劇場からの失踪

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『エル プラネタ』虚飾の時代を見つめる女神の視座 劇場映画批評第32回

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題名:『エル プラネタ』
製作国:アメリカ/スペイン
監督:アマリア・ウルマン監督
公開年:2022年

 

目次

 

あらすじ

ロンドンでの学校生活を終えた駆け出しデザイナーのレオ(アマリア・ウルマン)は、母が暮らす生まれ故郷スペインの海辺の田舎町・ヒホンに帰ってくるが、母親(アレ・ウルマン)は破産寸前でアパートも立退を迫られているギリギリの状態だったー。母と娘はお金も仕事も住む場所まで厳しい崖っぷちに追い込まれながらも、SNS映えするスタイリッシュな暮らしを目指して、身の回りのものをネットで売ったり、ハッタリをきかせてお金を稼ぎ、なんとかその日を暮らしている。そしてある日、二人が立ち寄った雑貨店でロンドンから来たという店員(チェン・ジョウ)と出会うが・・・。

引用元:

synca.jp

 

皆さんは"アマリア・ウルマン"という女性を知っているだろうか。自分は一切に知らなかった。

調べてみると、「InstagramとFacebookでミレニアル世代の”リアル”と”虚構”を鋭く描いたパフォーマンス・アート「Excellences & Perfections」で一躍脚光を浴びた時代を象徴するアーティスト」と出てくる。

 

自身を被写体に、SNSでもう一人の"アマリア・ウルマン"を作り出して、「白人女性の典型」を演じる。そこに何も知らない群衆がリアクションするまでを「アート」として保存する。誰もが少なからずSNSで虚飾を行っている中で、じゃあ"リアル"と"虚構"の境界線はどこにあるのかをだろうか。そういったアートを作り出してきた存在だそうだ。

そんな彼女が次のプロジェクトとして手掛けたのが『エル プラネタ』である。

本作は彼女が【監督,脚本,主演,プロデュース,衣装デザイン】を担当し、彼女のルーツであるスペインの田舎町ヒホンでの体験に基づいたストーリーを語り、そしてこれまでのアート作品と同様に、ミレニアル世代的な視座で"リアル"と"虚構"の境界を鋭く描いた、言わば"アマリア・ウルマン100%の映画"となっているのだ。(あくまで自伝ではないらしいが)

 

 

要請された虚飾

※ここからネタバレあり

冒頭、カフェで誰かを待つ女性が一人いる。彼女はアマリア・ウルマン演じるレオである。そこに一人の男性が来る。彼の様子は至って普通、だがその口からは信じられない言葉が飛び出してくる。

「尿をかけられるのが好きなんだ」

明らかな売春の現場、しかし彼らが堂々と会話をする風景には、スペインが1995年に売春が合法化した歴史があり、そしてその根本的な原因にはスペインの抱える貧困問題があるのだ。

この映画の根底には、そういった貧困問題や移民問題(彼女らはアルゼンチンの移民)が世界恐慌以降のスペインにはあるという前提の下、現実と乖離した虚飾された生活をSNSで演じる母子の物語を語っていく。つまり虚飾という名の"虚構"が時代の要請であるという視座こそが本作の本質で、それはどこか世間に蔓延するSNSの過剰な虚飾運用への批判とは180°異なった優しい世界の捉え方であるのだ。

だからこそ、この映画はSNSのリアクションに固執するような様を強調して描かない。ユーモアを決して忘れないし、登場人物に善悪の配役をしない。

特に虚飾を悪として描かないという点で、注目したいのは妻子がいながらもレオと寝た若い男である。彼は"偽った者"であり、虚飾を働いた存在だといえるが、面白いのは本人に一切の"悪意"がないことだ。まさにSNS世代が当然の如く、虚飾を働く姿そのものだろう。彼を描くことはレオに災難をもたらす存在としての意味合いだけでなく、世界にはSNSに限らず、悪意のない虚飾が蔓延していることへの示唆となっているのだ。そしてその示唆は当然、根本にある表面化し辛い貧困へと向けられていく。

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母子のシスターフッド

貧困というテーマに対し、この映画は母子のシスターフッドという構図が提示される。二人の共依存から来る世界は貧困に苛まれど、幸せの滲む世界に見えてくる。その様子がヒホンの風景も相まって、非常に素晴らしい本作の見所となっている。

彼女らの行為は紛れもなく虚飾行為なのだが、本作では尊厳を持ち、気高くあろうとする行為に置き換えられている。特にここにおいて、モノクロの映像は効果的に作用する。色彩を奪う演出は貧困による見窄らしさと虚飾による豪華さを包括し、等しく美しく捉えてみせる。

『マクベス』のような世界の光暗を可視化するわけでもなく、『アーティスト』のような"過去"へのタイムスリップの手段としてでもない。初期ヌーベルヴァーグを連想させるモノクロは、世界は美しいのだと肯定するために機能するのだ。

ただ、この映画はどこか悲哀に満ちた一面も持ち合わせている。例えば、予告に印象深く使われていたレオが浜辺から海へと消えていくシーンである。これは彼女は男に騙され、自暴自棄になったシーンだが、次の母親とのシーンでは気丈に振舞っている。

対して映画のラスト、母親は急の警察の来訪によって連行されていく。しかし母は部屋にいる娘に一言も声を掛けない。この映画はそんな母を呼ぶ声で終わりを迎える。

二人は仲睦まじい姿を常に我々に見せているが、時折互いを慮るが故に口を閉ざして、関係を遮断してしまう。そこに自分は二人だけの世界に入った亀裂を見た気してならないのだ。

 

 

 

最後に

個人的にはアマリア・ウルマンというアーティストを知ることが出来ただけで儲けもの、更にその初長編作品を劇場で観れて幸運の極みといった感じであった。