劇場からの失踪

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『こちらあみ子』何かが終わったけどまだまだ続くよ 劇場映画批評第69回

題名:『こちらあみ子』
製作国:日本

監督:森井勇佑監督

脚本:森井勇佑

音楽:青葉市子

公開年:2022年

製作年:2022年

 

目次

 

あらすじ

芥川賞作家・今村夏子が2010年に発表したデビュー小説を映画化。広島で暮らす小学5年生のあみ子。少し風変わりな彼女は、家族を優しく見守る父と、書道教室の先生でお腹に赤ちゃんがいる母、一緒に登下校してくれる兄、憧れの存在である同級生の男の子のり君ら、多くの人たちに囲まれて元気に過ごしていた。そんな彼女のあまりにも純粋で素直な行動は、周囲の人たちを否応なく変えていく。大森立嗣監督作などで助監督を務めてきた森井勇佑が長編監督デビューを果たし、あみ子の無垢な視線から見える世界をオリジナルシーンを盛り込みながら鮮やかに描き出す。主人公・あみ子役にはオーディションで選ばれた新星・大沢一菜が抜てきされ、井浦新と尾野真千子があみ子の両親を演じる。

引用元:

eiga.com

今回紹介するのは、『こちらあみ子』である。

衝撃。何に衝撃を受けたのかというと、自分が本作を観ていて思い出したのがアピチャッポンの『メモリア』と『二トラム』だったからだ。ただそれは映画の外形をなぞって感じた感想で,中身は全くもって違うので本質的な部分ではないが、ただ同時にそれら傑作を想起させるだけの演出と、ずっしりとした「不理解」のテーマがあったという証左といえるかも。

では早速語っていこう。

※以降ネタバレあり

 

「不理解」の距離を飛躍しない

本作はADHDの女の子の視点で彼女を取り巻く環境を描写していく。彼女を取り囲む世界は、出産から流産、兄の不良化、中学への進学、離婚、引越しと目まぐるしく変わっていく。しかしその中で彼女の個性は不変のものとしてあり続ける。劇伴も常に明るい印象を受ける単調なピアノの旋律が流れ、目の前で起こっている出来事に対して不自然に鳴る。
いわゆる「デリカシーがない人」と表現できる彼女の在り方は、それが世界(家族)を刺激して、周りの人を苦しめるのだ。亡くなった赤ちゃんの墓を作り、度々家族で話題にあげ、ヨシくんに嫌われているのにつきまとい、彼女は一切空気を読まない、読む空気を知らないのだ。そこに何一つ悪意はない、だがそれでも彼女は取り巻く全て傷つけるのだ。

私はそんな彼女に「君は悪くない」と言ってしまいそうになるが、彼女も彼女を中心とした"波紋"に薄々気づき、「どこが気持ち悪いか教えて」と言う姿に言葉が出なくなる。彼女には自分らしくあって欲しい。だが彼女が現状をどうにか変えたいという意思も尊重したい。変わらず元気であり続けるあみこにかかる影が何より心にくる。

ラストシーンで思い出したのは『二トラム』。あみこは二トラムと同様に不理解の壁の向こう側の存在で、だからこそ同様に海岸をまるで彼岸の我々を見るように見つめる。だが、二トラムとは違い、あみこはその先にサーファーではなく想像の産物を見る。妄想からの卒業は確かにどこか成長の兆しのように思えるが、「良かった」では済ませない悲しさを帯びている。

この物語は最後にはおばあちゃんの元に捨てられてしまうことで終わりを迎える。不理解の先にあるバットエンドだ。
あまりに救いがなく、こんなバットエンドも久しぶりという感じだ。
父親が怪我したあみこを必死に病院に連れ込む姿や顔を見せなかった兄貴があみこのために取った最後の行動を思い出してしまい、そこにまだ希望と呼べるものはあった気がする。だからこそ、このバットエンドは辛い。

 

色々書いたが総評としては、あみことそれ以外、そこには間違いなく大きな「不理解」の距離があり、それを映画的な飛躍で縮めることを一切しない、それがまさに本作の素晴らしいところだと思う。