劇場からの失踪-映画批評ブログ

映画をこよなく愛するArchによる映画批評

7000rpmの先に見た男達の世界「フォードvsフェラーリ」劇場映画批評回第8回

 劇場で観た作品を"ネタバレなし、短めに"
アクセルべた踏みながら夫に詰め寄るように書き連ねる劇場批評回「劇場から失踪」第8回  
 
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エンジンの爆音,タイヤがアスファルトに吸い付く音が鳴り響く。
その先に静寂な世界がある。そこは7000rpmを越えた全てを置いていく孤独な世界。
生と死の境界で速さを追い求めた男たちにしかたどり着けない世界に男達は挑んでいく。
フェラーリとの闘いの末,彼らが選んだものとは。
かつて命を懸けて戦った実在の男たちの"ル・マン24時間レース"をそのままの熱量を圧倒的臨場感をもって体験する。
踏み込め,7000rpmの先の世界まで。
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どうもArchです。

今回紹介するのはジェームズ・マンゴールド監督
『フォードvsフェラーリ』です。
結論から言うならば、傑作です。今年今作を抜く作品は早々でないでしょう。
 
いつもは見た直後,その日のうちに短めに書くスタイルの「劇場からの失踪」ですが、今回は"ネタバレあり,長めに"書いていきたいと思います。
なのでまだ未見の方はご注意を。
 
 
 

CAST

今作は2人の熱い男を中心にル・マン24時間レースでのフォードとフェラーリの対立,そして現場と上層部の対立を描かれている。
2人の男の一人。心臓の病気でレースから離れながらもエンジニアとしてル・マンに挑むキャロル・シェルビーを演じるはマットデイモンです。
この役,トムクルーズがやる噂もあったらしいです。
個人的にはマット・デイモンであればこそ、あのケン・マイルズを支える男の姿を演じられたのだと思いますね。トムクルーズだと主張が強すぎな感じもします。
 
 
そしてもう一人。レースに実際にドライバーとして挑むケン・マイルズを演じるはクリスチャン・ベールです。
頑固で捻りが効いている性格にも関わらず,カッコよく観客の心を鷲掴みにするキャラクターに仕上がっているのは彼の力が大きいでしょう。
今作を語る上で,どうしても外せないマンゴールド監督作品『3時10分,決断のとき』でも二人は組んでいます。

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今クリスチャン・ベールを"肉体改造する役者"としてではなく,一番うまく引き出せるのはマンゴールド監督であると言えるでしょう。
 
他にも多くの名助演をもって,今作は傑作の次元へと引き上げられています。
例えば,フォードの中間管理職としてフォード(現場)vsフォード(上層)の間に立たされるリーアイアコッカをいぶし銀な演技で苦悩を持って演じるジョン・バーンサル。
マイルズの妻モリー・マイルズを夫の無事を祈りながら,その夢の成就を後押しする芯の強さを見事に演じるカトリーナ・バルフ
 
他にも上げれば切りがないほどに,高いレベルの役者が揃っています。
 
そしてそれらをまとめ上げるジェームズ・マンゴールド監督が本当に素晴らしい。
「ローガン」「3時10分,決断のとき」などの男の熱い骨太な傑作を世に送り出し続けている彼。
彼の撮る映画はどれもが大胆かつ繊細です。
ハリウッド的な迫力ある画作りのなかに,細かな機微を取り入れる。
本来ならただの会話になるシーンに巧みに手を加え,多くの意味を持つ多面的かつ深みのあるただごとではない会話シーンにしてしまう。
「ローガン」のラストや「3時10分,決断のとき」でのベンとダンの会話シーンがその代表例でしょう。
 
自分が大分ゾッコンなのがワカルワカル。
 
 

2つの対立構造,そして2つの男の友情

まず触れておきたいのは今作の対立構造です。
複数の対立構造が今作にあって大きくは2つの対立が話を進めていきます。
 
一つはタイトルである『フォードvsフェラーリ』からも分かる通り,社vs社の対立
会社のプライド同士がぶつかり合い,ル・マンでその決着をつけるという作品屋台骨となっている構造。
 
もう一つはフォード内部での争い。
ケンやシェルビーらの純粋にレースに挑む"現場"
                                             vs
ジョシュ・ルーカス演じるレオ・ビーブ副社長らレースに商業的価値を見出しちょっかいを出してくる"上層部"
 
という、つまりは「フォードvsフォード」という構造。
実際こっちのほうが,終盤に連れて色濃くなるメインとなる対立であり,その存在感は"タイトルに偽りあり"と言われて仕方ない程です。
 
元から脚本が「フォードvsフォード」に重きを置いているためか,フェラーリの絶対王者感が薄くなっていたように思います。もっと如何にフェラーリが速いかを描いたり,憎たらしく描くことでカタルシスを高めることもマンゴールド監督ほどの人であれば出来たはずです。しかし、それらはやらずに「フォードvsフォード」の描写に集中していた。
 
ケン・マイルズをフォードのイメージに合わないと切り捨てようとする副社長の姿とケンを守ろうとリスキーな手に出るシェルビーなんかがそうです。
そこに監督の意図があり,描くべき"ケン・マイルズとキャロル・シェルビー"の闘いがあるからでしょう。
それが単純ば勝ち負けのない"対立"でケンとシェルビーはその中でこそ,男の絆を深めていったのですから。
 
 
 
2つの対立構造と同じくらい重要な要素として"2つの男の友情"があります。
 
ひとつは言うまでもなく,"ケン・マイルズとキャロルシェルビー"の関係です。

 

3時10分,決断のとき」のように独り身の男と家族持ちの男のコンビですが,今回はぶつかりあうことは少なく,完全に同族として描かれていましたが,この二匹の狼たちの友情がもう熱い。それだけで満足してしまうほどに二人の絡みが面白い。
最初の出会い,ダイナーでの食事の掛け合い,公式発表の場での目線,サーキットに連れ出す30分とかいう大嘘,そして二人の和解の喧嘩。
二人の姿はこれらの何気ない掛け合いだけでも鳥肌もので,その目線,間の取り方がシンプルにかっこいいのです。
 
 
もう一つ,それは"ケン・マイルズとピーター・マイルズ"の関係です。
 
 
あまり宣伝されていないので認識しづらくはあったでしょうが、これが無ければ,あのラストを描く意味がない。(そこは後程触れたいと思います。)
 
ケンはシェルビーと居るとき,二人が家の前で喧嘩するシーンなんかそうであるように、どうしても大人子供的な側面が強くなります。
それを眺めるモリーマイルズの様子が彼らの親的で,際立たせてます。
 
しかしピーターと居るときだけ,ケンは"大人"であり"父親"なのです。合間合間にピーターとの会話を挟むのは、
 
・レーサーが如何に危険であるかを"家族の不安や心配"というアプローチで描く。
・父親が息子に誇りを託したという最後に繋げるため。
 
この二点を引き立たせる意図があったからであると思います。
ル・マンというレースは死者が絶えないほどの危険なレースです。時速220kmを超えるスピード,そのスピードの中で1周約3分30秒程のコースを24時間走る。
車を運転したことがない人でもその恐ろしさが分かるはずです。それを観客にどう伝えるか。
 
例えばスティーヴ・マックイーン主演の「栄光のル・マン」では、実際の映像などを使って印象的に車が大破するシーンを用いて伝えてきます。
 
今作だと、この手法による"画の説得力"に加えて,家族の心理描写,特にピーターの中に広がる不安と最悪への予感を共有することで観客に"精神な説得力"を与えているのです。
 
また父子の関係を重ねるのはジェームズ・マンゴールド監督の"男理論"があると思います。
"父親という男が息子に何を残せるのか"という命題が監督の中に深く根差して,映画を通して表現したいことでなのでしょう。
「3時10分,決断の時」にもこれは共通していることで,「ローガン」のローガンとローラの疑似家族的な関係からのあのラストにも共通する考えでもありますよね。
 
終盤のル・マンのレースシーンを画面に食い入るように見るピーターにその走りを以って,危険なレースに挑み、命を懸ける意味と守らなきゃならない誇りを提示する。
 
つまりは父が息子に"男の生き様"を伝えているのです。
 
 

観客にアクセルをベタ踏みさせる最高の演出

 
 全編を通して"熱い"という感情に支配される。
安易すぎる表現だが、観る者全てに見えないアクセルをベタ踏みさせるこの高揚感、"熱い"以外に表現が見つからない。
では何故"熱い"のかを詳しく考えていきたい。
 
二人の男が夢のために真剣に没頭する状況が既に"熱い"理由の他ならないわけですが,その"演出"に注目したい。そこにこそ,今作の人の心を焚きつけるエネルギーがあると思います。
 
その演出とは”溜めと緩急”です。
 
これが本当に巧いと思います。
個人的に激アツポイントである「デイトナ24時間レース」のシーンで"溜め"の演出が特に顕著でした。
副社長ビーフが「レース中のエンジンの回転数まで私が決定する」とレースを完全に支配しようとしている最中,鬱憤が溜まっていくシェルビー達。
(脱線しますが,ここのビーブの表情やらの"坊ちゃん"感が印象的でこういう細部の演技が本当に素晴らしい)
 
 ケンはシェルビーに言う「勘だが,今なら回転数7000以上出せる。出させてくれ。」
一度は渋るシェルビーに選択を任せ,レース終盤にシェルビーは決断する。
そこからが凄い。音楽が溜めを演出し始める。エンジン音が響き,シェルビーはボードに何かを書き殴る。
そこには「7000+ GO LIKE HELL」とある。つまり,「お前を信じる,ぶちかましてこい。」というわけです。
それに対し,ケンは呟きます。
「Oh,right」
溜められた感情が音楽と共に急上昇していく回転数のパラメータ,そのエンジン音と同時に解放されていく。
溜めているのに"たまらない"んですよ。
 
 
この一連の溜めてから一気に放出する演出が,全編に大小散りばめられていることで熱を持った作品になっているのです。
 
"緩急"という点についてでいえば,社長フォード二世の登場シーンがよくこの演出を利用していました。
画面に映るだけでその空間を支配していることが分かる存在感を放っているフォード2世ですが,基本大きく動きません。そのため,顔の向きを変えたり,目線を動かす,口を開くといったその小さな"静から動"によってただの会話を飽きさせず見せています。
 
そんな彼が社長フォード2世をレーシングカーに乗せられた時,社長が子供のように泣き出します。
直前までのスピード感から間を挟んで社長が泣き出す。この緩急が物語を飽きさせずに進行させる。
 
特にこのシーンは最初に観客を笑わすシーンから始まり、フォード2世の親から継いだ社への想いが分かる人間味のあるシーンにシフトしていくのが巧すぎる。
 
この"溜めと緩急"が観客にアクセルをべた踏みする感覚を与える訳です。
 
 
 
 

ケン・マイルズの選択、物語のゴール、そして勝者は誰か。

今回,この記事を書くにあたり、2回鑑賞してきたわけですが,1回目と2回目では感想が異なりました。
 
1度目に感じたのは「なんだよ、このラスト」という失望感です。ここまでギアをだんだんと上げ,クライマックスにフルスロットルで突入していく。正しく夢のような悦の時間でした。
しかし,その先にはその最高に盛り上がっている所を叩き落されるような展開が待っていました。
 
詳細は省きますが,副社長による一声により,ケン・マイルズは減速を選択。上層部に懐柔されるようにしてレースは終わります。更には同時ゴールのはずが屁理屈で2位とされてしまう始末。
それだけではなく、レーシングカーの試験運転途中にケン・マイルズは事故死。
ケンの家族の元へ訪ねるシェルビーは来たものの家には上がらず,その場を後にする。
 
こんな終わり方あるのかと,吐きそうでした。ここまで100点満点であった作品が地に落ちたという感覚が耐え難いものでした。史実だからなんてのは言い訳になりません。この作品は再現性を重視した作品では元からないし,終わらせるところを変えるだけで簡単に結末を変えることは可能だからです。
例を挙げるならば「ボヘミアンラプソディー」のライヴ・エイドの後に,フレディーの葬式をやるようなものです。
 
しかし,しばらく時間を空け,このラストについて考えて,何か見逃した文脈があったのではないか。と考えるようになりました。
 
そして2回目 Dolbyシネマで鑑賞しました。
 
そうしてついにこのラストを選択した理由。それを自分なりに見つけることが出来ました。前置きが長くなりましたが,これが今作を傑作といった所以であり,この記事の肝であります。ここまで読んでくださった方は最後まで是非お付き合いください。
 
 
要点は2つあります。
・ケン・マイルズは何故あの選択をしたのか。
 
・ル・マンで終わらせることも出来たのに,あのラストを何故描く必要があったのか。
 
このふたつの要点について
あの選択はこれまでケンとシェルビーが築き上げてきた物の否定で,上層部との闘いの敗北に一見見えてしまいます。例えそれがシェルビーを案じたものだとしても納得できません。
しかし,これは息子への無意識に見せた父の姿であり,あの時点でもうこれまでに語った"2つの対立構造"は終わっていたからなのだと思います。
 

 

「3時10分,決断のとき」でも重要だった"父親という男が息子に何を残せるのか"ということ。
これまで周りを寄せ付けず,協調性のない男だった父ケン・マイルズは息子ピーター・マイルズにとって憧れでありながらも、いつ死ぬか分からない危うい存在でした。
 
そんなレーサーである父への尊敬と心配が同居している息子に、あの減速という選択は安心と協調性の新たな父の一面を見せたのです。
それだけではなく,レース史上初の3台同時ゴールという偉業を成し遂げた瞬間を息子に見せたのです。
つまりそれは「3時10分,決断のとき」でもあっ父が息子に誇れるものを伝えるということに他なりません。
 
そしてこれはケンが意識的に行ったことではありません。
ケンにはフェラーリに勝利し,7000rpmを越えた世界に到達した時点で満足していたのです。
そしてシェルビーに決めろと言われて,最後ぐらい会社のために行動してやるか、と彼にとって「フォードvsフォード」の対立構造が消えたからなのです。
 
こじつけのようでもありますが,テレビを前に3台同時ゴールの快挙を目にしたピーターが飛び跳ねてたの見て,この解釈は間違っていないと確信しました。
この父と子の関係はラストのピーターが予期していた最悪、”父の死”をあえて描いたことにも繋がります。
 
父の死後,家を訪ねるシェルビーにピーターは「あなたはお父さんの友達だったよね?」と尋ねます。
 
これは父を尊敬し,その父の死を覚悟していた息子がその胸の内の悲しみを共有できる相手だと思って発言したことであり,このケン・マイルズを想った二人の""の会話こそがこの"キャロル・シェルビーとケン・マイルズとピーター・マイルズの物語"の終着点としてふさわしいのです。
 
もし一回目の鑑賞時に感じたようにレースで終わったならば,"ケン・マイルズとピーター・マイルズ"の物語は終わらなかったと思います。
 
 
ジェームズ・マンゴールド監督は素晴らしい監督です。自分の考えたル・マンで終わらせる「ボヘミアンラプソディー」的終わらせ方を取らなかったのは間違いなくこういった意図があると思います。
 
このように傑物たちによって作られた最初から最後まですべてが無駄なく,紡がれる一巻きの物語。
このような作品を傑作というです。
 
 
 

最後に

ここまで読んで頂きありがとうございます。
過去一番,熱を入れた記事となっていると思います。はぐらかさずに自分の解釈を書くのは勇気がいりますね。
実は「カーズ」のラストなんかと比較するのアリかと思ったんですが,さすがに長いかと思って省かせていただきました。
 
この物語は"男達の信頼のリレー"でもあります。フォード2世から副社長ビーフ,アイアコッカ,シェルビー,ケン・マイルズ,ピーター・マイルズと託された信頼のリレー。想いを託すという行為は尊い。
映画はどんな媒体よりも"想いを伝える"ことに特化していると思います。
それは一種のプロパガンダとして使われ,その想いには良し悪しはあります。
 しかし,そんな容易に人に想いを伝え,影響が与えられる映画というものが自分は好きです。
 このブログもそんな映画の魅力を読む人に伝えられるよう,そして何より自分で噛み締められるように「この映画狂が失踪するまで」これからも更新し続けていきたいと思います。