメラのフラッシュがたかれて、顔に陰影がつく。それは彼のセレブという立場の光と影を暗示する。これまでも『たかが世界の終わり』等でも見られた人の顔をアップにするという演出だが、それは登場人物の表情を細かく捉えることが出来る方法で感情の機微を台詞無しで伝えられるというグザヴィエ・ドランお得意の手法なのだ。

 それに対して主人公を小さく真ん中に収めて、その背景を外連味のある映画的な演出で捉えるのという真逆の手法も彼の得意分野であるのだ。「わたしはロランス」の衣服が空を舞うシーンやラストの落ち葉のシーン、または『Mommy』のカートを振り回すスティーヴのシーンが代表するシーンだが、今作でもCMで使われた雨に降られるシーンなどがそうである。

『たかが世界の終わり』がアップを多用しすぎておかしなことになっていたが、今作はその二つの相対する手法のバランスが巧かった。

 このようにグザヴィエ・ドラン監督は技術的にも常に彼の最高レベルを更新していくのだ。

 

最後に

 今回はグザヴィエ・ドランの作品全てをまとめて評価したいという考えがあったので大分文章が膨らんでいるし、まとまりのない記事になっている。作品を語るうえで監督性を考えるのは大事であり、そのためには全作観る必要があると思い全作品の紹介を軽くさせていただいた。そのため完全にちらばった記事になってしまった。今度はもう少しまとまった記事に出来ればと思う。 

 余談だが、他にも語り口として多くのハリウッド映画へのオマージュが込められている。明らかなのがリヴァーフェニックス主演の『マイ・プライベート・アイダホ』からのオマージュだ。今作がこれまでと違いカナダ映画ではない。だからこそ、ハリウッドへの想いが込められているように思う。それは『タイタニック』に魅せられ、人生を変えられたグザヴィエ・ドランだからこそ、ハリウッド映画への一つの感謝の形なのだろう。

 今年2020年はグザヴィエ・ドラン監督の最新作である『マティアスとマクシム』の後悔が控えている。2018年米公開の『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』が2020年まで公開が押した故の一年に二本公開である。何故だかお得な気分になってしまうわけだが、毎回新たな手法を盛り込みながら普遍的な人の苦悩を描く彼の新作、楽しみにしておこう。