劇場からの失踪

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『選ばなかったみち』より身体的な平行人生の体験 劇場映画批評第39回

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題名:『選ばなかったみち』
製作国:イギリス/アメリカ
監督: サリー・ポッター監督
公開年:2022年

製作年:2020年

 

目次

 

あらすじ

ニューヨークに住むメキシコ人移民レオ(ハビエル・バルデム)は作家であったが、認知症を患い、誰かの助けがなければ生活はままならず、娘モリー(エル・ファニング)やヘルパーとの意思疎通も困難な状況になっていた。

ある朝、モリーはレオを病院に連れ出そうとアパートを訪れる。モリーが隣にいながらもレオは、初恋の女性と出会った故郷メキシコや、作家生活に行き詰まり一人旅をしたギリシャを脳内で往来し、モリ―とは全く別々の景色をみるのだった―。

引用元:

cinerack.jp

 

今回紹介するのはサリー・ポッター監督が若年性認知症だった弟の介護の実体験に基づいて撮った『選ばなかったみち』だ。本作はハビエル・バルデムと我らがエル・ファニングが親子役で初共演しており、彼らが演じるレオ(ハビエル)とモリー(エル)が共に過ごす24時間を二つの「在ったかもしれない人生」をレオの頭の中で起きている記憶とも想像とも分からない出来事として混濁させてながら描いていく作品になっている。説明も少ないため、非常に分かりづらい作品になっている。

記憶と想像、その曖昧さをサリー・ポッター監督はインタビューで「オレンジを食べているときの脳波と、オレンジを食べているのを想像したときの脳波は、全く同じだそうです。これはつまり、私たちの脳が現実だと認識していたものが、果たして本当にそうだったのか、私たちは測る手段を持っていないことを意味します。」と語っている。

昨今はMCU作品や濱口竜介の『偶然と想像』など、ifの人生を提示する作品が増えているような気がする。それらはマルチバースという概念が浸透し、またバーチャルな世界でのアバターなど、実人生とは切り離した別人生の存在を認識しやすい時代だからこその要請だと考えることができ、だからこそ当然の概念として「選ばなかったみち」(もしもの人生)はフィクションで用いられている。

その中でサリー・ポッターの言葉はより身体的に踏み込んだ形でifの人生について考えるきっかけとなる。記憶がもし、想像と区別がつけられないのなら、「あのとき別の行動をしていたら」と想像することは"記憶"となり、そしてその記憶は自分とは違う"自分"にとっての確かな体験とみなせるのではないか。そうしていくつもの"自分"が生まれているのではないかと考えてしまう。敢えて一言で言うなら「脳の機能としてより身体性が担保されたマルチバース体験」、非常に観念的な話であるが、それを踏まえてみると、より一層本作を楽しむことができるだろう。

それでは語っていこう。

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サリーポッターとエルファニング

とはいいつつも、本作は決して傑作と褒め称えることが出来るような作品には仕上がっていない。正直いって物足りない作品であった。父を介護する娘の話としては構成の見事さにおいて『ファーザー』に劣るし、「選ばなかったみち」(もしもの人生)を描いた作品としては『ミスターノーバディー』(ジャン・ヴァン・ドルマル)に劣る。ただそれでも駄作と割り切ることもできない点がいくつかある。

そのひとつはエル・ファニングの演技だろう。彼女は以前にも『ジンジャーの朝 ~さよなら、わたしが愛した世界』でサリー・ポッター監督と仕事をしたことがあり、その頃からサリー・ポッターのエル・ファニングに求める役割は変わらず、不遇に追い込まれる女性を演じさせている。『ジンジャーの朝 ~さよなら、わたしが愛した世界』ではエル・ファニングはまだ13,14歳ぐらいであり、何も知らない少女が取り囲む世界の厳しさに不遇に追い詰められる姿を演じていたが、『選ばなかったみち』では大人の女性として、自身の立場と責任を理解しているからこその不遇さを体現する。

エル・ファニングの最大の魅力はその無邪気な笑顔にある。しかし本作においてはその無邪気な笑顔は、彼女が気丈に振る舞うための"外面"でしかなく、その内側にある叫んでしまいたい鬱屈した感情を押さえ込むためにある。そして時にはその感情が漏れ出し、叫びだしてしまうが、すぐに冷静になって父と家路につく大人としての弁えもどこか寂しさを感じさせる。

父を愛しながらも彼女自身の人生を台無しにしかねない父の現状に、どう向き合えばいいのか分からない。そんな板挟みな状況でそれでも、と生きるモリーをエル・ファニングが元来持つ儚さと積み重ねて獲得した多層的な演技によって見事に表現していた。

 

不鮮明

上記以外にもハビエルの演技も外見も相まって「大きな赤ちゃん」のようで良かったし、劇中で描かれる複数の人生を映像の質感で分けていたりするのも良いポイントであった。ただこの映画はやはり意図的に不鮮明にしていた部分が映画の深みに繋がっていないという欠点を抱えている気がする。本作は上述したように若年性認知症のレオを介護するシーンが中心に描かれている。ただこの「若年性認知症」という言葉は劇中で一度も使用されないし、彼がどういう状態なのかについて具体的に言及することは最後までない。またモリーが何の仕事をしているのかや眼科や歯科に行く理由なども不確かなままに進んでいく。それらの説明を敢えて控えた不鮮明さは本作の肝である「選ばなかったみち」を描く上で邪魔になっている。つまり映画全体が不鮮明なままに進みすぎるために、観客が置いてきぼりになってしまうか、意図を汲むのに必死でキャパオーバーしてしまうのだ。劇中で平行して描かれる人生が、彼の実際の記憶なのか、はたまた頭の中で起こっている想像なのか、そこを不鮮明に描くことが本作の意図、特徴であるため問題はない。だからこそもっと早い段階で小刻みに情報を開示し、本筋である平行して描かれる人生に集中できるような構造にすべきだった。

 

最後に

ラストの終わり方の唐突さは『複製された男』を思い出す構図だった。レオに選ぶ権利があり、ギリシャから彼女の元に帰ることを選択し、彼の現在があるように、モリーにもまた「選択する権利」がある。そんな当然のことを思い出させるラストであった。

正直言って不満の多い作品でしたが、記憶と想像の話は興味深かったり、エル・ファニングの演技を素晴らしかった。エル・ファニング好きならおすすめ。