劇場からの失踪

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『THE BATMANザ・バットマン』暴かれたのは「暴くこと」の空虚さ 劇場映画批評第49回

題名:『THE BATMANザ・バットマン』
製作国:アメリカ

監督:マット・リーヴス監督

脚本:マット・リーヴス、ピーター・クレイグ

音楽:マイケル・ジアッチーノ

撮影:グリーグ・フレイザー
公開年:2022年

製作年:2021年

 

目次

 

あらすじ

両親を殺された過去を持つ青年ブルースは復讐を誓い、夜になると黒いマスクで素顔を隠し、犯罪者を見つけては力でねじ伏せる「バットマン」となった。ブルースがバットマンとして悪と対峙するようになって2年目になったある日、権力者を標的とした連続殺人事件が発生。史上最狂の知能犯リドラーが犯人として名乗りを上げる。リドラーは犯行の際、必ず「なぞなぞ」を残し、警察やブルースを挑発する。やがて権力者たちの陰謀やブルースにまつわる過去、ブルースの亡き父が犯した罪が暴かれていく。

引用元:

eiga.com

 

今回紹介するのは、マット・リーヴス監督の『THE BATMANザ・バットマン』です。マイケル・キートンやクリスチャン・ベール、そしてベン・アフレックなど多くの俳優が演じてきたバットマンというキャラクターをロバート・パンティンソンが演じ、これまでにないほどに陰鬱でダークなバットマンになっている。これまでのバットマンとどう違うのか、またリドラーのヴィラン像が現実をどう反映しているのか、そして迷路のような本作が、最後にたどり着いた答えについて、語っていきたい。

 

フィルム・ノワールのバットマン

冒頭、「10月31日木曜日」と日付が明示され、ブルースの独白と共にハロウィンの狂騒を映し出される。まるでフィルム・ノワールのような質感で描かれるゴッサムシティだが、上空のバットシグナルを見上げるようなカメラアングルが多用され、高層ビルや高低差からくる陰影を映すことで、これまで以上にゴッサムシティを"奈落の底"、つまり地獄だと錯覚させるように仕向けられている。そんな奈落の底の住民は、ハロウィンの夜に当然の権利だと言わんばかり犯罪行為に勤しむが、カメラは何故か、何もない"闇"を映す。それは彼らの深層心理に刻まれた「恐怖」という本能が、底に広がる暗闇を意識してしまっているからだ。だがそれはただ暗いからと恐れているのではないことが、次第に分かる。その暗闇には「復讐者」が潜んでいるかもしれないからだ…

と、こんな冒頭が本作のバットマンの方向性を的確に明示している。本作はディテクティブ・ノワールの色が強い。冒頭の独白もそうだが、気絶による場面転換や日記をつける場面、またキーワードだけでいっても「権力の腐敗」「汚職」「街の再開発」「不倫」など、フィルム・ノワールの必要十分条件がつまっているのだ。またこの冒頭は、バットマンが既にゴッサムで恐怖の象徴として浸透し、ある種の抑止力として機能していることも端的に示している。独りで全ての犯罪を取り締まることは出来ない、だからこそ「恐怖」を利用してゴッサムを浄化してみせようとしており、そしてその「恐怖」によって街をコントロールしようとしたツケを払うことになるのだ。

ともあれこれらの要素は、これまでに映画化されたバットマンと決定的な差別化された部分なわけで、その中で一番に特筆すべきは「父親の死を未だに引きずっている」部分だろう。未だに過去の喪失に囚われているブルース・ウェインという人物像が、これまでにない悲壮感と闇を抱えた人物形成を可能にしており、自らを「復讐」と呼び、より暴力的に犯罪者を下すバットマン像を作り上げているのだ。ここにある種のヴィランとの同一化の問題が生まれており、何がリドラーとバットマン(そしてキャットウーマン)を分けるのかに焦点が当てられていくのだ。

 

暴かれるリドラー

本作のヴィランであるリドラーについては、興味深いのはデヴィット・フィンチャー的な人物像を踏襲している点についてだろう。リドラーは"クイズ"を出すことで、バットマンを自らの思惑通り誘導する。バットマンはリドラーが出すクイズやヒントに翻弄され、"迷路"ともいうべき状況下を進んでいくしかない。

この様子は『セブン』でのジョン・ドゥにデビッド・ミルズ刑事(ブラッド・ピット)が翻弄される姿や、『ゾディアック』の犯人に翻弄されるロバート・グレイスミス(ジェイク・ギレンホール)の姿に近似する。また『ゲーム』のマイケル・ダグラスが"ゲーム"に翻弄される様も例に加えても良さそうだが、これらのデヴィット・フィンチャー作品と本作に通ずる人物像は、主人公にとってのある種の「回避不能の災厄」として襲い掛かってくる不気味さを帯びている点で共通する。デヴィッド・フィンチャー作品における"悪"は、その相手が人であることを忘れてしまうほどに主人公にとって"相性"がよく、無機質さを備え、完璧に悪を遂行してしまう。本作のリドラーも特権階級への「復讐」を掲げ、まるで天罰かの如く連続殺人を成功させていく。ここで忘れてはならないのが、リドラーもデヴィッド・フィンチャーのキャラも超人でもなく、元軍人でもなく、凡人であるということだ。何故そんな彼らが大胆かつ困難な計画を、完璧に成功させることができたのだろうか。この「天才的な計画立案と遂行」を行っている事実と、彼らの人物像から想定される実行力のギャップを埋めている、「大いなる何か」(メタ的な何かともいえるし、"運"とも表現できる何かといえるものを指す)こそが「回避不能の災厄」のように襲い掛かってくる不気味さの源泉であるのだ。そういったキャラクター造形が為されていることで、ヴィランは主人公にとっての「試練」や「災厄」として機能する。リドラーもまた、バットマンに対するアンチテーゼとして、彼にとって最悪の機能と共通点を有した装置として描かれている。

ただ、それはバットマンとリドラーが刑務所で対峙する前までしか当てはまらないのが、本作の面白いところ。それ以降のリドラーは先程までの人物像から離れた、非常に人間味のあるヴィランとなる。リドラーはブルース同様に孤児であり、自分達を見捨てた街への憎悪を募らせている。そしてそれ以上にバットマンに影響され、承認欲求の塊でもあり、SNSを通してその思想を過激化させていった一面が明かされていく。

こういった流れは『セブン』のジョン・ドゥ―や『ダークナイト』のジョーカーといった主人公に対する「試練」として無機質な装置としての悪役が、今という時代において空虚に成り果ててしまったからこそ、現実を反映する上で必要だったと考えられる。今という時代において、ヴィランが人間味を隠し、「透明な存在でいること」はSNSがある現代の価値観の中では、空虚で時代錯誤に映り、たとえ物語上において悪意の装置として機能しようとも、そこ止まり。現実を反映し、現実に影響を与えうる悪意になりえないのだ。つまり、悪意の象徴のようなジョーカーよりも、フォロワー500人の自称有名人の成れの果てのリドラーの方が、現実を脅かす存在なのだ。

本作において暴かれたものとは、ゴッサムという街の正体であり、トーマス・ウェインの真実だが、リドラーは本当は「特権階級への復讐という大義を持つヴィランではなく、多くの人に存在を認知されたい」だけなのだと暴かれたことも忘れてはならない。

 

 

「落ちる」ことの意味

本作は冒頭のシーンから分かるように、高低差を意識させるような画面構成やキャラの動線を引く。バットマンが警察署から下へと飛び降りる(駆け下りる)シーンや、教会でリドラーと思わしき人物に上から見下されるシーン、ベラ・リアル襲撃で上から襲撃されるシーン、他にもバットシグナルが置かれている場所が何度も多用されるのも、彼らが、"底"とは違う立場にいる彼らの立ち位置を示しているようだ。この高低差は、時にその人物の階層を表し、またその人物の相関や状況を表す。そこに付随して「落ちる」という要素が関わってくることで、立ち位置の変化によって、人物の心境や状況の変遷を表す。そもそもとして「落ちる」という移動と「バットマン」は、ノーラン監督の『ダークナイトトリロジー』の頃から繋がりがある。ノーランのシリーズでは『バットマン ビギンズ』で「人は這い上がるために落ちる」のだと語り、『ダークナイト』でもジョーカーは「人は背中を少し押すだけで簡単に落ちて(堕ちて)いく」と語る。その度にバットマンは這い上がり、人の不屈さや可能性を証明し、人々にそれを信じてきた。つまり「落ちる」行為を堕落や人の悪性として表し、そこから昇ることにこそが重要として、人の不屈さや高潔さへの"信頼"を表してきたのだ。それらはバットマンが井戸に落ち、父や信頼できる大人に救われてきた過去をルーツとしたからこそだ。

対して本作のバットマンは、「落ちる」という行為をこれまでのディテクティブ・ノワールの印象と一転し、ヒーローとしてのバットマンを描くために用いる。それが示されるのは、クライマックスのテロ襲撃のシーンだろう。ゴッサムの水道の要所が爆破され、ベラ・リアルの集会会場も水没し始めている。そんな混乱の中で頭上には、漏電しているケーブルが垂れ下がり、もし水面に触れてしまえば、多くの人が死ぬことになる状況。バットマンはそれを高い所から眺める。高所にバットマン、低所に住民の構図がここに生まれたこの瞬間、初めて彼は、事件の捜査や犯人を追い詰めるためではなく、人を助けるために「落ちる」のだ。一度ケーブルにぶら下がり、切断とともに自身も水面に落ちているのは「降りる」ではなく、「落ちる」を強調するためだろう。

本作のバットマンは、間違いなく両親を殺された子供、つまり被害者としての側面と復讐者としての側面を持つ存在として描かれている。だが、彼は金銭的に恵まれ、復讐の方法を持つ特権階級の存在であることもまた事実であり、リドラーはまさにそんな欺瞞を突いてきた。

リドラーによってブルースとしても、人より恵まれていたことを知り、バットマンとしても自らが高い所に立ち、ゴッサムという"底"とは違う場所で生きていたことを自覚したとき、自らの意思で、底の住民を救うために「落ちる」のだ。そこには同じ高さで、寄り添おうとする"隣人"としてのヒーロー像が描かれていた。その後のエピローグにおける泥まみれのバットマンは、これまで常に夜に行動していた彼が、日光に晒されて尚、コスプレ変態野郎ではなく、ヒーローとしての強度も持っていたからこそカッコいい。そして恐怖の象徴ではなく、人々に"安心"をもたらす存在に生まれ変わったのだと、分からせるシーンにもなっている。3時間の映画の内で、クライマックス以降の僅かな時間で、バットマンは見事にヒーローとなったのだ。

本作は「何かを暴く」という言葉が非常に似合う映画であり、真相や正体を「暴く」ことによって物語に進んでいく。だが、この「暴く」という行為が如何に空虚であるかも描いている作品に思える。真相や正体が暴くことは、過去を掘り返すことだといえるが、そんなことよりも、今「変わる」ことにこそ意味があるように思うのだ。「暴く」ことに注力し、迷路に迷い込んでしまったバットマンが、最後に「変わる」ことによってどこか晴れたような印象を受けるのは、そのためではないだろうか。