劇場からの失踪

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『真夜中乙女戦争』 画面の先の東京を憂うことができるのか。 劇場映画批評第35回

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題名:『真夜中乙女戦争』
製作国:日本
監督: 二宮 健 監督
公開年:2022年

 

目次

 

あらすじ

4月。上京し東京で一人暮らしを始めた大学生の“私”。
友達はいない。恋人もいない。大学の講義は恐ろしく退屈で、やりたいこともなりたいものもなく鬱屈とした日々の中、深夜のバイトの帰り道にいつも東京タワーを眺めていた。

そんな無気力なある日、「かくれんぼ同好会」で出会った不思議な魅力を放つ凛々しく聡明な“先輩”と、突如として現れた謎の男“黒服”の存在によって、“私”の日常は一変。

人の心を一瞬にして掌握し、カリスマ的魅力を持つ“黒服”に導かれささやかな悪戯を仕掛ける“私”。さらに“先輩”とも距離が近づき、思いがけず静かに煌めきだす“私”の日常。
しかし、次第に“黒服”と孤独な同志たちの言動は激しさを増していき、“私”と“先輩”を巻き込んだ壮大な“東京破壊計画=真夜中乙女戦争”が秘密裏に始動する。

引用元:

movies.kadokawa.co.jp

 

今回紹介するのは、二宮健監督作品『真夜中乙女戦争』。二宮健監督といえば『チワワちゃん』が一番に頭に過ぎり、東京を軽薄かつ真剣に生きていた門脇麦ら群像が、夜を駆ける刹那の情景が今でも思い出される。本作はそんな『チワワちゃん』に通じる「艶やかな東京の街を舞台にした破滅的な若者達の青春」というテーマと『ファイトクラブ』を意識した諸々が魅力の作品である。

だが、忘れてはならないのは本作が単なる『ファイトクラブ』オマージュ作品なのではなく、現代日本に生きる若人の為の『ファイトクラブ』として、アンサーを捧げていることだ。

 

 

現代日本に生きる若人の為の『ファイトクラブ』

『ファイトクラブ』を観たことがある人なら誰もが気づいただろうが、本作は色々な点で類似点が挙げられる。まずは基本的な三人の関係だ。"私"を中心として二人の人物、一人はカリスマ的な存在感を放ち、主人公に既成概念や現状を破壊する甘美な誘惑をする男"黒服"、もう一人は大学のサークルの先輩で私の片思いの相手"先輩"。男二人、女一人の関係は『ファイトクラブ』の私(ナレーション)とタイラー、マーラの関係に近しいものがある。

また"黒服"によって大学生活を抜け出し、破滅活動に勧誘され、彼と"私"が組織した秘密結社の発起人になっていく流れと、結末として「真夜中乙女戦争」があるのも『ファイトクラブ』のファイトクラブ設立の流れと「オペレーションメイヘム」に相似する。

他にも細かくあげればまだまだその相似はあり、原作では"黒服"がイマジナリーフレンドだということもあって、一層その相似は興味深い。(因みにだが、ファイトクラブへのオマージュは作者も公言している)

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だが、注目すべきはこの2作品の違いだろう。

『ファイトクラブ』が1番に注目されるのは、タイラーと"私"(ナレーション)の関係から見えてくるトキシックマスキュラリティーや物質主義に対するカウンターからもたらされる有害な甘美さだろう。しかし本作においては、そこにフォーカスせず、現代日本だからこその仮想敵とロマンスが描かれる。確かに『ファイトクラブ』同様の流れを進むが、どんな時も主人公の心を支配していたのは"先輩"への恋心だった。自分が原因で東京が爆破される前日も当日も、事後も、どんなに状況が悪くても結局彼の中で常に優先順位の先頭にあったのは、恋慕なのだ。

ただし、この恋慕も決して大学生特有の「恋愛>世界」が成立してしまうロジックだと吐き捨てられるものではない。主人公にとって自分を"普通"と繋げてくれるもの、唯一世界に自分を繋ぎとめてくれるものがその恋慕なのだ。

 

パンフレットによると、『ファイトクラブ』のように街を破壊しても今の観客(コロナ禍以降)にとって響きはしない、だからこそ崩壊した東京を背景に、"先輩"と電話越しに、「自分が"先輩"の本命じゃなかったこと、一生恨みます」と伝えて終わるのだと、監督は語っている。当たり前に遠くの場所と繋がれる現代において、その遠距離で関係に終止符が打たれるラストこそが、横脇に立って終わる『ファイトクラブ』ではない、現代日本の若人にとっての『ファイトクラブ』としての最適解なのだ。

 

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画面の先の世界と、この世界

黒服と”私”にとって"映画"は非常に重要なモチーフとして存在した。二人の秘密基地には映画館(スクリーン)があり、二人は『ノスフェラトゥ』を観たり、『アウトブレイク』の話をする。そして興味深いのは彼らが、何故か自分達が映画世界に居ることを自覚的であることだ。冒頭に"私"は「この映画は後110分もある」と言い、そしてクライマックスで「邦画史上最高の復讐劇の主人公だ」と黒服は"私"に言い放つ。台詞の端々から"映画の中にいる"ということを彼らは意識しているのではないかと思わせてくる。

そんな"映画"という要素に対して、極めて重要な2つの要素が絡みあい、この映画は異質さを獲得していく。その一つはパラレルワールドという要素だ。

『真夜中乙女戦争』は、この世界が我々観客の居る現実のパラレルワールドであるとはっきりと示す。勿論そんな事はフィクションなので当たり前なのだが、念を押すように、マスクで大学生活する別世界の"私"を描写し、その世界には"黒服"はいないのだと提示して彼らの世界と我々の世界は違うと印象づける。

それは我々の世界には"コロナ"があり、"黒服"はいなくとも世界は一度崩壊して止まっているという現実を唐突に突きつける他、それ以上にこの映画と観客の間に隔たりを作ることで、映画とはパラレルワールド、つまり他人事の世界のことだとする為に機能る。

そしてここでもう一つの重要な要素として"画面"という要素が出てくる。

画面はこの映画において何度も印象付けるように使用されていて、例えば一番に思いつくのは"先輩"とのラブホテルのシーンで、二人の姿は突如として画面の向こうの出来事として描かれる。他にも彼らが世界と接続する方法としての携帯、黒服が「教会」と例えた映画館のスクリーン、など何度も"画面"は登場する。

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画面とは無限に広がり、自分をも包み込む世界を四角く切り取り有形にしてしまう行為だ。そしてそれはこれまで身近にあったはずの世界を四角に封じ込め、距離を置いてしまう行為に等しい。だから画面の向こうにある世界は我々には、どうしても他人事となってしまう。

そんな"画面"というモチーフを利用して、 この映画は何度も今彼らが立っている現実を突き放して、現実を他人事にしてしまう。冒頭の反転するカメラワークや回転して浮遊するようなカメラワークもそれを助長させていき、彼らの現実に不確かさを持ち込むことで、"私"と世界(現実)を乖離させようとする。

 

ここまでで説明した「映画」、「パラレルワールド」、「画面」、この3つの要素は、"私"や"黒服"にとっての劇中の現実を不安定なものにして、彼らがどこか俯瞰的に世界と接しているような印象を植え付ける。それはフィクションと現実の間に掛かる距離と同じであり、現実を非現実的にしか認識できない若者の精神を的確に表している。そしその総決算として、秘密基地のスクリーンは爆破され、本当の"スクリーン"が登場し、"画面"に映るのは燃える街と東京タワーである。主人公にも誰にも結局止められず、包場なく決行された「真夜中乙女戦争」の結果。この瞬間、この凄惨な光景は、主人公にとってただ美しく他人事にしか映らない。自分が始めたこの結末でありながら、彼にとっては"先輩"との恋愛こそが自分事で、この光景は他人事なのだ。

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それはこの映画がこれまでに積み重ねてきた"私"と現実との距離感であり、そして同時に、何度も"画面"を意識させられた自分にとっても他人事。そこには映画内で起こる出来事にどれだけ感情を割けるのか、という疑問が突きつけられるようだ。自分は正直、ここまで映画内の世界との隔たりを感じたことはなく、映画館のスクリーンを意識し、スクリーンと自分の距離を遥か遠く感じたのだ。そして画面の向こうのパラレルワールドに、燃える東京に、何を想えばいいのか分からなかった

これは決して貶しているのではない。本当に凄まじい映画体験だったのだ。私は、もし同じ立場に立った時、大した思い入れのない街が燃える様を見て、憂うことができるのか。それよりも意中の誰かとの明日をふと考えてしまわないだろうか。

 

"私"にとって普通は遠く手の届かないもので、特別は容易に手に入る。世界の崩壊は他人事で、自分事な失恋こそが悲惨な現実で。あべこべにも思える他人事の世界と"私"は、この映画と私だったのだ。

 

最後に

自分は以前からスカイツリーより東京タワー派だったので、綺麗に撮られていた東京タワーだけでも観る価値はあった。

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