劇場からの失踪

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『モービウス/Morbius』史上最低のポストクレジット 劇場映画批評第52回

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題名:『モービウス/Morbius』
製作国:アメリカ

監督:ダニエル・エスピノーサ監督

脚本:マット・サザマ,パーク・シャープレス

音楽:ヨン・エクストランド(Jon Ekstrand)

撮影:オリバー・ウッド(Oliver Wood)

公開年:2022年

 

 

目次

 

あらすじ

天才医師マイケル・モービウス(ジャレッド・レト)。彼は幼いころから血液の難病を患っていた。
同じ病に苦しみ、同じ病棟で兄弟のように育った親友のマイロ(マット・スミス)の為にも、
一日も早く、治療法を見つけ出したいという強い思いからマイケルは実験的な治療を自らに施す。
それはコウモリの血清を投与するという危険すぎる治療法だった。彼の身体は激変する――

全身から力がみなぎり隆起した筋肉で覆われ、超人的なスピードと飛行能力、
さらには周囲の状況を瞬時に感知するレーダー能力を手にする。
しかし、その代償として、抑えきれない“血への渇望”。まるで血に飢えたコウモリのように。

自らをコントロールする為に人工血液を飲み、薄れゆく<人間>としての意識を保つマイケルの前に、
生きる為にその血清を投与してほしいとマイロが現れる。
懇願するマイロを「危険すぎる、人間ではいられなくなる」と拒み続ける、マイケル。

しかし、NYの街では、次々と全身の血が抜かれた殺人事件が頻発する――

引用元:

www.morbius-movie.jp

※以降ネタバレあり

今回紹介するのは、SSU(ソニー・スパイダーマン・ユニバース)の最新作『モービウス/Morbius』である。主演にジャレッド・レトを迎えたマーベル映画で、同じくアメコミ原作の『スーサイド・スクワッド』で演じたジョーカーと違い、ダークヒーローを演じている。予告編の時点からマイケル・キートン演じるヴァルチャーの登場やサムライミ版のスパイダーマンがいる世界を匂わせたりなど、遂にMCUや過去のソニー製マーベル作品とのクロスオーバーかと期待を集めていたわけだが、蓋を開けてみたら…うん。

今回は『明け方の若者たち』以来の酷評回である。上述の予告詐欺にまつわるポストクレジットへの文句は些細なことで、本作はアメコミ映画の悪いところが詰まった酷い作品になっています。それでは早速語っていきます。

 

人物相関図のクリシェ

まず本作が駄作だとする理由の一つとして、クリシェに成り果てた人物の相関である。それについて詳しく説明する。

アメコミ映画(ここではヒーロー映画を指す)を作る上で、必須の条件は間違いなく"ヒーロー"の主人公と"ヴィラン"の敵役がいることで、その構図を崩した作品は少ないのではないだろうか。そしてその両者は何かしらの軸に対し、線対称に配置されている。例えば、同じSSUの『ヴェノム』やMCUの『アイアンマン』『キャプテン・アメリカ』では根本的な能力の同一性(シンビオート、超人血清)、またマット・リーヴス版『ザ・バットマン』では「孤児」という境遇が軸となり、両者を合わせ鏡のように因縁づける。これは、物語進行における経済的な効果や、ドラマを生み出す上で最適な人物相関だからこそ、様々な映画で使われてきた。その例に漏れず、『モービウス』には「血液の難病を患っていた」という境遇が同じであることと、そこに付随して手に入れた蝙蝠のスーパーパワーを軸に配置されている。

また大抵の作品にはヒロインが、主人公の日常(プライベート)の象徴として登場する。もちろん「闘うヒロイン」というパターンもあるが、必ずといっていいほど主人公には「パートナー」が存在する。本作にも特に詳しい経緯もなく、同じ職場にいい感じの関係のヒロイン、アドリア・アルホナ演じるマルティーヌが登場し、主人公を健診的に助け、主人公の両面を知る重要人物となってくる。

ここまで長々と書いて私が、ひとまず言いたかったのは、本作がお粗末なほどにアメコミヒーロー映画のクリシェに従っているということだ。その点でいえば同じSSUの『ヴェノム』のダン・ルイスというキャラクターがどれだけ画期的だったと相対的に再評価できるだろう。ともあれ、ここまで本作がテンプレに従うなら、そこを人物の深堀を行うことで補わなければならないはずだ。

 

しかし本作は、そこも満足に行えていない。特にマット・スミスというキャラクターが"能力"を得たシーンを省略したのは頂けない。意図としては、モービウスが人を無意識に襲った疑いを警察や観客に抱かせるための叙述トリック描写なのだろうが、マイロを浅いキャラにしてしまっている。彼は本来嫉妬や劣情はあれど、モービウスと同じ側に居た人間であるはずで、彼が一線を越えた理由を「彼の気性」(幼少期の手紙のエピソードに由来)で片付けてしまうのはあまりにも雑である。次の章でも触れるだろうが、マット・スミスとモービウスの関係性があまりに形骸化されたものであることも間違いなく、本作を薄っぺらくしている。他にもヒロインのマルティーヌが演者が他の美人女優であれば成立してしまうようなキャラ付けにも苦しいものがあったと感じた。

これらの浅いキャラクター設定とテンプレに従った三角関係が導き出すのは、既視感だ。例えば、「バスでフードを被った主人公がヒロインに接触し、協力を求める」というシーンや「ヒロインが研究所にひっそりと薬品を取りに行く、その際にヴィランと邂逅する」というシーンなどはどこかで観たことのあるシーンだ。他にも全編が既視感ばかりであり、凡庸なアメコミ映画になってしまっている。それはクリシェに成り果てたフォーマットに従っているから仕方がないことなのだろう。

 

必要不可欠なアクションと「呪い」

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本作の魅力を一つ挙げるなら、それは間違いなくアクションシーンのCGだろう。豪快さとスタイリッシュさを備えた迫力のあるバトルは、ヒーロー映画の水準をしっかり超えていた。しかし本作において、そのアクションで用いられるスーパーパワーが人を殺しかねない"呪い"であるという点を踏まえると、受け入れがたい部分がある。

モービウスの持つスーパーパワーは、人を逸脱した身体機能に加えて蝙蝠を模したエコロケーションなどの能力だが、彼を特別にするのは人の血を吸いたくなってしまう「吸血本能」である。言うまでもないが、これは彼が古典的なモンスター「ドラキュラ」からインスパイヤされたキャラクターだからこその設定であり――だからこその『ドラキュラゼロ』の脚本家コンビ――悪性の力を持ちながらもそれを尊い精神性で、良き事の為に使うことこそがモービウスの葛藤、宿命、そしてダークヒーローたる所以なのだ。

 

というか、そうであるはずだった。

 

本作はそれをしっかり描けていただろうか。つまり彼を(ダーク)ヒーローとして描けていただろうか。話の順を追って考えてみよう。

まず彼は登場と共に傭兵達を皆殺しにする。ヒポクラテスの誓いを結んだはずの医師が無意識かつ相手がろくでもない奴だったとはいえ殺すのだ、そこには大きな咎があるはずだ。しかし本作は、「あいつらは死んでも仕方ない」という共通認識で進んでいくので、そこに対して罪悪感は発生しない。(みんなが揃って台詞にするので驚く)

ただモービウスは無意識にマルティーヌを襲ってしまった事自体には罪悪感はあるため、力のコントロールを試みる。吸血本能以外に関しては、持ち前のIQや合理的な検証プロセスによってコントロールしていく。ここの展開は明らかに『アイアンマン』のラボでのシークエンスの模倣だが、それでも気持ちがよく、見所の一つにはなっている。しかし肝心の吸血本能は人工血液(ブルー)で対症療法を行うしか対策はなく、次第に人工血液を必要とするスパンは短くなっていく。そうこうしているとラボにはマット・スミス演じるマイロが現れる。彼はモービウスの状況から血清(敢えてこの呼び方で統一する)やその力を知り、寄越せと懇願する。だが、モービウスは「これは呪われた力」だと、彼を拒絶する。(だが結局はモービウスの気付かぬうちに、マイロは血清を打ってしまう)

 

ここまでを踏まえると、倫理観や道徳心を軸に、その超人的な力を「呪い」とするモービウスと「祝福」とするマイロの対立が見えてくる。だが、実のところこれ以降モービウスの力が、暴走することはない。なんならコントロールが上手く行き、徐々に能力の幅を増やしていく。そのせいで「呪い」としての意味合いは薄れていき、彼らの対立構造の軸は失われ、気づけば、マイロのモービウスへの長年の執着(デカ感情)の軸へとシフトしていく。

人殺しという罪を償わず、使いこなしてチンピラを意気揚々と虐める、何故この力を「呪い」として最後まで描かなかったのか。それはヒーロー映画の宿命ともいえる「能力を使った見せ場」が必要だからなのだろう。「呪い」として力を抑え込もうというドラキュラの主題がある一方で、アクションとして意気揚々と使うヒーローが物語によって要請される状況において、この二つはどうしてもちぐはぐで中途半端になってしまう。この「ちぐはぐな印象」は、なんだか容量を得ない編集テンポにも起因するようにも思う。予告編と本編の齟齬を考えると、本来やりたかった物語と出来上がった物語にはかなりの差がありそうであり、そこを編集で上手い事仕上げたのだろう。シーン毎のモービウスの心情や演技のテイストが、非連続的になっており一貫性が欠けていたように感じた。(あと、屋上で謎の"風"みたいので、モービウスが気絶して捕まる下りは本当に意味わからない)

 

 

ポストクレジットについて

近年のアメコミ映画はMCUに習えの形で、ポストクレジットを必ず入れてくる。それはある種のファンサービスでありながら、興行側にとっても次回作の宣伝にもなるため、Win-Winの関係となっており流行るのは必然だった。だが、それは近年になるに従って商業的なニュアンスが強まり、「やりたいこと」と「ぼやかしたい」ことが透けて見えている。本作においては「やりたいこと」すなわち、SSUというユニバースの構築。「ぼかしたいこと」すなわち、先行き不透明で何も決まっていないSSUの現状。それは、予告編から始まっている。

予告編の集客の為の意図として、マイケル・キートン演じるヴァルチャーを登場させることで「マルチユニバース」であることを強調することは一つあった。だが、蓋を開けてみれば「マルチユニバース」は本作においてポストクレジットでしか描かれない。単なる流行、客寄せパンダとして「マルチバース」は使われているのだ。またその「マルチバース」の象徴として登場したバルチャーは、あまりに雑な登場の仕方により完全にキャラクター崩壊しているのが問題だ。

 

そもそも、彼は「家族を養うため、またスタークに恨みがあるため」にヴィランとして悪行を行っていた。だからこそ、スパイダーマンとは単純な敵対関係にはなく、最後に彼(ピーター)をかばったのだ。そういった普通のヴィランとは一線を画すキャラ造形をしていたのが彼の魅力だったはず。にも関わらずユニバースを移動した彼は、何故か破壊されたはずのヴァルチャースーツを持ち、「スパイダーマンを協力して倒そう」とモービウスに持ち掛ける"普通"のヴィランになっていた。

ここのポストクレジットは、明らかに刑務所でマイケル・キートンとモービウスの邂逅をカットしたために唐突になったと考えられる。本当に呆れるほど、計画性がなく、杜撰さが透けて見えてくるのだ。全てに呆れ果てた最後に「サービス」だと思って出したものが、こんなにも人を逆撫でするものだとは。深いため息と共に劇場を後にした。

 

最後に

ありきたりな人物関係の相関、見所としてのアクション、ポストクレジット、マルチバース、それらはアメコミ映画にみられる特徴だろう。それらが、完璧に悪く作用してしまったのが『モービウス』だ。そして他作品との連続性を売りにした最新のアメコミ映画のスタイルと時代錯誤なクリシェを使ったアメコミ映画のスタイルが混同し、どっちつかずになってしまっているのも本作を居たたまれない作品にしている。