劇場からの失踪

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『少女は卒業しない』4人の少女は卒業を廻る 劇場映画批評110回 

題名:『少女は卒業しない』
製作国:日本

監督:中川駿監督

脚本:中川駿

音楽:佐藤望

撮影:伊藤弘典

美術:宍戸美穂
公開年:2023年

製作年:2023年

 

目次

 

あらすじ

廃校を控え、校舎の取り壊しが決まっている高校。進学のため上京するバスケ部長・後藤由貴は、地元に残る恋人・寺田との関係が気まずくなっていた。軽音楽部長の神田杏子は、幼なじみの森崎に思いを寄せている。クラスになじめず図書室に通う作田詩織は、図書室の管理をする坂口先生に淡い恋心を抱いている。そして卒業生代表の答辞を務める山城まなみは、ある思いを恋人に伝えられずにいた。

引用元:

eiga.com

※以降ネタバレあり

「変化に晒され、モラトリアムの出口を前にした若者達」

卒業を目前とした高校生達(主に女子高生が中心)は"終わり"を前にして何を想い、何を選択するのか。

4つの人間関係が作中でフォーカスされるなか、片や卒業を待ち遠しくしている人、片や卒業したくないと考えている人、そして卒業が=別れである人。

卒業を前に、停滞したモラトリアムが壊れてしまうこと、別れに至ることに浮き足立って藻掻く彼女達の物語は、卒業というものが彼らの人生を決定的に変えてしまうイニシエーションとして機能する。
朝井リョウ繋がりで例えるのなら"桐島"に該当するのが本作における"卒業"というイニシエーションなのだ。
卒業に対する想いは違えど、彼女達にとって同様にイニシエーションであるのは、自分の感覚としては、卒業式はイニシエーションとしての役割は形骸化してると思っているため、なんかモヤモヤしてしまった。なのでもっと大人(先生や親)の視点を持ち込むことでモラトリアムであることを強調してたらなと思ったりしたのだが、しかしその少女達だけで完結していることに本作のテーマともいえる「変化に晒され、モラトリアムの出口を前にした若者達」の物語が描けるのかもしれない。

4つの人間関係が描かれると言ったが、それらは一つ一つに味わいが違い、その深刻さやエピソードとしての完成度はかなり異なると感じた。「卒業」を中心とした物語であることとぐらいが共通点として言えるかもしれない。一つ一つ考えてみたい。

 

作田について

まずは中井友望演じる作田について。彼女は作品において唯一「早く卒業したい」と願っていた人である。その原因は学校に馴染めなかったことがある訳だが、藤和季節演じる坂口先生との交流を通して、彼女なりの学校生活への別れ難さに気づくことになるのだ。彼女が「卒業」というもの逆説的に「特別」なものにしているという点でも、作品全体の指向性は統一されている。彼女は唯一自分と立場を同じくする「卒業」に意味を持たない人物だったのに、と寂しく感じてしまい、「自分のいない映画」という感覚に陥るきっかけにもなった。
坂口との関係性は「気持ち悪い」先生と生徒の恋愛とは逸した距離のとり方を保ちながらも、しっかりと関係性を描いているのは上手い。
彼女に関しては、やはり「卒業」という行為が、別れももたらすだけではなく「脱出」の機会であるという話に出来た方があらゆる人に向けた話に出来たと思う。少女達の群像劇なのだから、色々な方向に話が伸びていても良かったのでは?『桐島、部活やめるってよ』では出来ていたのに、本作ができてないのは根本に少女への理想化された像があるからな気がする。

 

後藤由貴について

二人目、小野莉奈演じる後藤由貴について。彼女はあの作品における大多数の代弁者となりうる。廃校になることが決定した地方の学校である島高において、都会に進学する人々とそのまま残る地方組の「別れ」は多くの人にとって卒業というイベントと紐づけられる「別れ」だ。彼女の場合、彼氏が地元に残り、自分は都会に出る為に遠距離恋愛になることが決まっている、そして実質的な「別れ」であることを互いに察しているという状況で、どう最後を飾るのかの話になっている。

このエピソードには「思い出作り」という実際の卒業式の意味合いが色濃く反映されていて、尚且つ曖昧に引き伸ばすことで"今"を良しとする二人の有限な恋愛を描いていたと思う。これぞ高校生の恋愛という感じで、他の誰よりもステレオタイプな高校生を描いていたと思う。彼女の物語が個人的にはいちばんどうでもよくて、そして"高校生"なんだろうなと感じていて、昼間の屋上の花火、そこに含まれる如何にも高校生な非日常性とお馬鹿な感じが一周まわって良かったかもしれない。

 

神田杏子について

三人目として小宮山莉緒演じる神田杏子。彼女はバンド部の部長で、卒業ライブを取り仕切っている。ライブに出演するバンドの中の一組である「ヘブンズ・ドア」のメンバー森崎との中学生来の関係性が本作では描かれるのだが、ここが一番の不満な点かもしれない。ヘブンズ・ドアはエアバンドかつパンクな風貌での演奏を行うため、生徒の中で笑いものにされている。
当日には彼らの衣装や音源が盗まれる事件も発生して、森崎は一人でアカペラで出場することになるのだが、それらは全て「実は歌が上手い森崎の存在を彼をバカにしている生徒に知らしめる為」という理由で神田が仕組んだ事だった。
これは神田の片想いの話であり、舐めてた奴らを見返してやるという話なのだが、それが森崎の「ヘブンズ・ドア」への想い入れ等の彼自身の意志を無視した神田の我儘で成り立っているのが酷い。俺はどんなに笑われようと「ヘブンズ・ドア」をやる森崎が見たかった。それを肯定せず、彼に(例え歌が上手いにせよ)アカペラを歌わせる話はいくらなんでも酷い。
常に"少女"達の目線であり、割かし一方的な行動やそれに合わせた都合のいい展開は本作全体にあることで、その事に自覚的でない点はある意味、その若年性そのものといえるかもしれないが、単に感動的に消費できないものになっている。

 

山城まなみについて

4人目について、河合優実演じる山城まなみについて。彼女はある意味、高校生の卒業の物語として、逸脱した「喪失」を抱えているものとして描かれる。後藤の対称的な存在といえるし、ある意味そのエピソードの中で描かれる窪塚演じる佐藤俊が唯一"卒業しない存在"なので、本作のタイトルは彼と共に卒業しないことを望む山城にこそ相応しいと思う。俊の死の理由を描かないこと、そしてあくまで山城まなみの視点を通して主観でしか描かれないという点において、生者の物語に徹しているのがいい。
また本作は、四つの話を時系列や場所を緩やかに繋ぎつつも結構バラバラに描く。それらは彼らが数年後に至るまで心に焼き付けているだろう「思い出」のスナップのようである訳だが、山城のみ、過去の出来事が他の少女達と並列で描かれている。それは相対的に山城が「過去に囚われている」ことを強調する
そういった意味でも、彼女の物語は異質で切実なものになっている。それらを成立させていたのは河合優実の演技力に他ならず、彼女の逸脱した演技力が本作の白眉なのは間違いない
彼女の卒業したくないという感情は、そのまま俊との時間を風化させたくないという感情であると思うと、だれよりも彼女の「卒業」は重い。
「卒業」の重み、つまりそのイニシエーションの力は人それぞれで、自分としては皆無だったのだが、それが場合により山城にとって一高校生の域を超えたものになるのだろう。
彼女がいるからこそ、本作は話に深みをある多層的な話になっていたと思う。

 


このように四つの少女の物語は「卒業」を中心に周り、多層的に「別れ」を描き出す。「終わり」を目前としてどう行動するのか。その様に一定の感動は覚えた。
ただここまで書いておきながら、自分としては総評としてはあまり楽しめたとはいえない。それぞれのエピソードの中にある違和感や、4名の話をしながらもカバーされない「卒業」=脱出として、嬉々とする人達に自分が居たことが主な原因だろう。