劇場からの失踪-映画批評ブログ

映画をこよなく愛するArchによる映画批評

映画の真実へのアンチテーゼ。暴走する青春。『アメリカン・アニマルズ』

 

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昨年の5月に公開された『アメリカン・アニマルズ』

当時、新宿武蔵野館にて劇場鑑賞したときの衝撃は未だに忘れられない。"真実に基づく物語"というジャンルを根底から覆すような斬新な切り口。近年『ボヘミアンラプソディー』などの「事実に基づきながらも脚色を施したものを真実とした作品」が主流な映画業界でこの「真実の多面性」を描くことは余りに諸刃の剣に私は思えたのだ。

 

なので今記事では今作の描く"真実"について、まずはそのストーリーに触れてから最後にそこについて考えていきたい。

 

目次

 

暴走する青春

 

不自由はないが退屈な学生生活を送っていたスペンサー(バリー・コーガン)とウォーレン(エヴァン・ピーターズ)は「特別な人間」になりたいと大学の図書館にある時価1200万ドルを超えるオーデュボンの画集「アメリカの鳥類」を盗み出そうと画策する、というのが大まかなストーリーラインだ。

 

ウォーレンやスペンサーたちの計画は杜撰極まりない。強盗を学ぶ上で映画やGoogle検索で調べたり等、如何にも子供の考えるようなその行為は観客にはジョークに見える。そして彼らの特徴としてその"動機の薄さ"である。彼らは安定した経済状況、家庭環境、そして高等教育の中にいる。およそ強盗に及ぶだろう犯罪者のプロファイリングに合致しないのだ。

 

彼らの犯罪の行動原理は「自分は特別な人間で、周りとは違う」という虚栄心である。だが、面白いのはこの思想は犯罪者によく見られる危険思想などではなく、万能感の抜けない若者たちが思春期に経験した誰もが通った若気の至りであることだ。

敢えて恥ずかしい表現するならば「青春したい」という感情なのだ。

だからこの映画は単なる犯罪映画とは違って、万能感の抜けない若者達の愚かさや痛々しさが痛烈に描かれている。

 

 ここまで今作の"暴走する青春"について説明してきたが、今作はその行為に対する彼らの悔恨も描かれている。そこがとても画期的であると私は思う。次章で解説したい。

 

 

 

真実の多面性

ここまでストーリーについて考えてきたがここからが本題。今作の特徴である事実の多面的な描き方についてだ。今作はエヴァン・ピーターズやバリー・コーガン等に加えて"ご本人"が登場し、彼らは物語に干渉してくる。そのことによってこの映画には複数の主観が生まれることになる。

例えば、強盗計画の始まりともいえるウォーレンが「アメリカの鳥類」についてスペンサーに話すシーン。ウォーレンにとってはそれは車内の出来事であった。しかし、スペンサーにとってはあるパーティでの出来事なのである。記憶が不鮮明でそれぞれの言い分に食い違いが起こり、"真実"と呼べるものが不明になっている。

 

これから言えることは"真実"というものがそれぞれの主観に多数存在しているということだ。これまで多くの"真実に基づく物語"が映画という媒体によって語られてきた。その中で今作は複数の当事者の語りを物語に盛り込むことで"基づくべき真実"を不鮮明なものにしている。

このやり口は観客にある疑念を抱かせる。過去に見てきた真実に基づくとされた物語は誰の主観で語られていたのか。それは本当に真実に即しているのかという疑念だ。これが最初に今作を見た時、「諸刃の剣」でないかと懸念した点である。

例えば「ボヘミアンラプソディー」等は史実にあまり忠実でないことが有名だが、「ロケットマン」はどうだろう。当事者(エルトンジョン)が生きている作品において物語が当事者によって美化されていないとは限らない。最近では「リチャード・ジュエル」において登場する女性記者の描写について問題になったはずだ。

そんな映画における"真実に基づく"と逃げ口上をつけることで多少の脚色を良しする流れに対して、今作は"真実の物語だ"と言い切っている。

それが何故出来るのか。それは今作が"真実"を「結局聞き手が何を信じるかで決まるもの」であるとしたからだ。これはウォーレン本人の言葉からも伺える。

「僕が信じたいと思った物語と信じると決めた物語がある」

映画は作り手が真実とした一つの物語を語っている。それはフィクションを取り扱うジャンルにおいて決して間違っていない。だからこそ今作の「真実は主観の数だけある」という問題提議にも似た作風は映画という媒体において恐ろしいものなのだ。

そして問題提議し、その解答も示している点も今作は素晴らしいのだ。

 

この当事者を劇中に出演させて振り返らせる演出は彼らの青春への悔恨を描かせるという点でも効いてくる。

計画当日、ウォーレン(エヴァン・ピーターズ)は現場に向かう車内で外を眺めている。外にはウォーレン本人がその向かう車を悲し気に見つめている。

引き返したいという気持ちを持つウォーレン(エヴァン・ピーターズ)と刑期を満了した数年後の自分を悔恨の念で見つめるウォーレン(本人)を同じ空間に同居させることでこの"暴走した青春"という過ちを効果的かつ的確に演出している。そうすることで若気の至りを美化せずに残った"罪と悔恨"を強調して描くことに成功しているのだ。

 

最後に

去年観た映画のなかでこれ程映画の観方を揺さぶる体験は無かった。

これが監督二作品目とは信じられない。バート・レイトン、覚えておいて損はないだろう。