劇場からの失踪

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『プアン友達と呼ばせて』人生最後のカクテル 劇場映画批評72回

題名:『プアン/友達と呼ばせて』
製作国:タイ

監督:バズ・プーンピリヤ(ナタウット・プーンピリヤ)監督

脚本:バズ・プーンピリヤ(ナタウット・プーンピリヤ)

   ノタポン・ブンプラコープ

   ブァンソイ・アックソーンサワーン

エグゼクティブプロデューサー:ウォン・カーウァイ

撮影:Phaklao Jiraungkoonkun    
        Natdanai Naksuwan

公開年:2022年

製作年:2021年

 

目次

 

あらすじ

ニューヨークでバーを経営するタイ出身のボスは、バンコクで暮らす友人ウードから数年ぶりに電話を受ける。ウードは白血病で余命宣告を受けており、ボスに最後の願いを聞いて欲しいと話す。バンコクへ駆けつけたボスが頼まれたのは、ウードが元恋人たちを訪ねる旅の運転手だった。カーステレオから流れる思い出の曲が、かつて2人が親友だった頃の記憶をよみがえらせていく。そして旅が終わりに近づいた時、ウードはボスにある秘密を打ち明ける。ニューヨークでバーを経営するタイ出身のボスは、バンコクで暮らす友人ウードから数年ぶりに電話を受ける。ウードは白血病で余命宣告を受けており、ボスに最後の願いを聞いて欲しいと話す。バンコクへ駆けつけたボスが頼まれたのは、ウードが元恋人たちを訪ねる旅の運転手だった。カーステレオから流れる思い出の曲が、かつて2人が親友だった頃の記憶をよみがえらせていく。そして旅が終わりに近づいた時、ウードはボスにある秘密を打ち明ける。

引用元:

eiga.com

今回紹介するのは、『プアン/友達と呼ばせて』である。監督は『バット・ジーニアス』のバズ・プーンピリヤ監督、エグゼクティブ・プロデューサーにはあのウォン・カーウァイが関わっており、二人の作家性が見事な化学反応を見せた作品になっている。

では早速語っていこう。

※以降ネタバレあり

 

同情に基づいた特権の行使

『最高の人生の見つけ方』という映画がある。
死期を悟った男が、病院で出会った男とこれまでやってこなかったスカイダイビングなんかをやって最高の人生の締めくくりを迎えようとする映画だ。普通に泣ける映画で、心底泣けた気がする。

本作もまた死期を悟った男が男2人組で旅に出る物語だ。だがこの映画は『最高の人生の見つけ方』のようなお涙頂戴映画とは違い、とことんビターに仕上がっている。「死期が近い」や「難病にかかっている」という状況が、物語においてある種の特権を与えることは同情という感情に基づいて往々にしてある。

本作においては死期を悟ったウードは旧友であるボスをニューヨークからバンコクに呼びつけ、三人の元カノの元を尋ねて回る旅に同行させる。その行為は、ウードにとっての「最高の人生の終わり」に必要な行為であるが、同時に多くの人の過去の傷口を広げる行為で、凄く勝手に思える。しかし特権があるからこそ行為は正当化される。

だが、その正当化に対して、ビターな視点が本作には常にある。元カノそれぞれの三者三葉の対応があり、時に拒絶され、時に相手を傷つける。そのことに自覚的ながらもこの旅を続ける彼らはどこか男性側のトキシックな一面を炙り出す。

そういった部分に『最高の人生の見つけ方』とは違う魅力がある。

 

カセットテープ

ロードームービーのような物語に丁寧かつ適切なショットで過去が挿入されていく。

移動を伴う行為が、過去や記憶を遡る旅と同期するように描かれ、元カノたちとの出会いの順を遡るかように進んでいく。

この適切な編集と演出が何よりも本作を面白くしている。要素Aと要素Bをマッチカットで繋げていき、「カセットテープ」というモチーフを駆使することで、場面を整理して明確にする。そうすることで過去と現実、またエピソード数の多い本作を見事に仕上げている。特にウードのA面からB面のボスの物語に移っていく流れや、父親との繋がりをラジオの録音されたカセットテープを通して描くのが分かりやすいだけでなく、素晴らしい。

ただカセットテープというモチーフの本領は、B面に移ることにこそある。

この物語はB面に移ることでボスにフォーカスを合わせていく。これまでは狂言回し、部外者のように映画の中で立ち振舞っていた彼にスポットライトが当たる。そこで明かされる衝撃の事実は、過去の傷口を広げていく彼の旅が、まさにボスに牙を剥いたからこそのショックで、これまで美談かつ特権として行われた「元カノ巡り」の横暴で暴力的な側面が遂に、彼ら男性に向けられる。

バーの一席での回想は仲睦まじい2人の関係の起源にまで遡り、2人の間で三角関係になっていた女性やそこにまつわるコンプレックスが浮き彫りにする。特に今死にかけている同情されるべき相手の許しがたい一面を浮き彫りにする行為は、死の迫る者に対して何を思えば良いのかを多面的に考えさせるきっかけを与える。何故だか人は死者を悪く言い難いが、果たしてその行為は誰のためのものなのか。

 

さいごに

ウードの最後は贖罪するかのように孤独を極める。なんと言っても父の遺灰を巻くシーンとマッチカットとして演出される砂浜のシーンで砂を掴み、撒く様は、「自分の遺灰を自分で撒く」という行為に等しく思える。なんて寂しいのか。

思い出を思い出として終わらせるのではなく、かつての罪を忘れたままにするのではなく、全てを詳らかにして傷ついて必然として孤独だろうとする。その姿勢はやはり独善的だが、嫌いになれない。

 

ボスの人生に幸あれと言わんばかりのラストも、もっと早い出会いがあったはずで、ウードの裁量でしかないのはもっともだが、『ワイルドスピード スカイミッション』ばりの演出で納得がいってしまった。独善的で嫌な話だと思う人もいるだろうが、映画としての演出や編集の凄さや人は互いに都合を押し付ける生き物だと思っている私の価値観を含めて、凄く好きな作品だった。