劇場からの失踪

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『ベネデッタ』システムに内在する欠陥を暴き出す 劇場映画批評116回 

題名:『ベネデッタ』
製作国:フランス

監督:ポール・バーホーベン監督

脚本:デビッド・バーク ポール・バーホーベン

音楽:アン・ダッドリー

撮影:ジャンヌ・ラポワリー

美術:カティア・ビシュコフ
公開年:2023年

製作年:2021年

 

 

目次

 

あらすじ

17世紀、ペシアの町。聖母マリアと対話し奇蹟を起こすとされる少女ベネデッタは、6歳で出家してテアティノ修道院に入る。純粋無垢なまま成人した彼女は、修道院に逃げ込んできた若い女性バルトロメアを助け、秘密の関係を深めていく。そんな中、ベネデッタは聖痕を受けてイエスの花嫁になったとみなされ、新たな修道院長に就任。民衆から聖女と崇められ強大な権力を手にするが……。

引用元:

eiga.com

※以降ネタバレあり

 

実在の人物、修道女ベネデッタの記録に基づき描かれた本作は、彼女が真に狂信的な信仰を持つ存在であるが故に、キリスト教の欺瞞を仕組みの中から暴き出すのだ。彼女にそ意図はなく、されど意図がないからこそ、その破綻は必然的に暴かれる。その非作為的な痛快さこそが本作の白眉だ。

詳しく書いていく。

 

「奇跡」が確かに行ったことなのか、人為的に起こったことなのか

映画の冒頭、幼少期のベネデッタは、マリア像にひざまづき祈る。そこに盗賊らしき人達が現れ、金品を要求するが、ベネデッタはマリア様が守ってくれるという強い信念から、子供ながらに一切引かず、ベネデッタは「マリア様の声が聞こえる」と言う。すると木の葉の影から飛び出してきた鳥が盗賊に糞をするのだ。
それは祈りが通じた瞬間、つまりそれは「奇跡」だ
教会に入ってからもマリア像が自身に転倒してきた際に、「奇跡」的に無傷で終わる。(ここでの乳房への接吻が本作後半のセクシュアリティ描写への予感として機能する)
そんな風に、本作においてベネデッタは圧倒的な信仰心(祈り)によって「奇跡」と共にいる存在なのだ。言ってしまえばキリスト教(宗教)というシステムの中の奥深くに組み込まれた存在であるわけだ。
しかし幼少期から18年後、ベネデッタの変わらぬ信仰心と「奇跡」によって信仰の根幹を揺るがすことになっていく。


ベネデッタは「奇跡」として幻視を苛まれたり、スティグマを体に刻まれることになっていく。興味深いのはその「奇跡」が確かに行ったことなのか、人為的に起こったことなのかが曖昧に描かれる点だろう。観客にとってはその幻視が最初は共有されるため、"真実"であることが分かるのだが、後半のスティグマに関しては、その現場を見ることは出来ないため、他の修道女と立場に立たされる。

そうすると、その真実は途端に狂信がもたらした「彼女にとっての真実」だったのではと考えさせられてしまう。
そういった描写は観客の視点からもベネデッタは真に信仰に従順なのか、信仰を利他的に利用しているのかが分からなくなる。幼少期の描写が「奇跡」はベネデッタにとって起こりうることとして定義しているからこそ、その曖昧さはより引き立っているというのもあるだろう。

 

システムに内在する欠陥を暴き出す

その曖昧さ、ベネデッタの推し測れない存在感ははベネデッタと対立する者たちの「信仰への揺らぎ」を刺激するのだ。
ベネデッタの曖昧な「奇跡」はフェリシタやクリスティナにとっては信じ難いものであり、その裏には何かしらの「嘘」があるのではと疑ってしまう。なぜ「嘘」だと疑ってしまうのか、それはフェリシタやクリスティナの中に「信仰への揺らぎ」があるからだ。「奇跡」そのものよりベネデッタ本人のエゴや思惑にばかり目を向けてしまう。
だが、ベネデッタという存在は宗教というシステムから決して逸脱しない。ルールに規定された「奇跡」を行い、都合よく解釈し、神の言葉を代弁する。そしてそのシステムを悪用しているという自覚が表面化せず、悪用と狂信は同義なのだと気付かされるのだ。
システムの内側にいるからこそ、周りの者はざわめき、「解釈次第でどうとでもなる事」や「聖痕や幻視などの偽装しやすい奇跡によって序列や権力が簡単に左右される事」といったシステムに内在する欠陥を暴き出すのだ。
作為的に暴き出すのではなく、システムを順行することで必然的にシステムの欠陥を暴くという話であり、度々皮肉の聞いた演出(特に羊飼いとしてのキリストとDVパパがダブるのが良い)も良く、雑味のないカタルシスを呼び起こさせる作品になっている。見事。


セクシュアリティについても少し触れておきたい。今年ベストアイテムとして表彰したいマリア様ディルドは、この作品のオープンで挑発的なセクシュアリティを表象していて面白い。フェミニズム映画として撮っていないという発言もあり、そこには禁欲的な考えへのカウンター以上のものはないのだが、重要な要素であったと思う。