劇場からの失踪

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『エッシャー通りの赤いポスト』 エッシャー通りでつかまえて 劇場映画批評第33回

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題名:『エッシャー通りの赤いポスト』
製作国:日本
監督: 園子 温 監督
公開年:2022年

 

目次

 

あらすじ

鬼才のカリスマ映画監督・小林正(山岡)は新作映画『仮面』に、演技経験の有無を問わず広く出演者を募集する。浴衣姿の劇団員、小林監督の親衛隊である“小林監督心中クラブ”、俳優志望の夫を亡くした若き未亡人・切子(黒河内)、殺気立った訳ありの女・安子(藤丸)、プロデューサーにまとわりつく有名女優など様々な経歴の持ち主たちが、オーディション会場に押し寄せて来る。それぞれの事情を持った参加者たちは、小林監督の前で語り、演じて見せる。

 一方、助監督のジョー(小西)たちに心配されながら、脚本作りに難航する小林の前に、元恋人の方子(モーガン)が現れる。彼女は脚本の続きを書いてくれるという。1年前のある出来事を忘れることが出来ない小林は、方子に励まされながら『仮面』に打ち込み、刺激的な新人俳優たちを見つけ出すことで希望を見出すが、エグゼクティブプロデューサー(渡辺哲)からの無理な要望を飲まなければならなくなる。自暴自棄に陥った小林は、姿が見えなくなった方子を探すが……。

引用元:

escherst-akaipost.jp

 

最初、誰もが映画の主役になりたいと応募する光景に困惑した。この日本で役者でもないシロウト達の内、どれだけの人が、監督の名前に釣られて映画のオーディションに応募するだろうか。しかも応募方法はポストに投函するという古臭い方法のみ。 その後もエキストラに関連する下りなど、映画が異様にもてはやされた物語に、現実とのギャップを感じ、園子温監督と自分の温度差というか、浮世離れした熱量に違和感を感じてしまった。
しかし、この映画が描こうとしたものを徐々に見えてきた時、そんな些細な違和感は吹っ飛んでしまった。
 
彼らは映画の主役に熱狂したのではなく、人生の主人公になるためのチャンスに熱狂しているのだ。
それは「自分はここに生きているのだ」、という叫びなのだ。
そんな埋没しようはずもない"個"の躍動に思わず泣いてしまった。
 
園子温監督の『プリズナーズ・イン・ゴーストランド』が2021年ワースト映画だった身としては、本作の傑作っぷりはとんでもない衝撃だった。
 
 
※ここからネタバレあり

映画の想いと才能を集わせる場所としての機能。

まず本作の特殊な製作背景から説明していきたい。本作は園子温監督を招いたワークショップから端を発している。少なくないお金を取って役者を集めるならば、参加する役者の卵たちの名刺代わりになるような作品を。カメラの前で演技するという体験を。そうして園子温監督によってオーディションで選ばれた総勢51名全てに役を与えて作られた映画がこの『エッシャー通りの赤いポスト』である。
51人の役者全てに、カメラ前での演技の場を用意した本作は、必然的に群像劇となった。亡き夫の為に役者となろうとする切子、血塗られた不思議な魅力を醸す安子、小林監督ら劇内映画「仮面」の製作陣。他にも浴衣の劇団員、小林監督心中クラブ、エキストラ三人衆etc…。
老若男女、数多の登場人物がそれぞれに事情を抱えて生きている様が、バトンリレーのように描かれていく。そんな彼、彼女らに共通しているのは、映画に出たい(関わりたい)という想いである。およそ現代的とはいえない郵送という手段で、応募を募るオーディションが本作の中心にあり、役者から素人まで、多種多様な想いがそこに集う。「映画に出て有名になりたい」、「亡き夫の想いに応えたい」、「映画を始めて作ったときの初期衝動に立ち返りたい」、「自分を変えたい」。様々な想いの影法師として、エッシャー通りにある赤いポストは用意されている。そしてオーディションに様々な想いで応募してくる登場人物たちは、このワークショップに集った役者たちの姿と重なり合う。メタ構造になっているのだ。
 
メタ構造を通して強調されるのは
「映画(オーディション)とは、数多の想いが集う場所であること」だろう。
映画とはどんな芸術よりも多くの人が関わり、良くも悪くも数多の思惑が交錯する一つのカオスである。そこに訪れる者達は役者か素人かなど関係なく、何かしらの想いを持った人たちであり、彼らが交差する場所として本作は映画、もしくはオーディションを捉える。
 
膨大な人数が生み出す混沌から、映画という総合芸術における"予期せぬ化学反応"は生まれる。それはアドリブだけを意味せず、何より"出会い"こそが"予期せぬ化学反応"の化学式なのだとこの映画は思わせてくれる。
 
つまり、映画(オーディション)とは、想いばかりでなく、才能の集う場所でもあるということだ。切子や安子といった素人が主役に大抜擢されていくストーリーは言わずもがな、メタ構造としてその二人を演じた黒河内りく(切子)、藤丸千(安子)といった才能が発掘されたことがその証左だろう。
 
特に"藤丸千"という役者に私は近年稀にみる衝撃を食らった。多分一昨年に『佐々木、イン、マイマイン』で藤原季節や細川岳、萩原みのり、河合優実らに出会った衝撃を越えていた。
「声出してこう」
と叫ぶと共に始まる彼女のパートは本作で最も詩的。園子温監督らしいポエティックな血の表現と晴れ間の雨が良く似合う安子。破滅的な詩を直情的に語り、場を支配する安子。最近観た『静謐と夕暮』の山本真莉も素晴らしかったが、それとは対照的な衝動と躍動の、"動"の安子。
そんな彼女の演技に本当に魅せられてしまった。ここだけの話、その端麗な表情を観ただけで心ぐちゃぐちゃになって泣きそうになった。
 
映画に無名の俳優女優を起用するというのは、彼彼女ら自身にとってのチャンスだけでなく、我々観客がその彼彼女らに出会えるチャンスであると初めて気づいた。園子温監督は藤丸千との出会いを、観客にもスクリーン越しに共有してくれたのだ。ただその事に感謝してしまう。
 

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今から主役を乗っ取るよ。

映画とは人生が描かれる媒体である。そこには主役が居て脇役が居て、エキストラがいる。彼らには平等に人生があり、されど映画は不平等に主役以外の人生を省略してしまう。後ろに立っている人にも隣を横切る人にも人生はあるが、人や創作物の情報処理能力の限界として、またリミッター装置が機能した結果として、我々や映画はそれらの個に向き合うことが出来ていない。

オーディション会場においても同じだ。数多くの参加者が参加し、彼らには背景があり、ここに来るには十分な理由がある。しかし、そのオーディションというシステムの都合で、彼らがアピールできる時間は僅かにしか与えられない。それぞれが持つ想いの解像度は下げられ、群衆の中に埋没してしまう個がいる。

だが、そこにこそ、この映画が描こうとする「埋没しようはずもない"個"の躍動」というテーマがある。序盤、この映画はオーディションに訪れる人々に徹底してフォーカスしていく。そのおかげで彼らが何を想ってオーディションに来たのかを否応なく、観ることになる。観てしまったなら、我々はもう彼らを誰かの人生の背景として認識することは出来ない。そもそもとして、人ひとりには圧倒的な情報量があるはずなのだ。一人一人のエピソードがバトンリレー的に語られる度にその念は一層強くなり、群衆になど埋没することがあろうはずない"個"というものの力強さが画面を満たし始める。

彼らのほとんどは、オーディションに落ちてエキストラになってしまう。まさに彼らは誰かの人生の背景に押しやられるのだ。真ん中には、結局コネで選ばれた有名女優たちが、さも当然かのように立つ。映画冒頭の数秒のワンカットは、この後半の商店街の場面と同じシーンで、そこには大勢のエキストラと主演女優だろう女性がいた。しかし、今そのシーンを観たとして我々観客はどこに目線を向けるだろうか。間違いなく、エキストラに目を向けるだろう。

このクライマックスの商店街のシーンが、本当に素晴らしい。

商店街を丸ごと利用して360°どこに向けても役者が居て、映画になる空間。これ以上ない人生との相似。『仮面』を撮影するカメラと『エッシャー通りの赤いポスト』を追うカメラが同時に存在し、『エッシャー…』のカメラが主演を放置してエキストラを追っていくだけが、一種のカタルシスになっている。

膨大なエキストラたちそれぞれの思惑、キャスティングに不満のある監督ら製作陣の焦燥感、撮影現場は次第に混沌とし始める。我々はエキストラ一人一人の想いを知っているのだから、この混沌は必然にも思えるし、それは上述した"予期せぬ化学反応"の前触れのようでもある。群衆として"エキストラ"という仮面を被らされている個たちの反逆の舞台は着々と出来上がる。

そのカオスの中、切子の許に藤丸千演じる安子が駆けつける。安子と切子は一度はオーディションで起用されたが、プロジューサーの移行で降ろされてしまっていたのだった。

 

安子の手にはこの映画で何度も登場する白い"仮面"と"銃"が回りまわってきていた。この映画にはモチーフとして白い"仮面"と"銃"が度々登場する。漂白されたような無垢さと手作りの稚拙さが混在するそれらのモチーフは、不思議なことに誰がどこからこの映画に持ち込んだのかが最終的に不明になってしまう。それはまるでマウリッツ・エッシャーの『上昇と下降』のようなパラドックスを抱えている。(タイトルの由来が彼の名前であることは言うまでもない)

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では、出処が分からない仮面と銃は何を意味しているのだろうか。そこにこそ、この映画のテーマがある。群の中で生きざる負えないすべての個にとっての二つの選択肢。一つは個としての表情を失い、群れに埋没する"仮面"。もう一つは群れを抜け出し、自らを埋没させようとする者に反抗する"銃"。あらゆる個にいつの間にか備わっているという意味で、エッシャーのだまし絵のような無限回廊を思わせる。

 

そんな仮面と銃が安子の手にあることが意味するのは、エキストラとして追いやられた者達による圧倒的な個としての躍動、反逆の狼煙である。

「主役を乗っ取るよ」

その言葉と共にタッグを組んだ切子と安子の立ち姿は今でも忘れられない。

安子が主演女優をぶん殴り、切子は私が主役だと叫ぶ。監督は、亡き彼女の霊を観て、「家に帰る」と言って全速力で逃走する。至る所で想いがぶつかり合い、誰もが私が主役だと叫ぶ。カオスのボルテージは頂点に達する。

「このままだと世界から自由が締め出される!みんな立ち上がれ!」

「どうした!エキストラでいいんか!立ち向かえ!」

「通行人たちよ、さらばだ」

カオスの中を、そんな捨て台詞と共に安子と切子は走り抜けていく。誰もが、自らこそが主人公だと言わんばかりのリビドーを持って追いかけていく。そこには誰一人"エキストラ"に甘んじようという人はいなかっただろう。

園子温監督作品とは切っても切り離せない"疾走"と共に、虐げてくる者達への反逆は始まった。

 

 

ここで終わらないのが、この映画の真に凄い所だ。安子と切子が駆け抜け、たどり着いたのは園子温監督の過去作にも使われたこともある渋谷のスクランブル交差点。

彼女たちは変わらず、大勢の前で「みんな立ち上がれ!」「立ち向かえ!」と叫ぶ。だが、先ほど以上に強い意味がそこにはある。渋谷のスクランブル交差点は数多の映画で使われてきた場所であり、行き交う人々が、無断でエキストラにされる場所である。この映画が最もメッセージを届けたい人々、無意識に主人公の背景にされる人々がそこにいるのだ。

そしてここには、赤いポストはない。赤いポストは彼らをどこに行こうと回り込むように配置され、彼らをエッシャーのだまし絵のような無限回廊の中に閉じ込めていた。それは小林監督がいくら走っても帰ってきたことからも分かるはずだ。

だが、ここには赤いポストはないのだ。どう足掻いても抜け出せない無限回廊はまさに今の腐敗した日本の映画業界で、絶対に抜けられないだろうパラドックスを抱えた世界を彼女たちは疾走し、抜け出してしまった。

現実ではそう簡単には行かない。でも彼女たちの叫びは、映画の枠を超え、確かに現実の渋谷のスクランブル交差点に響いたのだ。

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最後に

松竹全盛期の『蒲田行進曲』や昔ながらの熱量を感じさせる『太陽を盗んだ男』等。昔ながらの日本映画の熱量を感じさせる映画だった。
 

こんな凄まじい映画にはそう出会えることはないだろう。

そして何より藤丸千に出会えたことに感謝しかない。