劇場からの失踪

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『きっと地上には満天の星』リトルに生えた翼 劇場映画批評74回

題名:『きっと地上には満天の星』

原題:Topside
製作国:アメリカ

監督:セリーヌ・ヘルド監督、ローガン・ジョージ監督

脚本:セリーヌ・ヘルドローガン・ジョージ

音楽:デイビット・バロシュ

撮影:ローウェル・A・マイヤー

美術:Luke Green
公開年:2022年

製作年:2020年

 

目次

 

あらすじ

ニッキーと5歳の娘リトルは、ニューヨーク地下鉄の下に広がる廃トンネルで、貧しくも仲むつまじく暮らしていた。そんなある日、廃トンネルで不法居住者の摘発が行われ、母娘は地上への逃亡を余儀なくされる。生まれて初めて外の世界に出たリトルを連れて街をさまようニッキーだったが……。

引用元:

eiga.com

今回紹介するのは、「モグラびと ニューヨーク地下生活者たち」を原案として、ニューヨークの地下に実際に存在した人々からインスパイアされた『きっと地上には満点の星』である。セリーヌ・ヘルドとローガン・ジョージのコンビによる初長編作品である。短編『キャロライン』『マウス』から二人の実力が窺え、特に『キャロライン』は本作と通ずる苦境における母子の関係性への視座は秀逸という他ない。どちらの作品もセリーヌ・ヘルドが主演しており、演者としても魅せる。

では早速語っていこう。

 

※以降ネタバレあり

 

 

 

見つめる先

ニューヨークの地下鉄に住む人々は実際にいる。そんな彼らの実情にインスパイヤされた物語が本作である。
生まれてこの方、地上に出たことの無いリトルとそんな彼女に「翼」の空想話を語り、地上では水商売で働くニッキー、彼女達はついに地下からの退去を迫られることになる。

一貫したリトルの視点で語られる本作は、大きくわけて2つのカットで構成される。

一つはリトルとニッキーを被写体としたカット。これは動きの多い被写体を手持ちのカメラで追ったもので、物語の緊迫感と狭い視野や世界、行く宛てのない彼女達の焦燥をドキュメンタリックにすることで上手く捉えている。
もう一つはリトルとニッキーの視点だ。彼女達が被写体とされているとき以外はいつも、彼女達の視線、見つめる先が描かれる。リトルにとってその多くは、上を見つめる行為であり、また地上に出てからはそこに地上の知らない人、モノへの好奇心と恐怖に変わっていく。地下にいた頃は幻の世界だった地上が一転、恐ろしいところに思えて、逆に地下の何も知らなかった頃こそ、リトルにとって幻のような理想郷だったのだ。


そんなリトルの視点ばかりを映していた映画が、鳥を画面に捉えた時、実像として「翼」というモチーフを立ち上がらせたとき、ニッキーへと視点を移す。ニッキーに移ることで、リトルは画面から消え失せる。思えば本作においてリトルの見える範囲を反復するニッキーが表すのは、リトルの世界(地下)と外の世界(地上)を行き来することだけではなく、ニッキーの世界からリトルが消えることでもあるのだ。すなわち初めてニッキーの視点に移ったこのシークエンスは、リトルのいない恐怖、見えない恐怖をニッキーが自覚した瞬間ともいえる。ニッキーの恐怖は観客にも伝わり、一切省略しない電車の乗り換えてリトルを探すシーンは、凄まじいサスペンスを生み出していく。

 

眩しい光の先

リトルを失い、そして同時にニッキーはリトルの幸せについて思い当たる。リトルが地下から開放されたのは得てして「翼」が要因であるというのが本作のモチーフの上手い使い方になっている。
ニッキーが最後にリトルとの別れを選択するシーンは娘が電車の席の下に隠れている姿、つまり地下生活している娘を客観視することになったからこそ選択だというのも上手く描けている。

差し込む光と塵を、星と間違えてしまう美しいシーンから始まり、幾度となくその眩く白い光はリトルを照らす。リトルにとって希望のような未来のようなそれは、最後にはニッキーへと降り注ぐ。それは一瞬のことであるが、されど福音であることに違いない。