劇場からの失踪

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『世界の終わりから』劇場映画批評122回 大きな絶望と微かな"福音"

題名:『世界の終わりから』
製作国:日本

監督:紀里谷和明監督

脚本:紀里谷和明

音楽:八木信基

撮影:神戸千木

公開年:2023年

製作年:2023年

 

 

目次

 

あらすじ

事故で親を亡くした高校生のハナは、学校でも自分の居場所を見つけられず、生きる希望を見いだせない日々を送っていた。ある日、ハナの前に政府の特別機関と名乗る男が現れ、男から自分の見た夢を教えてほしいと頼まれる。まったく心当たりがない男の依頼に混乱するハナ。そしてその夜、ハナは奇妙な夢を見る。

引用元:

eiga.com

※以降ネタバレあり

 

「絶望」の二文字

映画の冒頭、ポスターのイメージから圧倒的に乖離したモノクロで映される侍達の殺し合う時代劇的な映像に衝撃を受ける。現代劇じゃなかったか?と頭をよぎる間もなく、その映像の良さに目を奪われた。
完全なモノクロではなく寒色を少し残し、赤色がアクセントとして点在する、まるで銀残しのような映像感。モノクロ映像の用途の一つとして「過去を描く」というものがあるが、本作はそんな普通とは異なるモノクロであることから「過去とは別の何か」を表す映像なのだ。


そんな映像は突然として現代劇に切り替わる。どうやらそれは"夢"だったようだ。
本作はそんな不可思議な"夢"を見る女子高生が、2週間後に迫る世界の終末を防ぐことの出来る唯一の人間として、宿命を背負っていく物語になっている。

本作を観ていて常に自分を襲っていたのは「絶望」の二文字だった。「この映画を作っている人は本当に世界に絶望しているんだな」と思わざるを得なかった。
今、ここで終わろうとしている世界は全くもってフィクションの"セカイ"ではない。我々が生きているこの世界なのだ。
コロナやウクライナ侵攻といった近年世界全体に起きたことを思えばその終末が目前に来ているような絶望感や恐怖というものは、簡単に共有することができる。また国内の政治への不安や国全体が貧乏になっていく現状は、特に若者にとって"明るい未来"を思い描くことを難しくしている。監督である紀里谷和明は、そんな世界を今の若者がどう感じているのかに着目し、「女子高生を主人公」にすることを前提に、この映画を観て若者は何を感じるのだろうかと話を進めていったそうだ。

 

 

確かに感じる不安、それらがひとつの結実として「終末」を迎える。それに対して立ち向かう若者はただ一人、志門ハナである。
彼女はとにかくこの世の若者の絶望を煮詰めたような設定だ。親は事故死していて、寝たきりのおばあちゃんも遂に死んでしまう。天涯孤独の彼女はバイトでギリギリの生活をし、ヘアメイクの専門学校の進学を諦める。更に加えて学校に行けばイジメがあり、誰にも言えない過去がある。
そんな彼女が、世界の終わりの命運を左右する唯一の人間となるのだ。
世界を終わらせるものの正体は、最初分からない。(後半分かるが正直どうでもいい要素だ)
しかしその正体が分からずとも、そもそも「この世界に救う価値はあるのか」という命題が、彼女に起きる不幸や世間の露悪的な衆愚描写によって揺さぶられることにこそ、本作意図するところがある。
最近では同じような終末論の映画として『ノック 終末の訪問者』があり、同じくニヒリズムとの対決という点では『エブリシング・エブリワン・オール・アット・ワンス』があり、比較が可能だろう。それらの作品と比べるとき、際立つのは、上述した「絶望感」だ。そしてその「絶望感」は彼女を取り巻く世界と彼女の"夢"として描かれる世界によって描かれるのだ。
現代のハナとモノクロ世界のユキ、どちらもが完全に状況に支配され、絶望的な状況に陥っている。
このふたつの世界は現実と夢でありながら、次第に曖昧に溶け合っていく。現実にそれほどの価値はなく、夢には想像以上に価値があり、それらは等価であるというような描き方は、紀里谷監督の主義に基づくもので、ある意味この映画における終末を現実に接続させる最も重要なファクターといえるかもしれない。
またモノクロ世界が日本の過去を連想させることは、ひとえに人類史という時間軸においても「絶望」は蔓延し、終末は起こりえたことを示唆することに繋がる。つまり、いつだって世界は滅びうるのだという達観であり、だからこそ"今"滅びるという物語に監督の大きな絶望と微かな"福音"を感じさせるのだろう。

ここで一番自分が心に響いたシーンを言及したい。それは政府の江崎の傷にメイク道具を施しているシーンだ。
普通なら怪我に対しては薬や、なければ氷を当てるだとかをするはずだ。しかし本作ではその傷を見えないように"隠す"のだ。咄嗟かつ当然にその判断してしまうハナという少女は、そうやって自らの身体的な傷や心の傷を癒すことなく、隠して凌いできたのだろうと分かってしまうそのワンシーンは、過去から現在に至るまで傷を癒すことなく隠してきて、遂に限界を迎えた世界と少女の姿がどんなシーンより強く結びつけていた。なぜ彼女なのか、そこに明確な理由を提示されるが、それ以上に彼女の限界は世界の限界に同期しているのだと思わされることに、なぜ彼女なのかの理由がある気がしたのだ。

映画の後半、秘密が明かされ、彼女そのものが終末の原因であることを悟る。彼女の中にある怒り、当然の怒りが世界を破壊する。特に驚きもしない。

なんならこの物語がそんな彼女に世界を滅ぼす権利と救う権利をしっかり与えているという点に、本当に最後まで「若者がどう感じるのか」にフォーカスしているのを感じた。結論を見るとある意味で世界の崩壊は免れたかのようだ。というか、世界は一度作り直されるのだ。それはハッピーエンドのようではあるが、作り手がハナやユキに対しての情があっただけに過ぎず、世界に対する絶望感は変わらずにありつづけるからこその「やっぱり世界は一度を作り直さなければならない」という結論に過ぎないのだ。現実においてそんな都合の良い方法はない。現実には変わらず「世界を修復する方法」は存在しないのだ。

ここまで一気に書いてきたが、ひとまずがこれが本作に漂う「絶望」への私なりの反応だ。

 


この後は余談。

今更ながら映像面の話に切り替えても仕方ないのだが、本差は映像に関してもかなり力を入れていて、それこそ『シン・仮面ライダー』とかが吹き飛ぶようなことをしている。ファンタジックな映像感は日本のインディーズ作品において実は増えてきていて、『夜を超える旅』や『餓鬼は笑う』なんかがそうだ。若者の薄暗い心象をそのまま映像にしたようなファンタジー感が反映されたそれらの映像は、近年の日本製ファンタジーへのひとつの解決策なんだろうなという気もしている。
また音や編集においても近年稀に見るこだわりを感じさせる。ピクチャーロック後にも何度も映像と音声をやり取りして変更していく作業が今回行われていたそうで、音も相当楽しめる作品になっていた。