劇場からの失踪

映画をこよなく愛するArch(Ludovika)による映画批評 Twitterもあるよ @Arch_Stanton23

MENU

映画批評『アダプテーション』-ハリウッド的な映画に対するチャーリーの回答

題名:『アダプテーション』
製作国:アメリカ

監督:スパイク・ジョーンズ監督

脚本: チャーリー・カウフマン
   ドナルド・カウフマン

音楽:カーター・バーウェル

撮影:ランス・アコード

公開年:2003年

製作年:2002年

 

目次

 

あらすじ

脚本家のチャーリー・カウフマンはスーザン・オーリアンの著書「蘭に魅せられた男 驚くべき蘭コレクターの世界」の脚色を依頼されるが、執筆に行き詰まってしまう。冴えない日々を送るチャーリーとは対照的に、陽気な双子の弟ドナルドは新進脚本家としてハリウッドで注目される存在に。焦りを感じたチャーリーは、状況を打開するべく原作者スーザンに会いに行くが……。

引用元:

eiga.com

 

 

アダプテーションはこの作品において「適応」と「脚色」を意味する。本作を生み出したチャーリー・カウフマンはそのアダプテーションという行為と自らの分身を媒介して、脚本が如何に滑稽で崇高なプロセスを経て、生み出されるのかを自伝的かつ自嘲的に、しかし明確な攻撃目標を見据えて描いている。

 

 

ドラマを描かないというアンチテーゼ

誰かの物語(小説)に惚れて自分色に染めあげるという作業を「脚色」とするなら、冒涜的なニュアンスを孕むこともあるだろう。特に「ハゲでデブ」だと卑下する凡人の彼(チャーリー)にその行為は本当に難しい行いであり、その行為に苦悩する。だがその一方では、脳内で理想の相手(脚本)を「冒す」ことの禁忌さに酔いしれているのも事実。それは彼のマスターベーションで示唆され、その「禁忌」をチャーリー・カウフマンは脚本が生まれる過程の滑稽で崇高なプロセスに感じているのではないだろうか。
自らの生業である脚本家の作業を自ら俯瞰で捉え、それ自体を映画にするという行為はまさしく「8 1/2」でフェデリコ・フェリーニ監督がやって見せた事の脚本家版だといえる。ただ違うのは本作は、攻撃的な意図を含んでいること、また自身が目指す脚本の境地と実際それを成す困難さを自嘲的に描いているという点だ。
ひとつずつ説明する。まずは攻撃目標がなんなのかと言うと、「ハリウッド的映画のストーリテリング」であることは自明であり、彼が頑なにマッキーの脚本講義を受けようとしなかったことから分かる。劇中のチャーリーは「花の脅威(素晴らしさ)をシンプルに映画にしたい」と述べるが、それは物語の中に困難に立ち向かう姿や成長というものが映画の必要条件に現状に対して、"ドラマを描かない"というアンチテーゼに他ならない。

 

これは現実のチャーリー・カウフマンの脚本における一つの趣向でもある。チャーリー・カウフマンの物語とメリル・ストリープ演じるスーザンの物語は支離滅裂に交錯し、スーザンの物語に対してチャーリー・カウフマンが延々と悩み、一向に何も進まない様を描く前半は、まさしくその趣向に準ずる行為だといえるかもしれない。だがこの映画は他に習うように劇的な展開がクライマックスに用意されている。表層的になぞれば、これは「ハリウッド的映画のストーリテリング」への「降伏」に他ならない。しかしそうはならないのが、チャーリー・カウフマンという男の遠回しなやり口なのだ。それについて考える前に「映画にとってドラマは必要条件である」ということについて考えてみたい。

 

「脚本」を意識させる

 

私はその必要条件について考えるとき、先程も上げたフェリーニ監督の『8 1/2』を思い出す。
監督であるフェリーニは『8 1/2』を何も起こらない映画として作ったとインタビューで語ったことがある。確かに何かしらの成長や成果を描かない本作は当時には珍しい手法であった訳だが、「8 1/2」が本当に「何も起こらない映画」として納得することは難しい。なぜなら主人公は間違いなく、画面の中で営みを行い人と関わり、最後に「結末」に至るからである。本当に何も起こってないとは何の「結末」に至らないことを指すのではないかと考えたとき、どうしても当時の主流からの相対的な評価として「他作に比べて何も起こらなかった」ということなのだと思うのだ。
なのでやはり、私は映画から完全に「ドラマ」を奪い取ることはできないのではないかと思う。

となったとき(話は「遠回しなやり方」の話に戻ってくるが)チャーリー・カウフマンはその映画の不可能性に挑む無謀な行為をどう成し遂げたようとしたのかというと、「脚本」を意識させたのだ。もっと言えばハリウッド的に「脚色される脚本」を意識させたのだ。それは本作が二つの"ピリオド"=結末を内包していることから読み取ることが出来る。


一つはスーザンとラロフがユリを見つけられなかったという場面。ここは映画的にも劇中内で執筆される脚本的にも一つのピリオドになる=結末となる場面だろう。もしここで終わらせたならチャーリー・カウフマンの目指す「何も起こらない映画」になりえた。なぜなら「結末」にドラマがないからだ。

だが、そこで終わらせたならこの映画は酷くつまらない。特に観客にとって誰も満足できない作品になっていたはずだ。だからこそ「観客の要請」により本作は続きを必要とした。まさに加筆という"脚色"がここから始まるのだ。

そこからは明らかにおかしなことが起こり始める。

 

ドナルド・カウフマン


ここで説明しておかなければならないのは、共同脚本としてクレジットされ、作中にも登場するドナルド・カウフマンが完全にフィクションの存在であるということだ。本作は実在の人物であるチャーリー・カウフマンと同名の人物を主人公にしていること、『マルコヴィッチの穴』という実在の映画について触れていること、この二つから分かるように本作は実話に基づくとは銘打たれないも、実話のような体裁を持っている。しかし同時にアダプテーションによって物語が変化していく流れを自覚させられることでフィクションという体裁もある。そのためドナルド・カウフマンという架空な人物は「実話を脚色することで生まれた存在」として存在感を発揮する。つまり現実に施されたアダプテーションの象徴がドナルド・カウフマンだといえる。


そんな彼が後半の"続き"において、前半よりも明らかに物語に関与し、ストーリーの推進力になっていく。スーザンに直接ドナルド・カウフマンがコンタクトするという展開から始まり、ドナルドはチャーリーに「あいつは嘘つきだ」と言い始める。スーザンがこれまで"実話"とされてきたのに対してドナルドは"虚構"であるはずが、ここで明確に物語の虚実が反転し始める。ビルの向かいから双眼鏡で監視をし、追跡し、銃で脅され、ワニに襲われ、事故死する。その合間にはこれまでほとんど描かれなかった、極めて物語(フィクション)的な双子の会話劇が挿入され、事故死の際も別れ際に「ハッピートゥゲザー」を囁く。
このようにして完全に脚色された世界の住人に成り果てた劇中のチャーリー・カウフマンは、愛する恋人と現実的でない結末を迎えて(念押しの)「ハッピートゥゲザー」と共に車で颯爽と走っていく。

急激にハリウッド的な展開に転げ落ちていく一連の恐ろしい展開はまさに"実話のような何か"が脚色されていく様と表現出来る。
そして何より恐ろしいのは観客はそのハリウッド的な何かになったそれを、我々向けに脚色された脚本を意識しながら観るしかないということ。はっきりいってこれ程いたたまれない作劇はない。
このいたたまれない作劇こそがチャーリー・カウフマンの「何も起こらない映画」に対する答えだ。つまりハリウッド的な映画に迎合する姿勢を取りながら、観客に「脚色された脚本」を意識させることで、観客に純粋にハリウッド的な映画を「楽しめなくさせた」のだ。
まぁこの「楽しめない」はもちろん、作品でブラックジョークとして機能しているので、作品自体はその構造の面白さも含めて非常に面白い作品にはなっていたということは誤解のないよう書いておく。

 

総評

ここまで長々と書いたが、これが本作の構造的な部分に対する私の考えだ。本作こそがチャーリー・カウフマンの意思表明であり、『8 1/2』であり、『もう終わりにしよう』にまだ通底するストーリーテリングだなのだろう。ちなみにGoogleで画像検索する限り、チャーリー・カウフマンはハゲデブではない。なのになぜハゲデブであろうとするのか、『もう終わりにしよう』のハゲデブも含めて考えて見るのはありだろう。